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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

在本土沖縄県学生会の「祖国復帰運動」

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  • 1945(昭和20)年生まれ
  • 小渡 律子さん(おど りつこ)

TIMELINE関連年表

1945
1月、台湾の蘇澳で生まれる。終戦後東京へ引揚げ、その後小禄村へ
1959
6月、米軍ジェット機が宮森小学校に墜落
1963
4月、国費留学生としてお茶の水女子大学に入学。東京沖縄県学生会の活動に参加
1964
8.15海上集会に向け、東京沖縄県学生会旗を各地の県学生会がリレーでつなぐ
1965
8月、「沖学連結成準備会」が発足し事務局長に
1966
4月、晴海埠頭出航の船で「4.28」海上集会に参加
1967
4月、県立高校教員になる
1970
6月、米兵による女子生徒殺傷事件への抗議集会に生徒と参加
1972
5月15日、沖縄が日本に復帰
2013
3月、「小禄9条の会」を結成

STORY証言

証言者略歴

 国費留学生時代に東京沖縄県学生会の読書会参加がきっかけで、学生会の活動に関わるようになる。
 「沖学連結成準備会」では、会報発行を通じ各地の県学生会との意思疎通を図り、「帰省活動」や宮古島台風被害への支援活動などを成功させる。大学卒業後、県立高校の国語教諭となり、退職後に地元小禄で「小禄9条の会」を立ち上げ、事務局長として平和を築く活動に取り組んでいる。

台湾からの引き揚げから父の故郷 小禄村へ

 1945年 昭和20年 1月1日台湾 蘇澳で生まれました。終戦になり日本人はみんな引き揚げることになって父と母と兄と私4名で引き揚げ船に乗りました。その時は荷物が制限されていたので色々な貴重品を置いてきたことを父と母が私に話してくれました。

 東京の青梅市に母方の祖父の実家があったので1年半ぐらいそこで暮らしていたそうです。沖縄行きの最後の引き揚げ船が出るころ父の留守中、母のもとに引き揚げの担当の役人が来て「沖縄に帰る最後の船です」と言われた母は家族4名で船に乗る事を決意したそうです。当時、私が1歳のころです。

 父の故郷は小禄村の字高良(安次嶺)です。小禄の人達は戦前、日本軍の飛行場に土地を取られ、戦後はアメリカ軍に土地を取られました。住民の大部分が具志、高良、宇栄原に肩を寄せ合うように住んでいました。小禄村の人たちはお金を出しあって田原地域にあった原野を整地し、50坪単位で土地が手に入るようにと期成会が出来ました。「新部落」とい名称で地域を建設しました。そこは現在でも「新部落」と呼んでいます。

影響を受けた恩師との出会い

小学校の恩師と見た初日の出

 小学校4年生まで高良小学校に通っていました。5年生からは小禄小学校に転校しました。5年A組の担任は高良弘英先生でした。

 元旦の朝、高良先生が「初日の出を一緒に見よう」と声をかけ数名の級友たちと一緒に初日の出を見に行きました。小禄小学校の上に字小禄のウガンジュ(拝所)がある高台(森口原)があります。今の森口公園に朝早く行きました。あの頃は木が生い茂ってなかったので漫湖公園がよく見えました。豊見城の根差部付近の山に鉄塔が立っていて、その方角から朝日が昇ってきました。空や湖の色が刻々と変わって見えた感動的な体験でした。その様子についての作文を書くように先生から言われたので「初日の光」という題名で作文を書きました。それが新聞社主催のコンクールで入賞しました。

 その時、私はとても喜んだ記憶があります。生徒に体験をさせる先生を素敵だと思いました。高良先生はとても影響を受けた先生の一人でした。

中学校の恩師と心を動かされた言葉

 当時、小禄中学校と石垣中学校との間で2年間の期限で教員を交換する制度がありました。交換教員として来たのが長身でキリストのような本盛茂先生でした。2年生になると本盛先生が私の担任になりました。私はとても嬉しかったです。私は先生の一言一言を水が砂地に染み込むように先生の言葉全てを吸収しようと熱心に聞いていました。本盛先生の一番典型的な教えが「自分の目で物を見よう」「自分の頭で考えよう」それから「今、役に立つ人になろう」でした。

 アラゴンの言葉も先生に紹介されました「学ぶとは真実を胸に刻み込むこと」「教えるとは共に希望を語ること」と言ったフランスの小説家ルイ・アラゴンの言葉です。私は中学2年生の時にその言葉に出会いました。それをずっと忘れずにいました。私が教職に就いた時も私のベースになってきた言葉です。

高校の恩師の教え

 私が高校1~2年生の時に国費留学生で大学を出られた安仁屋政昭先生と儀部景俊先生のお二人が高校に赴任しました。新進気鋭の若手の血気盛んな先生方でしたので琉球政府が発行していた「守礼の光」をドラム缶に入れて燃やして「こんなものに惑わされてはいけない」と先生はおっしゃっていました。「自分の目で見て考えよう」という言葉が私の中に常にあり自分で確かめるという意識を持っていました。

 2年生の日本史の授業を担当した安仁屋先生の口癖は「~いうことになっています。ところが~」でした。「出来事の裏には庶民のいろいろな思いがあった」「こういう動きもあった」というようにして江戸時代の狂歌や川柳などを紹介しました。「歴史は権力者の都合のいいように語られる傾向にあるから、その裏の裏に何があったか見る目を養わないといけない」とおっしゃっていました。米軍統治下の沖縄では色々な事件や理不尽なことが起きました。私が中学3年生の時には宮森小学校のジェット機墜落事故がありました。とても理不尽だと思いました。その時は生徒会で募金などを集めて送りました。

東京での大学生時代

国費留学生として本土へ渡る

 本土の大学に受かって進学する時には「やっと自分の目で真実を見ることが出来る」と感じたことを今でも覚えています。それほど当時、沖縄は鉄のカーテンか何かで覆い隠されていて、沖縄の人は世界の真実が見えていませんでした。沖縄はアメリカの都合の良いように利用されていると思っていました。当時の私は歴史的な知識は持っていませんでしたが物事について感じとる力などの人間的な土台はこれまでの先生方によって作られたと実感していました。

 あの頃は5色の紙テープがありました。港ではそれを投げ合って賑やかな門出をしていました。船は鹿児島に着いて右手に大隅半島が見えてきました。山の樹の枝がすっと真直ぐに立っていました。それを見て 「これが本土か」と思いました。沖縄のガジュマルは風雪に耐えて曲がりくねっているので樹はそういうものだと思っていました。しかし、この大隅半島の樹はまるで風が当たっていないかのように真直ぐに伸びていたので私は本土と沖縄の違いの一つの象徴だと思いました。それから汽車に乗って27時間急行の汽車で鹿児島本線から山陽本線を通って、東海道本線を行くのですが、その間に見える農村の風景もとても潤いがありました。「日本本土は農村でも豊かだな」と羨ましく思いました。

大学での寮生活

 私は学生時代の4年間、大学寮で生活していました。6畳一間に3名が住んでいて私は先輩たちと一緒でした。寮食は朝食と夜食がありました。2食で90円ぐらいの時代でした。インスタントラーメンが出た時期で乾麺が14円で買えました。国費留学生の学費は免除で琉球育英会から月に3000円ほど生活費の補助があったので親からの送金はありませんが、たまに手作りの油味噌とかを送ってくれました。

東京沖縄県学生会

 4月に入学して5月に大学の先輩から沖縄出身の学生が集う「沖縄県学生会」があるのでそこの読書会に誘われました。約20名の学生が集まっていて沖縄関係の本を読んで質問したり答えたりしていました。みなさんとても真剣でした。当時、私は沖縄の大変な状況を具体的には知りませんでした。私は東京沖縄県学生会の勉強会には必ず行きました。学生新聞に沖縄の社会問題を書いて、寮にあった謄写版を借りて印刷しました。沖縄出身の学生寮である南灯寮や沖映寮、和敬寮に新聞を配りました。また、関西と九州にも「沖縄県学生会」があり、そこにも新聞を送っていました。大学の授業には出ていましたが、集中するものは沖縄問題についてでした。市民の抗議集会や国民大会などがある時にはいつも東京沖縄県学生会の旗を持って法政大学や中央大学、学芸大学、一橋大学の沖縄出身の学生がおよそ10名から20名ほど参加していました。そういう人たちと一緒に集会に出ると私たちのグループから声を出し始めて「沖縄を返せ」を歌って全体を巻き込んでいました

 その頃、沖縄の問題は全国的に注目されてなかったので一生懸命活動しました。週末には御茶ノ水駅や新宿南口駅、品川駅などのいろいろな駅で沖縄を返還させるための国会要請の署名運動をやりました。教宣のビラを作って募金活動をするために駅頭や地下鉄の入り口に立ちました。駅から一度に多くの人が流れてきますが、特に若い女性はビラを受け取りませんでした。あまり署名もしてくれないので最初は惨めな気持ちになりました。「沖縄はこんなにも無視されているのか」と思いました。

 そういうことをやって終わった後に庶民向けの50円の定食を食べに行ったり、学年が進んでからは中野区で新垣さんという方がやっていた沖縄居酒屋に行ったりしました。そこでは男の人たちは泡盛を飲みながら沖縄問題について話し合っていました。「私たちの故郷沖縄が抱えている。問題をどうしたらいいのか」「今度選挙があるから応援をどうしようか」そのような話ばかりでした。私はその人たちを見てとても純粋だと思いました。

 大学にて最初の学生総会の時に私は手を挙げて発言しました。「私は沖縄出身の学生です。沖縄ではこのような事件があります。日本政府は何も言えないので沖縄の人はとても苦しんでいます。それは日本がちゃんと独立してないからアメリカに物が言えないのではないか」というような意見を言いました。寮に帰ると同部屋の人が私に「赤嶺(旧姓)さんは日本語上手だね」と言われました。彼女は沖縄の人は英語で教育されていると思っていたようです。

 そのようなことがあって正しく沖縄を知ってもらうために大学祭で沖縄のことを伝える写真展をしなければという思いが募りました。正しく沖縄を知ってもらうために声を上げていかないと沖縄はいつまでもそのままだと思いました。

 沖縄で棚原隆子ちゃんがトレーラーで圧殺された事件について新聞も扱いますが記事は小さかったです。ところが「しんぶん赤旗」は一面で報道していたので「この新聞は沖縄の事をよく知らせてくれるな」と思いました。ですから私はそれを熱心に読むようになりました。私は親に本土に送り出してもらっているから「報告をしなければ」と思い毎日のように手紙を書きました。1.26横田大集会に行ってきたことを報告すると「私は騙されて学生運動にのめり込んでいる。そんなことをしたらパスポートを取り上げられるのではないか」と親を心配させてしまいました。当時、出入管理部の検印を貰わないと沖縄の港では出入りが出来ませんでした。

「沖学連」の活動

 3年生の時、東京沖縄県学生会の事務局長になりました。全国の県学生会と連絡を取り合い、海上集会の行進が始まったので旗をリレーしました。東京沖縄県学生会の旗をリレーしてそれを各地で繋ぐために各大学に連絡をとりました。沖縄出身の県学生会が無い所は県学生会を作って県学生会がある所は継いでほしいと呼びかけをしました。沖縄県学生会全体の協議会を「沖学連」と言いました。「沖学連」を作るための準備会を発足させて私は事務局長になりました。

 その年の暮れに具志川の昆布の土地闘争があり、そこの夜の集会に行きました。また、同じ年の10、11月に大型の宮古島台風が起こりました。農家や一般人も含めてすごい被害を出ました。私が大学4年生の頃です。各地に沖学連結成準備会として宮古島台風支援のための募金をお願いしました。駅頭に立ってカンパを訴えたりしました。当時の記録によると100万円が集まりました。全国から書留で私がいる寮に届きました。

帰省活動

 他県にはないと思いますが、「帰省活動」というものがありました。沖縄の医療問題や農村問題などそのようなものを在学中に調査しました。統一帰省活動実行委員会も作りました。「医系学生分科会議」が作られ、医者になる人や薬学の人たちと一緒に活動しました。その人たちが中心になって離島の集団検診や調査活動などに全員が参加しました。活動を持ち帰り大学祭などで沖縄の実情を訴えました。みんな一生懸命調査をやっていました。伊江島の阿波根昌鴻さんの「ヌチドゥタカラの家」で資料を読んだり、代表者会議をやったりしたこともあります。

8.15 海上集会への参加

 私は「8.15」海上集会に参加しました。東京の晴海ふ頭から船が出て8月15日は北緯27度線に集合する為に各地から多くの学生が参加していました。「海上集会」はマスコミが報道するのでとても大きな役割を果たしていたと思います。私たち沖縄県学生会は大した部数ではありませんが手刷りのガリ版で行進の様子を書いて、できるだけ手渡しでビラを配りました。沖縄出身の学生を通して彼らの学友たちに伝わり、そのことによって沖縄への関心は大きくなっていったと思います。海上集会では沖縄側からはポンポン船(小型船)が来て本土からは大きな船が母船のように来ていました。その時、北海道の代表が海に飛び込んで泳ぎました。それに続いて血気盛んな人たちも飛び込みました。その様子は「北緯27度線が人民の力によってズタズタに切り裂かれた」と新聞記事に書かれていました。今、民族を分断している人為的な線が人民の力によって引き裂かれたという感覚で本当は一体になるべき民族だという思いを身体で味わいました。海上集会はとても良い企画だったと思います。

沖縄に戻り教員になる

 私が教職に就いた年に沖縄教職員会の高教組が組合になりました。私が入った年の5、6月に第1回大会がありました。糸満高校の分会からいきなり代議員になってしまいました。高教組大会の結成大会だったと思います。前原高校の女子高生が米兵に傷つけられた事件に対する抗議集会がありました。生徒会の子たちが同じようにみんな危機感を持っていたので図書館で討論集会あるいは抗議集会をやりました。生徒用のバスを生徒会で借りてその会場に行くこともやりました。私たちが学生時代に動いていた時、自分たちの生きている間に「沖縄の祖国復帰が実現しないかもしれない」という思いがありました。

小禄9条の会

 「日本国憲法」に基づいて私たちは教職に就いていましたが日本国憲法について一から勉強することになりましたが、よく分からない所が出てきたことにとても驚きました。38年ぐらい勤めて退職した教職員が参加している読書会なのに憲法のことを詳しく知らなかった事に私たちは愕然としました。日本人は良い憲法を持ちながら国民1人1人が憲法を学ばず、享受しないままにそれぞれが社会人になっていることに気づかされました。また、どんどん選挙の投票率も下がっているので何とかしないといけないと思いました。

 以前、作家の井上ひさしさんたちが「9条の会」を作っていましたので小禄地域でも「9条の会」を作って「継続的に憲法を広めて学び合いたい」と思いました。みんなが賛成してくれたので準備会を行い、2013年 3月9日に小禄南公民館で「小禄9条の会」の結成総会を行いました。第1回目の記念講演にひめゆり同窓会の島袋淑子先生をお呼びして講演していただきました。先生は熱心にお話ししてくださいました。

戦後100年に向けて

 私は「戦後100年」という言葉に感動しました。「戦後」という言葉が続くということは平和が続いているということです。貧しさやいろんな困難があっても少なくとも「戦争はしていない」ということです。私は地道で大変な作業でも延々とやって行く「愚公山を移す」という言葉が好きです。とても無力に思えても「微力」ではあっても「無力」ではない。私は高校生の100万人署名にずっと関わっています。そのような1人1人の地道な行動が戦争を阻むと思います。日本国憲法は決してアメリカに押し付けられた憲法ではありません。日本人の人権を確立することを求めていろんな人たちが運動をして、その運動が1つ1つ実って憲法になったのです。ですから私たちの間では9条は「世界に誇る憲法」とよく言われています。

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