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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

心を解放する学び 〜私の米留体験〜

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  • 1928(昭和3)年生まれ
  • 瀬名波 榮喜さん(せなは えいき)

TIMELINE関連年表

1928
久志村三原(現・名護市)に生まれる。
1944
県立沖縄農林学校(現嘉手納町)に入学。3か月後、飛行場や陣地構築の作業に動員され、授業はできなくなる。
1945
米軍上陸前の3月、最後の親面会として生徒に一時帰宅指示が出る。米軍の空襲から逃げるため、家族らと自宅近くの山中に避難。学校に戻れず、結果的に救われた。
1946
県立北部農林高校に編入学。48年小学校、50年中学校の教員となる。教職の傍ら49年沖縄外語学校名護分校訓練科卒業。52年北農助教諭になる。
1957
琉球大学文理学部英文科退学、セントラル・ミズーリ州立大学に編入。
1963
アメリカ留学経験者の親睦団体である金門クラブにおいてキャラウェイ高等弁務官が「沖縄の自治は神話である」と演説する。
1969
佐藤・ニクソン共同声明。1972年の沖縄返還。
1977
カンザス大学大学院(博士課程)英文学専攻修了。
2006
名桜大学第4代学長に就任。(2014年3月まで)
2020
第32軍司令部壕の保存・公開を求める会発足。

STORY証言

証言者略歴

 名桜大学第4代学長。「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」会長。元全学徒の会共同代表。
 県立農林学校入学3か月後には戦争の影響で授業ができなくなる。戦後、2度の米国留学を経験し、博士号を取得。琉球大学教授を経て、名桜大学に移籍し、「公立法人化」に尽力する。
2017年「瑞宝中綬章」受賞。2025年 沖縄県功労者(平和・人権推進部門)表彰。

幼少期~高校生時代

幼少期のころ

 出身は名護市字三原(旧久志村)です。私は9名兄弟の3番目です。父は海軍でしたが、沖縄戦で戦死しました。末の弟はわずか一歳で亡くなってしまいました。

北部農林高校時代

 昭和19年 県立農林学校(現 北部農林高校)に入学しました。大志を抱いて入学はしたものの勉強するどころではありませんでした。学生生活は3ヵ月で終わり、学寮を追い出され、校舎は第32軍の山部隊に接収されてしまい、私たちは毎日、陣地構築に駆り出されました。米軍の上陸に備えて、3、4mぐらいの穴を掘って、アメリカの戦車が来たときにはその戦車を我々が掘った穴の中に落とし込む。後方のタコツボ壕に1人隠れて手榴弾を投げこんでアメリカの戦車を爆破するという訓練に従事していました。

 戦中は全く、勉強が出来ず、戦後になると北部農林高校に元県立農林学校の学生84名が集まりました。北部農林高校は米軍の管轄でしたので北部農林高校のテント小屋に米軍が毎日来ていました。それから西洋豚(バークシャー種)や牛、ヤギなどをアメリカから取り寄せて牧場も作っていました。当時、北部農林高校の校長は農場試験場長も兼任していました。しかし、アメリカ的な教育が上手くいかず、試験場と学校は分離してそれぞれ独立しました。

1度目のアメリカ留学

アメリカ留学への憧れ 

 沖縄外語学校の名護分校があったころ、そこで、大田昌秀先生(元沖縄県知事)に英語を教わりました。先生は師範学校の健児隊の出身で、その頃、沖縄外語学校を卒業して名護分校で教えていました。

 当時の「登竜門」は2つしかありません。1つは「日本本土への留学(国費)」です。もう1つは「アメリカ留学(米留)」です。私は試しにアメリカ留学を受験すると合格しました。それで、私の夢は既に米国のキャンパスを駆け回っていました。2次試験まで合格して、いよいよ米国に行けるところで、自転車事故を起こしてしまい、4カ月間の入院生活を送りました。これは我が人生で、泣ききれないほどの悔しさでした。

 その後、私は健康を回復すると、また、意欲が湧いてきて、もう一度、米留学を受験しようとしましたが、前回の米留試験とは受験資格が変わっていました。米留の受験資格は「大学2年課程を修了しているものとする」と、そのように受験資格が変わりました。当時、私は高校卒です。以前は高校卒が受験出来たけれど、それが出来なくなりました。1950年には琉球大学が開学していたので、北部農林高校の学生たちと一緒に琉球大学を受験しました。

 琉球大学に入学したのは1954年です。2年生になると同時にアメリカ留学の試験を受けました。そして最後の学部学生としてアメリカに派遣されました。当時、 いろいろと留学前に気遣った事があります。「CIC(米陸軍対敵諜報隊)」というのをご存じですか。CICの情報工作員があちこちに潜んでいました。琉球大学の先生方の動向を把握していました。琉大生の動向についてもCICは監視していました。もし CICに捕まったら最後、アメリカ留学は取り消されます。

軍用船に乗りアメリカ西海岸へ

 米国行きの船に乗ることができました。米国行きの船は軍用船でした。米軍の将校クラブの将校たちはデッキ近くに特別室が用意されていました。我々は船底近くの部屋です。アナウンスがありました。「Compartmentment six」(6号室の学生たち、聞きなさい)「Report to the mess hall」「Mess hall」(軍の食堂)」と言うので食事だと理解しました。「食事を逃したら大変だ」と思い大急ぎで食堂に行きました。軍隊用語なので「Now here this(これを聞け)」船の中のアナウンスはこのような命令口調です。

 2週間の旅を経て船はゴールデンゲートブリッジ(金門橋)の下をくぐって行きました。船が金門橋をくぐってアメリカに着くと驚きました。我々は 大学に配置される前にオリエンテーションを受けました。その研修の中にはホームステイも入っていました。ホームステイでアメリカの文化の程度がどれほど高いか分かりました。我々に留学先の大学の選択は許されませんでした。IIE(米国国際教育研究所)が我々の世話をしていました。私はセントラル・ミズーリ州立大学に配置されました。

1957年 ミズーリ州での大学生活

 ミズーリ州の駅に着くと、白髪で年配の女性教授がいました。彼女は外国人留学生の部長で私を迎えに来ました。寮に案内されて学生生活でやってはいけない事を3つ注意されました。

 1つは「Long distance call(長距離電話)」です。お金がかかるから絶対にやってはいけない。もう1つは「タクシーを使わないこと」です。これもお金がかかります。あと1つ。これが大事でした。黒人に対して「ニガー」「ニグロ」などと絶対に言わないようにと教えられました。私がどう呼べばいいかと尋ねると、「Colored person(有色人種)」だと教えられました。

 アメリカでは駅へ行くと看板が立っているのです。一方には「For the colored(有色人種用)」もう一方は「For the white(白色人種用)」と書かれていました。我々、日本人は有色だから有色人種用へ行こうとすると、「君たちは違う、白人用へ行きなさい」と言われました。停留所などで 「Segregation(人種隔離)」という黒人に対する差別があると初めて分かりました。案内された寮では黒人の学生が3名ほどいました。ところが、彼らの住む場所はウサギ小屋みたいな所で我々は2階建ての立派なビルに住むことになりました。当時、我々留学生の生活費は130ドルでした。それから学生保険や授業料も政府から支給されました。私は最初、寮の1人部屋に入りました。シングル(1人部屋)に入ると友達もいないし、英語も上達しないのでダブルルーム(2人部屋)に変えてもらいました。同部屋の彼は数学専攻の2年生でした。

 寮生活は順調でしたが、米国人のルームメイトが「君たちに僕の父は殺された」と、私に言いました。
これには返す言葉もなくショックを受けましたが、「君も父親を亡くしたけれども、僕も戦争で父を失った。戦争とは国対国の問題であって、個人対個人の問題ではない。」と言ってルームメイトと仲直りしました。

沖縄に対するアメリカ人の認知

 アメリカの人々は沖縄について殆ど知りませんでした。私が違和感を覚えたのは「Japanese(日本人)」として扱かわれなかったことです。「日本人」ではなく「琉球人」として扱われました。「インターナショナルクラブ」という留学生の集いがありましたが、そこでも「日本人」として扱ってはくれませんでした。当時、沖縄はアメリカの支配下にあったので、日本人とは区別され「琉球人学生」と呼ばれていました。私自身、戦前は日本人としての教育を受けてきたので、「琉球人」と呼ばれ、アイデンティティーを喪失しました。

人種差別や歴史認知のギャップ

 それから、歴史の授業のときにアメリカの横断鉄道を建設・整備していた時代、アメリカ人は我々東洋人を「Oriental People」と呼びました。「Asian(アジア人)」ではなく「Oriental(東洋人)」と言いました。アメリカ横断鉄道の敷設労働者として中国人や日本人がいました。東洋人を連れてきて、鉄道敷設の肉体労働をさせていました。歴史のテキストにも書いてありましたが、背が低く、忍耐力がある東洋人を使ったと書かれていました。

1963年 キャラウェイ高等弁務官 「自治は神話」発言

 安里源秀先生が琉球大学学長の頃、私は留学から帰ってきて安里先生直属の秘書になりました。キャラウェイ高等弁務官が金門クラブに来た時、現在のハーバービューホテル内に将校クラブがありました。
当時の将校クラブに普通の人は入れませんでした。キャラウェイが金門クラブの集まりで、「沖縄の自治は神話である」とスピーチしました。講演の中で話されて、だいぶ問題になりました。

 その後、金門クラブの理事に同行して高等弁務官への表敬訪問に行きました。その時、キャラウェイが「What is autonomy?」と言いました。「自治とは何か」と言って、自問自答していました。「Let me see a dictionary」(辞書を調べてみよう)と言いながら出て行って、ウェブスターの辞典を持ってきて調べると「自治」とは自分自身が治めること、「セルフコントロール」のことだと書いてあると、キャラウェイは言っていました。

 その時、私は直感しました。言葉を理解するには2通りの見方があります。1つは 「Dictionary meaning」(辞典的定義)です。ところが言葉というのは電気の充電と同様に使われる間にチャージ(付加)されます。言葉に新しい意味が付与されていきます。「自治とは何か?」という言葉が使われる間に意味が付加されていきます。言葉には2通りの意味があるのに「彼は辞書通りの解釈しか知らない」と思いました。彼がスピーチで言ったのはAutonomy(自治権)を持つ都道府県を示していたと思います。「自治権がある場所など何処にも無いだろう?」と言っていました。金門クラブでのスピーチはそのような意味だったと思います。

2度目のアメリカ留学

1966年~1970年 2度目の米留学

 アメリカから帰国し、琉球大学に勤めている時、当時の琉球大学には博士号を持つ人がほとんどいませんでした。日本本土の大学並みに博士号を持つ人を輩出するべく琉球大学に博士課程を設置しました。

 第一期は4名がアメリカに博士課程として派遣されました。アメリカでの博士課程は最初は「Aspirant」。   
 「Aspirant」は博士課程志願者でこれは何も資格を問いません。「PhD candidate(博士候補学生)」として選ばれるのは博士論文を書く資格者のことです。まず、最初にドイツ語、フランス語、ラテン語3つのうちから2カ国語を選択して、それに合格しないといけない。これが第1段階です。

 次の段階が「Comprehensive examination(総合試験)」。これが試験地獄です。この試験は命をかけて取り組まなければなりません。その試験のためだけに4年間勉強しました。その試験に合格できるのは 受験者の2、3割程度です。地元の学生や留学生も含めた合格率です。私の場合、専門が英米文学だったので、英米文学を6つの分野に分類しました。1つは「アングロサクソン文学」5世紀から1066年までの分野です。2番目が「中世文学」3番目が「ルネッサンス文学」4番目が18世紀の「古典主義文学」5番目が19世紀「ロマン派(主義)文学」6番目は「20世紀以降の英米文学」この6分野を筆記試験で4時間。1つの解答に4時間かけました。「アングロサクソン文学を分類せよ」という課題が出たら、1つの問題を4時間書きっぱなしです。もう、とにかく大変でした。「総合試験」のときに頭の中に叩き込んできた賜物としてシェイクスピアの劇は未だに全部頭の中に入っています。『ハムレット』で「人生とは何か?」と問うと「人生とは劇場だ」と言います。「人間とは何か?シバイシー(役者)だ」と言っています。「A poor player that struts and frets own his award.」「Full of sounds and fury,significant nothing.」このような事を言っています。「人生とは舞台だ。舞台の上に立って、そして、役者があれやこれや喋りまくって時間を過ごす。」「Full of sounds and fury.」「舞台で喋りまくって、騒音と怒りに満ちている。」「人生とは芝居みたいなもの。いつか舞台の上から消えてしまう。これが人生なんだ。」と言っています。

 学位論文の次は「Defense(博士課程の最終審査会)」があります。「Defense」は学位論文が出来て審査を受ける前に6名の試験官に学位論文を提出します。6名の試験官が揃って審査しましたが、だいたい1時間ほど質問を受けました。最終審査会が終わり、主査の教授がやってきて「Congratulations! Dr.Senaha」(おめでとう 瀬名波博士)と言われました。初めて「博士」と呼ばれました。先生方が留学生として「Non-native speaker of English」私が英語を母国語としない外国人として英文学の博士号をもらった第1号だと教えてくれました。総合試験に4年間の準備を与えてくださった琉球大学に対して感謝しています。当時の米国留学制度がなければ今の私はありません。

アメリカ教育の良さはDiscussion(議論)

 戦前の教育は明治憲法をもとにした教育でした。私たちが受けた教育は軍国主義教育。天皇を中心とした教育を受けてきました。戦前の教育は「皇国思想」が大きな問題だったと思います。アメリカの教育の良さはDiscussion(議論)があるということ自分自身の考えを持つように教育する。戦前、日本の標語で、「一億一心」と言われていました。当時、日本国民の1億人が心を1つにするという意味です。現在 ある1つの目標を掲げて、それに対し人々を統一する教育をするようでは日本が戦前回帰するのではと心配をしています。

心を開放する学び リベラルアーツ

 アメリカでは「リベラルアーツ(教養教育)」があります。リベラルアーツの精神は 「心を開放する」ことです。心を閉ざしてはいけない。学問は自分の専門だけではいけない。例えば、専攻の英文学だけを 学ぶという考えではいけない。物理学や動物、植物の研究もやるようでなければいけない。「心を解放する」ということは「広い世界を見ること、偏見を抱かないこと」心を解放することは真理に到達するために必要な事です。
私は名桜大学でもそのように話していました。名桜大学の建学の精神に「平和」「自由」「進歩」があります。「平和」「自由」「進歩」がなぜ必要か?平和がなければ自由はない。自由がなければ進歩はないということです。

第32軍司令部壕保存・公開の使命

 私は現在、第32軍司令部壕保存・公開検討委員会の会長を務めています。目的は何かというとやがて復元される首里城は琉球王国文化の粋として琉球王国の繁栄の象徴と言えるでしょう。そして、首里城の地下に眠っている司令部壕を「平和の砦」にしたいと考えています。人間性を失った沖縄戦のような野蛮なことが起きないように第32軍壕を「平和の砦」にしたい。「人間性回復の砦」にしたい。以上、2つの考えが私の哲学です。第32軍壕保存・公開の使命はこの2つに集約されています。

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