
「ロック」は生きるための「武器」
- 1942(昭和17)年生まれ
- 喜屋武 幸雄さん(きゃん ゆきお)
TIMELINE関連年表
| 1942 |
那覇市前島で生まれ、コザ市(現・沖縄市)で育つ。
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| 1944 |
「十・十空襲」から避難するため、母と祖母とともに宜野座村へ。
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| 幼少期 |
センタ-通りに父幸松が一番はじめに家を建て、最初の子どもとして育つ。
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| 中学時代 |
コザ中学校に入学。詩を書き始める。
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| 高校時代 |
沖縄工業高校入学。友人仲宗根勇の母(ポナペ島出身)からギターを習い始める。
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| 1960 |
集団就職で上京する。63年上京した川満勝弘、外間勉とウィスパーズを結成。
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| 1964 |
沖縄に戻り、ウィスパーズ、クリスタルチェーンと本格的にバンド活動を開始する。
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| 1969 |
喜屋武マリーウィズメドゥーサ結成。
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| 1970 |
コザ騒動発生。
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| 1998 |
沖縄県ロック協会発足。
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STORY証言
証言者略歴
沖縄県ロック協会事務局長。
幼少の頃からコザの町で育つ。戦後の米国統治下でアメリカ文化に影響を受け、音楽活動を始める。沖縄県ロック協会の設立し、オキナワンロックの普及に尽力する。CM、ラジオ番組企画制作、舞台監督、作詞・作曲家、プロデューサーとして、ミュージカルの演出など多方面で活躍する。
出生と戦争からの避難
出生について
僕は戦争前の生まれだから今年で84歳です。僕のおふくろや沖縄の女たちは小説『あゝ野麦峠』のように紡績の仕事で倉敷や大阪などに「儲キティクーヨー(儲け来いよ)」と言われて行かされました。
僕の母は首里のユカッチュ(士族)の娘でした。僕の母は佐伯静男という男性(在日朝鮮人)と恋仲になりました。ところが、当時は親が娘の結婚を決める習慣がありました。ある日、母に「結婚相手が決まったので沖縄に戻って来い」という内容の電報が届きました。その時、母は僕を身ごもっていて、戦争中にもかかわらず沖縄へ帰りませんでした。僕のオジイ(祖父)が沖縄から出てきておふくろの手を引いて汽車や船に乗せておふくろを沖縄に戻しました。そして、おふくろは喜屋武の家に嫁がされました。喜屋武の親父は結婚式を挙げて三ヵ月も経たないうちに戦争に行かされました。親父はカンジャーヤー(鍛冶屋)でしたので軍隊に入るのではなくて軍の銃や剣などを直す軍属として南シナ海にある海南島まで行ったそうです。やがて、戦争が始まり、僕が生まれておふくろが喜屋武の家に嫁いだ頃に戦争は激しくなっていきました。
十・十空襲で宜野座へ避難する
十・十空襲の時には那覇市前島に僕たちの家があったそうです。朝方、おふくろはカミアチネー(頭上に商品をのせて売り歩く 女性の行商スタイル)して芋を売りに出ていこうとしたら空襲が始まり、ボーンボーンと火が燃え上がりました。それが「十・十空襲」だったそうです。母はおばあちゃんと3歳の僕を連れて3、4日ほど隠れながら那覇から母方の宜野座にあるオジイとオバアの家にたどり着きました。僕とおふくろとオバアの3名は生きながらえて戦争は終わりました。
僕は4歳過ぎたあたりから少しは記憶があります。僕の親父、喜屋武の親父は戦争が終わり海南島から船に乗って沖縄へ引き揚げる途中、アメリカの潜水艦に攻撃されて乗組員も海に沈んで20数名が生き残りました。健康で体力もあった親父は生存することができました。
沖縄にいたおふくろは僕とおばあちゃんを連れて僕らのほかに何家族かと一緒にいました。今でもある宜野座の城原のガマの中にいたとき、日本軍の敗残兵が流れ着いてきました。彼らは女や子どもにいろいろ悪さをし、僕たち一般住民から食べ物を取りました。家にいた馬や豚も敗残兵が銃剣で殺してしまいました。また、うちの屋敷のものも食べたそうです。おじいちゃんは昔の武士の家系だから「イッターヒャ ヤナ大和グヮー!」(本土の人間たちめ!)と言って怒っていたそうですが、彼らは戦争に負けたので鉄砲を持って殺気立っていたようです。
戦後、幼少期のコザでの暮らし
複雑な家庭環境で過ごしてゆく
戦争が終わって落ち着いてくると、一緒にいた4、5家族がウサートゥッタルブンガ(集まっていたけども)みんな、地元の那覇などに引き上げました。うちのおふくろも出て行かないといけないのでおばあちゃんと僕を連れて出て、生きていくために近くの米軍部隊のメスホール(食堂)で働きました。おふくろがそこで働いていたらハーフの妹が生まれました。
僕の親父の喜屋武幸松が帰ってきた時に妻が今まで戦っていたアメリカ人との子どもを産んだことを知りました。僕も父親が北朝鮮の子どもなので戦争から帰ってきた親父は男として許せないというか大変な葛藤があったと思います。
母方の実家は首里からの流れで家には一番座、二番座、三番座と床の間があって、そこに十三ユーエ(祝い)をやった男は高盆に飯を置いて、一番座にはオジイがいてみんなで食事をします。僕はいつもシム(台所)で母たち女性や子どもと一緒でした。直系の長男を大事にする家長制度というか。
ところが、僕は今までどこに行っても「俺が喜屋武幸雄だよ。このやろう」とどこに行っても言っています。「喜屋武幸雄」と言わないと「俺は一体誰なんだ?」ということになる。今までもずっと「喜屋武幸雄」と言っています。沖縄のロックミュージシャンのハーフたちはジョージ(紫)やチビ(宮永英一)にしても第一次のハーフたちは方言を使って重荷を背負っているわけです。
その代わり、父親の血を引いているからなのか僕は勉強が得意でした。僕は勉強をしていなくても出きていました。だから、子供の頃から詩や曲を書いたり本を読んだりして片隅で何かをやっている子どもでした。
基地の町とワラバー(子ども)たち
「センター通り」は元々、ススキの岩山でした。コザ小学校はまだありませんでした。沖縄市役所のところは米軍の部隊がありました。センター通りの後ろが「八重島」や「裏町」と言われた最初の売春宿でした。その隣が嘉手納基地。
美里から山内はモモやギーマ、クービ、バンシルーなどの果物の木がいっぱいありました。実がなる時期になると食べに行きました。僕らがその集落に行くと「ヤナヒージャーヌミー」(ヤギの目)「ヤナアカブサー」(赤毛)「ヤナアメリカーグヮー」(アメリカ人)と言われ、石を投げられました。昔の子供たちは今と違ってとても乱暴で割って尖ったカーラ(瓦)を僕たちに投げました。
こんなふうにセンター通りの子供は売春宿の子供ということでいじめの対象になっていました。その中で一番年上が僕、喜屋武幸雄でした。僕の妹もひっくるめてセンター通りの子どもたちは山内や諸見、嘉間良に行くとみんなにいじめられるから僕が守りました。「うちの妹やあいつをいじめるな。」と守りました。今になったら分かります。自分の親父がアメリカ人に殺された。その落とし子が混血児です。このことがセンター通りの子供たちが背負っている重荷です。
美里村と越来村が合併して「コザ市」が生まれました。その前に奄美が沖縄より先に日本に復帰します。そして、あの徳富さんのところの「ニューヨークレストラン」や「センター通り」、「ゲート通り」を最初に牛耳っていたのは奄美の人たちでした。奄美の人たちは金儲けがうまくて商才がありました。その奄美の子どもたちが集まってきて、次に宮古、石垣、奄美から生活に困った人たちがいっぱい来ました。
センター通りに1軒だけピカデリー(国映館)映画館があって、そこが子供たちのたまり場でした。そこでマーブルクヮエー(ビー玉集め)やパッチークヮエー(めんこ集め)をして遊んでいました。そしたら、マーブルクヮエーしているときに電信柱の後ろからずっと僕らを見ている色黒の男の子に気づきました。僕はその子に「おい、おまえちょっと来い」と言って聞きました。「おまえ、どこから来たか?」「宮古」「名前は?」「川満勝弘」と答えました。この人が「カッちゃん」でした。
小学校2年、3年、4年と成長するにつれ、アメリカ人の腕をつかまえて「ギブミーマネー」「ギブミーチョコレート」という具合に靴磨きをやったりチューインガム売ったりしました。黄色や白のアメリカのチューインガムがいくらか分かりますか。あれは5セントでした。親から5セント貰ってきて「マチヤグヮーンカイ イジャーンカイ」(お店に行って)5セントでチューインガムを一つ買ってきてアメリカ人達にアチコーコー(温められた)になったガムを「バイ チューインガム」と言って売りつけました。アメリカ人たちはチューインガムの値段が5セントだと分かるので5セント払おうとします。しかし、僕は5セントでは絶対に売りませんでした。持っているガムがぐちゃぐちゃになっているけれど彼らは根負けして10セント僕らに支払う。なかには25セント払うアメリカ人もいました。10セントを手にしたら今度は「マチヤグヮーンカイ イジャーナカイ ターチコーランカイ(お店に行って2つ買って) 2つ売る」
倍々ゲームとなって小さな子が1ドルや2ドルを持っていました。昔は建設作業なので穴を掘ったりして給料が70セントとか1ドル。それなのに小学校2、3年生の子どもがポケットに2、3ドルを持っているわけです。沖縄そばを食べてもまだ、お金が余ります。1000ドルで家が建つ時代に僕ら生きていました。靴磨きは25セントでした。
朝早く、嘉間良、美里、山内のワラバーターが懐中電灯を持って集まっています。道に落ちている金を探しに来たのです。那覇が「沖縄の玄関口」でコザは「沖縄の奥座敷」とよく言われていたように「ドルの雨」が降っていました。当時のサラリーマンや先生の給料が30ドル時代に子どもながら1ドル、2ドル、5ドル、10ドルと持っていました。先生たちは生活が苦しくなっていわゆる映画「宝島」のように戦果アギヤーになった人がいっぱいいました。先生の給料より戦果アゲヤーの収入が高かったですから。
集団就職で本土へ渡り、そして、音楽の道へ
高校を卒業してちょうど、寄宿舎がある会社が募集していたので父親にも母親にも何にも言わないで裸一貫で行けるからヤマト(本土)へ行きました。入社試験を受けたら僕が一番でした。沖縄から船に乗って神戸についてから東京に行くのですが、神戸に行ってからかつ丼を食べさせられました。「日本には、こんなに美味しいものがあるのか」と思いました。他の学校からも12名ほどが集団就職に出て来ていました。工業生らしくそこで鉄鋼業の仕事をやっていました。
その後、田園調布に移り、朝日新聞の配達員になりました。ただで寮に入れたので給料を貰ってたまに新宿や渋谷、池袋に行くとそこには「朝鮮人、沖縄人お断り」と書かれていました。「ウチナーンチュお断り」と書かれている時代。
アンサグトゥ(それから)、そこにカッちゃんが沖縄から出てきました。「オユキ(幸雄)、沖縄に帰ってからバンドやろう。」と言われました。それで僕は髪を伸ばしてカッちゃんが借りていた東長崎の部屋に外間勉を呼んで僕と3名で始めました。子どもの頃からジュークボックスで音楽を聴いていたからそれを歌っていました。エレキの神様と言われた「寺内タケシ」のサイドギターをしていた勉の同級生がバンドを作っていました。勉が僕らのバンドリーダーでギターのことは全部分かっていました。3名で集まって「俺は運動神経抜群だからドラムをやるよ。オユキ(幸雄)は 手が大きいからおまえベースやれ」とカッちゃんが言いました。
3名でギターがあってその辺で何かエレキギター大会などがあって日本では「日劇ウエスタンカーニバル」とか山下敬二郎とかがみんなからテープを投げられて騒がれていた時代です。アッター(あの人たち)は日本語で歌っているけれどもワッター(僕ら)はセンター通りの子供だから英語で歌えました。そしたら隣近所から「なんでおまえたちは英語で歌えるの?」と聞かれて「いや、英語で歌うのが本当じゃない?」と答えました。昔の沖縄はKSBK(アメリカ人向けのラジオ放送)がありました。
本土から沖縄に戻って
オキナワンロックを盛り上げる
そして1年後、1964年に3名で沖縄に帰ってきました。あるクラブのオーナーがカッちゃんの所に来て「あんたたちは有名な『ウィスパーズ』らしいね。うちでプレイしないね?」と言いました。そしたらカッちゃんが「ワッターは沖縄一と言われているから高いよ」と言いました。
さっき言ったようにサラリーマンが月給2、30ドルの時代です。「1日演奏して20ドル。金土日の4回。300ドルぐらいって言おうか」とカッちゃんが話しました。1000ドルで家が建つ時代ですから300ドルは大変な金額です。カッちゃんの交渉術はすごくて300ドルあったとしたら4名で分けても一人70ドルでした。
こんな若い僕らが一カ月で70ドル貰える。その時はフィリピン人バンドや黒人バンド、アメリカ人バンドがいる中でウチナーバンドは僕らだけでした。「ウィスパーズ」という凄いグループがいると噂になって僕らの真似をするバンドがいっぱいでてきました。
沖縄で一番と言われたウィスパーズは5、6年活動していましたが、僕とカッちゃんがケンカになってウイスパーズは解散しました。そして、かっちゃんは「インフィニティー」というバンドを作りました。僕はジョージ紫とチビ(宮永英一)を入れて「クリスタルチェーン」を作って、その後、僕は「メデューサ」を結成しました。カッちゃんは「インフィニティ―」のメンバーと喧嘩して「コンディショングリーン」を作りました。
コザ騒動に遭遇する
ベトナム戦争の時に僕は金武でバンドをやっていました。金武では夜8時~11時までの間、それぞれ45分、4ステージをやりました。これが終わったら金武からコザまで30~40分で帰ってきます。コザ騒動のあった日は土曜日だったかな?中の町あたりで労働団体か何かの集まりがあったみたいです。
コザ騒動では「騒動」とか「暴動」とかいろいろ言われているけれどもアメリカで「暴動」とか言ったら人が殺されたり物が盗まれたりします。コザ騒動ではアメリカ人のYナンバーの車は燃やされたけれど人ひとり死なない。「ウチナーの車ヤ ウリ ウレアマンカイユキトーケー」(沖縄の人の車はあっちにどけておきなさい)と言って絶対に手を出さない。黒人は沖縄の人と同じように虐げられた仲間意識があったのか、黒人は逃がしていました。
騒動が起きた場所がコザだからいいのよ。たぶん、黒人街の照屋でやっていたら暴動になっています。
コザ白人街で中の町の近くだからある程度、先生たちの歯止めが効いたはずです。そうじゃなかったらもっと酷くなったと思います。
もう一つ僕が思うのは批評家やコザ騒動を書いている人たちが「沖縄の人も怒るときは怒るんですよ」と語ることがあります。コザ騒動のことを「ヒーロー」だと言うけれどとんでもない。コザ騒動の翌日、あんな騒動があったのにワッター(僕ら)は演奏するわけです。アメリカ人に「ヘイ、ケニー」と声かけられ僕は「ヘイ」と言ってからアメリカ人と「イエイ」と言って、握手してプレイしている。
ウチナー女性の素晴らしさ
沖縄の女の人たちは「イチャリバチョーデーの精神」(一度会えばみなきょうだい)というか隣の子もその隣の子に対しても「ウリウリウリ、ヤームモノーカリー」(さあさあ、あんたもお腹すかせてるでしょ)と言ってみんな平等に飯を食べさせます。「ヌチドゥタカラ」(命こそ宝)「イチャリバチョーディー」「チムガナサ」(愛おしさ)というものを本来ウチナーンチュは持っているのではないのかな?「フトゥクルグヮーンカイ入リヤーニ」(懐に大切に抱きかかえて)子を大事に育てるという部分が沖縄の女性の素晴らしさじゃないかと思います。
うちのおふくろはハーフを産んだことで皆からつまはじきにされて皆から批判されても一生懸命、妹をとても大事に育てました。僕が朝鮮人で妹がアメリカ人との間にできた子です。喜屋武幸松の子は弟を含めてこの三名となります。僕の弟はおばあちゃんにとっては初めて喜屋武の直系の子どもなので弟はおばあちゃんが懐に入れる。僕は誰が育てる?僕はひとりで生きていかなきゃなりませんでした。
ミュージシャンのチビ(宮永英一)にしてもおばあちゃんに育てられた「恩」をいつも言っています。
沖縄ロック協会のメンバーはみんなおばあちゃんに育てられたおかげでこの業界にいても皆、大人になったというか真っ当な人間になった気がします。ウチナーンチュの「ウナイ(女性)の良さ」というのをずっと今の沖縄の若い女性たちにも引き継いでいってほしいですね。だから、大事にしなきゃいけない。遺伝子というか。アイデンティティーというか。そういうものを無くしてはいけないと思います。
「原点回帰」とウチナーンチュの願い
これからの音楽について「創作活動」を考える
これ、みんな僕の作詞作曲こんなにあるんだよ。毎日悩みに悩んで曲を書いて詞を書いています。「循環コード」という4つのコードがあります。これがあるとすぐ曲ができます。その4つのコードをコンピューターに打ち込むとコンピューターが作曲をして、作詞もできる。
創作する人が一生懸命考えて、言葉を考えて、作詞作曲していくのが本来の創作活動だと僕は思っています。僕らのロックのことを言うとロックも決まりごとがあって24小節と12小節で決まっています。そのテーゲー(ほどほど)の形のものをなんとまあ今の若い人たちは楽器が弾けない。若い人に「はい、ギター弾いて」と言っても弾けない。昔のミュージシャンは弾ける。いわゆる「クラシック・ロック」は形を覚えているからインターネットやロボットに学習させると曲が出てきます。これって「創作」ですか?いややっぱり違うでしょ?人間の頭の中で考えて出きていくのが「創作」であってベートーベンや昔の人たちの曲は今でも弾いているよね。ではもう一回言うけど、今の人たちが現代音楽を作った人たち名作曲家が日本から生まれている?昔のクラシックとか昔のロックとか。
昔の物だけが素晴らしいとは言わないけれども、考える必要があるよね。これからの創作活動を聴く人もお客さんもひっくるめて。話は簡単。「原点回帰」。人間がどんなに行くところまで行っても人間の思考が一万年前のネアンデルタール人だろうが、今の人間であろうが、人間の思考は絶対変わらない。もともと持っているものは同じだと思います。
戦後の沖縄と音楽人生を振り返って
僕に言わせれば人間は素晴らしいというのが一つとウチナーンチュの持っているもので「マクトゥソーケー チャーガラナイサ」(誠実に正しく生きれば どうにかなるさ)と言うさ。そんなことを考えるとウチナーンチュの温かさはやっぱり沖縄にあって初めて沖縄の島、琉球列島があるからそういう温かさが生まれているんだろうな。これがもし、沖縄が北国で「ハーッアチャーチャーガラ」(明日はどうしようか)と言っても、寒さで死んでしまうよ。
沖縄ぐらいの文化を持っている県があるか。沖縄は琉球王国でさ。それだけの文化やミュージカルがあるのだから組踊とか何とかそれぐらい沖縄の文化は日本語とは違うけれども三八六(サンパチロク)でちゃんと琉歌があるし、沖縄は素晴らしいと僕自身は思っていて「ウチナーンチュでよかったな」と思っています。
ロックは今の若い人たちとは違うよ。僕らは「生きるための武器」だった。僕らが世の中に対する真実で心の叫びができるのがロックだった。僕らのロックは生きる武器だった。やっぱり「オキナワロック」はベトナム戦争や第2次世界大戦があって戦後80年。今回、僕がこのようにイベントのタイトルをつけてここに「世界中が平和でありますように」と僕が書いている。ウチナーンチュの願いは同じじゃない?
もう一つ、チビやジョージたち、マリーとかはみんな戦争の落とし子さ。それは沖縄の中だからあまり差別もされなくて、特に今のハーフはもてはやされてね。昔のハーフたちは「ヤナヤーアメリカ人グヮー」(このアメリカ人とのハーフめ!)と言われたのとは時代が違う。センターゲートでは今もハーフたちが生まれ続けている。沖縄には基地があるからさ。
さっきの話、戦果アギヤーじゃないけども戦果アギヤーが米軍基地を盗マーンカイ(盗んでから)アメリカに送ればいいよ。沖縄の置かれている状況は昔から大国の狭間で「万国津梁」じゃないけれども文化でもって国を成してきた。これが素晴らしいんじゃないですか。僕は音楽しかできないよ。音楽だけで僕は生きているけど。





