
コザのステージは「戦場」だった
- 1951(昭和26)年生まれ
- 宮永 英一さん(みやなが えいいち)
TIMELINE関連年表
| 1951 |
那覇市生まれのコザ市(現・沖縄市)育ち。
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| 中学生時代 |
コザ中学校に入学。ブラスバンド部でトランペットを担当する。その後、ベンチャーズに憧れ、ギターを始めるが、バンド結成時ジャンケンに負けドラマー人生を歩む。
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| 1965 |
米軍、北ベトナム空爆。ベトナム戦争が本格化し、沖縄から多くの米兵が出兵する。
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| 1971 |
ライブ後、帰宅途中にコザ暴動の現場を目撃。
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| 1972 |
沖縄の施政権が日本に返還される。(本土復帰)
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| 1975 |
ベトナム戦争終結。沖縄国際海洋博覧会開催。
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| 1975 |
紫」が大阪万博広場「8・8ロックデー」で日本初上陸し、一瞬で観客の度肝を抜く。
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| 1978 |
コンディショングリーンのメンバーとしてアメリカツアーに参加。ロサンゼルスの 沖縄県人会との交流。
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| 1998 |
ロック音楽家の地位向上のため、沖縄県ロック協会発足。会長に就任。
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| 2025 |
大阪・関西万博「阪神淡路大地震から30年復興ミュージックフェス」で演奏。
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STORY証言
証言者略歴
「沖縄ロック協会」初代会長。沖縄ロックの第一世代として、ロックバンド「紫」や「コンディショングリーン」などのバンドでドラムやボーカルで活躍する。
ライブハウス「CANNON CLUB(キャノンクラブ)」オーナー
コザの街で音楽と芸能にふれあう
物心ついてから僕がオバアちゃんに預けられたのが八重島です。昔、八重島は「ニューコザ」と言われていました。幼少期はその裏町でオバアちゃんと過ごしました。僕は手に負えない子どもでした。当時、僕を預かった人たちはみんなギブアップしましたね。「アジカチトラティヌ ナ―アランヤーヤ ムヌ遠慮ハネーランヤ ヤナワラバー」(預かったのはいいけど、遠慮のない悪い子だね。)と言われました。
出身校はコザ幼稚園、コザ小学校、コザ中学校生です。粋のコザ生まれ、コザ育ちです。僕は音楽が好きで、学校唱歌も好きでした。オバアちゃんには「繁華街へ行かないように」と言われていたけど、夜な夜な家から出て行って、ジュークボックスから流れてくる洋楽を聴いていました。幼い頃から音楽が好きでした。
当時は「嘉間良劇場」や「自由劇場」の2つの大きな劇場がありました。当時はいい劇団が多かったです。「ときわ座」、「大伸座」、「与座ともつね一行」、「でいご座」、それから宝塚のような女性劇団「乙姫劇団」がありました。当時は日本語を使う劇が一つもありませんでした。だから「方言」ではなく「琉球語」でした。
僕を育てたおばあちゃんはコザの人ではありません。もともとは「スイ ナーファンチュ ヤミシェーグ」(首里 那覇の人です)ひとり暮らしのオバアちゃんに僕の母が話をつけて僕を預かってくれました。オバアちゃんは芝居が大好きだったので劇団が来るたびに連れて行ってもらいました。「琉球音階や琉球言葉、そして、琉球の歴史を取り入れたのが僕の音楽です。」というような 説明を自分のライブの時にしています。それはオバアちゃんと一緒に見た芝居の影響です。真喜志康忠さん、大宜見小太郎さん、仲田幸子さんも大御所ですね。仲田幸子さんはあの頃からお笑いのセンスが素晴らしかったです。琉球語の難しい言葉はわからないけれど、劇の雰囲気でなんとなく理解していました。
小学校では合奏部に入りました。鼓笛隊では太鼓を叩いていました。そういう活動をしていましたが、どうも物足りなく感じていました。ある時、トランペット奏者ニニ・ロッソの「哀愁のヨーロッパ」を聴いて、それに感動して、小学校5年生からトランペットを吹いていました。中学校は吹奏楽部に入部しました。当時、楽譜はありましたが、僕はそれを見ないで耳で聞いて覚えました。僕は曲を全部メロディで覚えて楽譜を一切見ませんでした。
僕らが中学生の頃、ロックを始めるきっかけは「ベンチャーズ」です。各学校に必ずグループがいて、10名から20名ほどギターを弾ける子がいました。コザ中学校にもギターを弾ける子が10名ほどいました。「じゃあ、バンド作ろう!」と言って全員ギターを持っていました。そこで、大変なことが起きました。僕はジャンケンで負けて一番嫌だったドラムの担当になったのです。それが僕のドラム人生の始まりです。人生思うようにはいかないのがスタートラインですね。
ミュージシャンが見たコザの街と米兵
コザのステージで音楽を生業とする
中学卒業後、バンドのメンバーはみんな高校に進学してしまいました。僕一人取り残されて、一人だけで練習を続けていました。そうこうしているうちにクラブの親父がメンバーを見つけてくれて、卒業してすぐにバンドをやるようになりました。2年間は給料を貰えなかったけれど、曲を覚えるのが楽しくて仕方がなかったです。給料のことは考えたことがありませんでした。給料を貰えるようになったのは2年後、17歳あたりからだったと思います。
当時(朝鮮戦争の頃)は若い兵隊はあまりいませんでした。なぜなら、第二次世界大戦が終わり古参兵が多かったからです。第二次世界大戦が終わる間際に入隊して、第二次世界大戦に参加できなかった兵隊が朝鮮戦争に行かされていたので、沖縄には若い米兵はあまりいませんでした。
朝鮮戦争が終わってベトナム戦争が始まると、兵隊として志願した若いアメリカ中の不良少年が多く来ました。「BCストリート」は白人限定の場所でした。「BCストリート」だけでなく「ゲート通り」も白人だけの場所です。南部のミズーリ州出身やテキサス州などのアメリカ南部の人たちは白人社会の中でも特に親から徹底的に差別意識を叩き込まれていたため、沖縄に来てからも差別意識を出していました。若い米兵たちは最初の頃は音楽を求めていませんでした。無理やり兵隊に取られているから、とにかく酒や女、ドラッグを求めていました。その人たちがヤケになって、やりたい放題でした。彼らは二十歳前後です。僕も同じ年頃だから「この野郎」と思うじゃないですか。それに若い米兵たちが僕らを見る目つきが気になりました。僕は初めて人間として見られていない目つきを味わいました。
沖縄の中でもやはり差別意識はありますよ。「ヤーナーファンチュデヤリ?ヤーヌー八重山ジューテーヤンディヤー?」(お前は那覇の人間か?お前は八重山の人間か?)とかね。宮古の人やヤンバルの人は「ヤーナークー」「ヤンバラー」と言われる差別がありました。それはまだ可愛いほうで、私は若い米兵から人間として見られていない目つきを受けたときに「ここは沖縄だよ、おまえたちの島じゃないだろう。人の家に土足で上がり込んでやりたい放題やって、それは絶対許さんよ」と思いました。私は誇りを踏みにじられることに対する怒りが止まりませんでした。その思いがずっと自分を支えてきたと思います。
音楽は戦う手段
中学校の頃までは「楽しい」音楽でした。ところが、若い軍人、いわゆるアメリカの不良少年相手の仕事ですから彼らが要求するものが選曲の基準となりました。自分たちが演奏したい曲ではありませんでした。僕らが始めた頃に流行っていた「ローリングストーンズ」や「アニマルズ」は当時はもう流行りの音楽ではありませんでした。若い人たちはそれをリクエストしてきません。だから、初めて聞くバンドの曲のリクエストに次から次へと答えないといけませんでした。演奏ができないと仕事になりません。当時のバンドの契約は最低半年から1年の間でしたが、客がいなければ翌日からクビになります。完全に店にとって都合のいい契約でした。米兵のリクエストを受けて演奏していましたが、最初は下手だったのでビンや灰皿を投げられました。
僕らはレコードを入手することができなかったけども彼らが好きな音楽のレコードを持ってきてくれました。それで、音楽好きの連中が店に集まって来ました。「これを演奏しろ」とレコードを持ってきました。それは見たこともない、どんな音楽かもまったく分からない曲でした。僕らは「やれ」と言われたらまず、レコードを借りてテープに録音しました。そのテープをバンドのみんなに分け、それぞれの分担する楽器の練習をします。僕はドラマーだからドラムだけを聞いて覚えます。ギターやベースの担当も責任を持って練習しました。音楽が本当に好きな人はそれに耐えられました。ですから、音楽に本気の人たちだけが残りました。昼の1時から4時頃まで練習して一度家に帰ります。夜は本番のステージです。そこで下手な演奏をすると「お前らの雑音止めろ!」と言われました。それでこっちも悔しいから「One week, One more week.」とお願いしました。こっちも馬鹿にされたくないから1週間待ってもらって、次に彼らが来た時に演奏をします。まだ納得されないとさらに1週間待ってもらって演奏する。毎日演奏するからだんだんと演奏が良くなってきて客が満足すると次に難しい曲をリクエストされました。それの連続で毎日、審査員がいるようなものでした。
曲をリクエストしてくる客は音楽をやっているか、バンド好きなバンドオタクの客です。僕らにあれこれ要求してきて曲にも詳しいです。適当な演奏はすぐにばれるから下手な真似はできませんでした。要求されるハードルが高く、彼らが納得するまで演奏しないといけませんでした。
商業の中心地BCストリート
「コザ」は面白い街です。特にBCストリート(Business Center Street)は米軍の四軍が集まるような世界でも珍しい場所です。彼らがここに来るのは週末だけではありませんでした。沖縄にいる間、頻繁に来ていました。週末になると基地には女もいないし、音楽やバンドもないから彼らはコザのライブハウスに集まりました。四軍とも音楽の好みが全く違います。アーミー(陸軍)とマリーン(海兵隊)は大きく分けたら似ている。エアフォース(空軍)とネイビー(海軍)はエリート意識のある音楽が好みでした。エアフォースとネイビーの好みはブリティッシュ系でした。アメリカ系はアメリカンハードロックのグランドファンクとか音楽構成よりも「ガンガンガンガン」とやる音楽が好きです。軍の所属により音楽の好みがはっきり分かれていました。でも、どちらからもリクエストが来るから全部演奏しました。客のリクエストどおりに演奏をしました。最初は何か分からずに毎日、何百回もやっていたので、曲が身体に染み込んできます。次にどんな難しい曲が来ても流れが見えてくるのです。次第に曲を覚えるのに時間がかからなくなってきます。そういう意味では凄い修行の場だったと思います。
僕らは2年間で上手に演奏できるようになっていました。だから米兵のファンがいました。その頃はベトナム戦争も過渡期になっていました。1970年あたりから様相が変わってきました。1971年や1972年の復帰前後あたりは負け戦が見えてきたから彼らの表情も変わってきました。これまで好き勝手に僕たちに要求していた客が最後には「Please play for me」(俺のために演奏してくれ)と言うようになりました。僕らはコザにいたからこそ米兵が変わっていく姿を見ることができました。
「コザ暴動」が起きた日
その時、ちょうど僕は今のミュージックタウンの真向かいにあるライブハウス「アスターハウス」でライブをやって終わったのが夜中の12時半ごろでした。片づけも終わって那覇方面に向かって歩いて帰っていました。現在のコンビニがある場所の近くで 交通事故が起こりました。外国人の車が沖縄の人を跳ねたのです。周辺に来ていた客たちは跳ねた場面を見ていました。野次馬は夕方の5、6時から飲んでいたのでみんな酔っぱらっていました。酔っぱらっている人たちが騒ぎ始めたから駆け付けていた米軍のパトカーの警官は被疑者が危なくなると思ったのか、被疑者を乗せてその場から去りました。それからコザ暴動が始まりました。僕はその場面を最初から見ていました。コザで起きたから「コザ暴動」と言われていますがコザンチュ(地元がコザの人)は殆どいませんでした。
僕が子供の頃に暮らしていたいわゆる「ニューコザ」は戦後、最初の繁華街です。それがある事件をきっかけにオフリミット・プレイス(立入禁止区)にされたことがありました。立入禁止区域には誰も入れません。米軍でも来てはいけません。その影響でそこで仕事をしていたクラブのオーナーやホステスたちはみんな仕事を失いました。
その後、「BCストリート」がどんどん賑やかになってきて、ゲート通りも入れると以前よりも10倍以上の賑やかな場所になりました。それだけ多くの人たちがそこで仕事をしていたのです。もし、再びその場所でオフリミットが起きたら、どれだけの人が仕事を失うと思いますか。これは大変なことです。
実はその日(12月20日)の昼間には「毒ガス撤去総決起大会」といった大きな集会がありました。日教組や高教組、政治団体も含めて色々な人たちが集合していました。その集会が大体、昼の5時には終わります。集会が終わって流れて来たのが今のミュージックタウン、中の町の中通りです。みんなは夕方の5、6時から飲み始めているので夜中の12時から1時ごろには酔っぱらっています。
米兵が人をはねた後、MP(軍警察)が事故を起こした被疑者を連れて行ってしまいました。残された米兵の車を群衆たちが揺すって引っくり返しました。車をひっくり返したら周辺に散らばっている煙草の吸い殻にガソリンが流れてきて引火しました。これが最初の火元です。その場にコザンチュが全くいなかった訳ではありません。コザンチュでも例えばBCストリートやゲート通りから一通り離れた諸見と中の町の人たちは怖がって、コザに来ないからこの通りには絶対来ません。同じコザンチュであっても少し離れただけでここは異文化で怖い場所です。そこの人たちは参加したかもしれないけど騒動が起きたのは夜中です。その人たちが夜中に起きていたか分かりませんが飲みに来た連中にはコザンチュはいないと思います。コザンチュがやってない「コザ暴動」ですね
海外ツアーを通して気づいたこと
海を渡りアメリカでの演奏
「紫」が1978年に解散してすぐに僕は「コンディショングリーン」に合流しました。解散した年かその翌年ごろにロサンゼルスに行ってレコーディングとライブツアーを3カ月間やりました。それがはじめての海外公演です。
当時、ロスの県人会にはお世話になりました。ライブにも来てくれました。その時、「イッタ―英語 ナトゥネーランドォ」(君たちの英語はなってないよ。)と言われました。沖縄とアメリカの観客の反応が全く違いました。沖縄での観客はベトナム戦争に行く兵隊ですから若くて激しい音楽を求めている人たちです。ところがアメリカ本国の観客は普通の人です。軍人でもなく、若者ばかりでもありませんでした。彼らは僕らの演奏を見て、「イッター 音楽 ウレー チャーナトーガ イッター ウリサーンカイ ウチナーディソータンナ」(君たちの音楽。これはどうなっているんだ。君たちはこれを沖縄で演奏していたのか」)と言いました。「ウー ワッター チャクー ムルアメリカー ヒートヤレームル」(そうですよ。我々の客はみんな米兵ですから)と言うと「アーハー ナルホドヤ」(そうか、なるほどね)と言われました。
アメリカ本国で演奏をすると観客は歌をしっかり聴いているし、歌詞の意味を聞いてもらえました。僕らの「コンディショングリーン」はショーマンシップが強いバンドでした。兵隊たちを脅かすために何でもやるバンドだったのでいつも通りのライブをするとアメリカの人はみんな驚いていました。「イッターヤー デージヤサヤ イッター ウチナーンチュアラン」(君たちは大変なことをしている。沖縄の人じゃないよ。)「ウチナーンチュ イランキヨ」(沖縄の人間と言わないでくれ)と言われるぐらいでした。演奏はいいけど、歌はしっかりと歌わないとやけっぱちの言葉では本場で納得させることはできないと感じました。その時、僕はボーカルの重要性に気付いて、沖縄に戻ってきてからボーカルに転向しました。
琉球音楽とロックの融合
「Iwanna hear your real music」(お前の本当の音楽を聞かせてくれ!)
兵隊たちに言われたその一言が僕を「琉球音階」に引き戻してくれました。「君たちが上手なのはわかった。もう、彼らよりすばらしいよ。君たちは本物だ。だから、そろそろお前たちの本当の音楽を聴かせてくれ。」と言われました。
そうは言ってもいきなり琉球民謡を聴かせるわけにいきません。自分のメロディに琉球音階をセンスよく生かさないといけません。琉球音階だけの演奏だけだとただの琉球民謡になってしまいます。それではロックではない。自分なりにアレンジしてどのように琉球音階を生かしていけばよいか。私に新しい課題ができました。民謡は子どもの頃から聴いていた蓄積は沢山あったけど、洋楽を聞き始めてから全部忘れていました。
小学校の学校唱歌もあったので日本の音楽も好きだけど「ベンチャーズ」がもっと好きでした。それから、中学時代のブラスバンドで演奏する吹奏楽のジャンルはクラシックですよね。クラシックの曲も洋楽で「ベンチャーズ」も洋楽だったので僕はずっと「洋楽」の世界にいました。
僕らはオリジナル曲もありました。これはブリティッシュロックの流れでした。ブリティッシュロックにもアメリカンロックにも似ていました。その曲も悪くはないけれど、「本当のオリジナリティーは感じないな」と言われました。どういう意味かと思ったら、要するに「琉球」です。そこで初めて気づいて、考えてみると、僕らが「ブリティッシュ音楽」や「ハードロック」と言っていた曲はもともとヨーロッパ系の音楽です。特にブリティッシュはイギリス系のことですね。その中で「プログレッシブ」はクラシックを融合した音楽です。「スコットランド民謡」や「アイルランド民謡」はヨーロッパの「わらべ歌」のようなもので民謡のメロディーラインの良さをアレンジした曲づくりでした。それが分かった時、「アンシェー アヌイッターベースンカイアシェー 民謡ディヤムンナ トゥウリヤサ」(そうか、彼らの基礎は民謡なんだよ。そう、これだよ。)私は子どもの頃から聴いていた民謡を置き去りにしていました。そのときから僕の考えはそっちの方に傾いていきました。
1980年代には僕はボーカルとしてデビューし、沖縄で「ピースフルラブ・ロックフェスティバル」を作りました。「琉球シリーズ」は1986年ごろから始まってようやく形になってきたのが1980年代の後半でした。やはり琉球王国独自のものがいくつもあります。琉球音階があり、琉球独特のリズムもあります。そして琉球語や歴史もあります。でも、琉球シリーズのバックグラウンドは実はハードロックです。琉球シリーズは1993年に出来上がって1994年にはアルバムができました。それを発表するのは日本でも沖縄でもありませんでした。3年間、ロサンゼルスにいる間にそこで発表しました。
いろいろなメディアから取材がありました。ロスの日本語・英語の新聞社「羅府新報」からも取材を受けました。「What kind of music is this? 」(これはどんな音楽ですか)と言われたとき、どんな音楽かと考えたこともないし、「I don’t know how to say」(何といえばいいのか分からない)と答えました。「じゃあ、逆にこれを一度聴いて、もう一度インタビューしてください。」と伝えました。
次に彼に会ったとき「I think it’s so new age music.」(新しい時代の音楽ですね)と彼が言いました。当時の変わった音楽は 「ワールド・ミュージック」が主流でしたが「ニューエイジ・ミュージック」という言葉が出てきたので僕はぴったりだと思いました。僕は「宮永英一」だけど「ニューエイジ」になりました。
琉球シリーズツアー「WAKE UP 琉球」
1993年には「琉球シリーズ」のアルバムを発表しました。発表する場所は沖縄ではなくロサンゼルスでした。1994年から1997年後半まで3年間ロスにいて、そこで「琉球シリーズ」を発表して大正解でした。「琉球」は南は与那国、石垣、宮古島から沖縄本島、各島々です。北は与論島から沖永良部、徳之島、奄美本島です。
僕は2年前、喜界島までを「琉球」だと示すためにツアーをやりました。祖国復帰50周年を記念して「WAKE UP琉球 目を覚ませ琉球」というタイトルで琉球列島ツアーをしました。「WAKE UP 琉球」は僕のライフワークです。
オバアちゃんの愛情から学んだもの
僕のエネルギーの源はワッターウチナーンチュのオバアちゃんですね。(私たちの沖縄のお婆さんです)オバアちゃんは僕と血の繋がりはありませんでした。オバアちゃんは自分の孫がいたけれど、自分の孫よりも僕を大切にしてくれました。寝るときも「フチュクルンカイ抱チュルグトゥシ」(ふところに抱きしめるようにして)可愛がってくれました。血の繋がり以上の愛情を僕に教えてくれました。ですから人の愛は血脈だけではないです。それは世界中の人がそうなのだと1人の人間として捉えることができれば戦争なんか起こらないでしょう。その思いをオバアちゃんたちが僕に教えてくれました。僕の起源は全部そこにあります。
若い人たちへのメッセージ
まずはいろいろな夢を持つこと。音楽に携わっている若い人たちも音楽に限らず様々なものに携わって自分の立っている場所をしっかり確認することです。そこで起きている事を絶対無視しないようにしっかり把握する。そうすると自分の方向性や自分がやるべきとこがはっきり見えてきます。だから、まずは自分の立位置をしっかり把握してほしいです。人間として何をすればいいか。何のために生きているのか。生かされているのか。生かされた自分の命をどう使っていくのか。そのように考えたときに方法が見つかってくると思います。僕は迷うことなくもう決まっています。まだ分からない人達は早くそれを見つけてほしいです。僕は「人の役に立つ」ということは相手の立場になって物を考えることだと思います。だから、そんな人にほしいです。





