
“劇画”で伝える沖縄戦の実相
- 1946(昭和21)年生まれ
- 新里 堅進さん(しんざと けんしん)
TIMELINE関連年表
| 1946 |
那覇市壺屋に生まれる。
|
|
|---|---|---|
| 幼少期 |
小学校1年生の時にクレヨンを支給されたことを機に絵を描き始め、鉄腕アトムなどの模写に熱中する。
|
|
| 高校3年生 |
琉米文化会館で『沖縄健児隊』に出合い、漫画家を志す。
|
|
| 高校卒業後 |
那覇商業高校卒業後、大阪でトラック運転手の助手などの仕事に就き、独学で漫画を描き続ける。
|
|
| 1978 |
沖縄戦を題材にした『沖縄決戦』で漫画家デビュー。
|
|
| 30代半ば |
タクシー運転手の仕事を辞め、専業作家になる。
|
|
| 1982 |
新聞で連載した『ハブ捕り』で第11回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。
|
|
| 1984 |
『水筒 ひめゆり学徒隊戦記』を出版。
|
|
| 2025 |
戦後80年平和祈念企画「漫画と戦争展2」において生原稿が展示される。
|
|
| 2025 |
評伝&選集『ソウル・サーチン』を刊行
|
STORY証言
証言者略歴
劇(漫)画家。
50年以上にわたり沖縄戦をテーマにした作品を数多く発表 。膨大な資料調査と聞き取りに基づいた緻密な描写が特徴 。2026年には、その足跡を辿る『ソウル・サーチン』が第46回沖縄タイムス出版文化賞正賞を受賞し、「このマンガを読め!2026」で第4位に選出されるなど、今なお高い評価を得ている。
幼少の頃
絵を描くきっかけ
絵を描き始めたのはきっかけがありました。小学校一年生の時にクレヨンの支給があり、そのクレヨンで机に絵を描いてしまいました。当時、「みかんの花咲く丘」という童謡が大好きで歌詞をなぞって船の絵を描きました。先生にこっぴどく叱られまして船の絵を洗い流すのが大変でした。でも、出来栄えが良かったのでこの頃から絵を描くことが好きになりました。新品の机だったので洗い流すのが大変でした。描いていたのは「鉄腕アトム」「赤胴鈴之助」「イガグリくん」当時流行りの漫画です。
戦争の傷跡が見える少年時代
民家の壁には弾痕が多く残っていて、道端には小銃弾などが落ちていてそういうものが遊び道具でした。鉄砲の弾は薬莢頭を叩くと弾頭が取れます。それから火薬を抜いて土で弾丸をこすると銅でできているので光りました。それから弾の後ろをロウソクで温め、鉛で出来ている部分にピンを刺して弾丸でネックレスなどを作っていました。火薬なので危ないですよ。今、考えると恐ろしいですね。学校の友達たちも鉛筆のキャップに火薬をくべて、それに火を点けてキャップを飛ばしてよく遊びました。
当時、いつも僕らの家の前を歩いている人がいました。母から聞いた話だとその人は元々、学生さんで沖縄戦を経験したことで少し心が病んでしまったそうです。そういう方が雨の日でも我が家の前を通って行きました。その人は草履を履いていて、ズボンの後ろに泥が跳ねたままでもそれを気にせずに決まった時間に早足で通って行きました。この方が戦争で精神的な病があることはあとで聞きました。僕ら子どもは腕白だからみんなでからかったりしました。その人は何も気にせずに首をかしげながら無言で通って行きました。今考えると「申し訳ないことをした」と後悔しています。他にも似たような人がいらっしゃいました。
母は壺屋の区民で戦時中は避難先が恩納村でした。その恩納村での戦争体験をいつも話してくれました。それが自分の中に染み込んでバックボーンになり、自然に沖縄戦を描く流れになっていったのかもしれません。
父はあまり戦争体験について話してくれませんでしたが、一度だけ話してくれたことがあります。沖縄戦が始まる前、昭和19年頃に内地(日本本土)や満州から沖縄に続々と戦車隊を含む部隊が入ってきたそうです。戦車隊は那覇港から上陸して与儀公園のあたりに駐屯して、父たちは警備隊でそれを見張る役目でした。その時は「これで戦争は勝てる」と思っていたそうです。父が話してくれたのはそれだけです。それ以降、 戦争のことは僕に話さなかったけれど、父の友達が集まってお酒を飲むときに決まって話すのは戦争の話でした。「誰が向こうで死んだ。誰が向こうで大変だった。こうやって逃げた」とかこういう話を僕はそばで聞いていました。
漫画家人生の始まり
「沖縄戦」を描くきっかけ
高3の時だったと思います。僕は「画家になろう」と思っていました。中世ルネッサンス時代の巨匠たちの絵が好きで「あのような絵を描きたいな」といつも図書館で見ていました。たまたま、図書館で「沖縄健児隊」というタイトルの本を見つけました。僕は読んでみるとすごい衝撃を受けました。自分と同年代の少年たちが体験した沖縄戦。その本に衝撃をうけて「これを漫画にしたらいいのでは?」と思いました。それが漫画家になるきっかけでした。そう決意した時、自分の道がスポットライトを浴びたようにパーっと広がりました。ただし、その後はお先真っ暗でした。
社会に出て様々な職種に就く
最初は電化製品の営業マンなどをやっていました。タクシーの運転手もやりました。米軍のガードをしていたのは高校を卒業して間もない頃だったのでまだ20代じゃないでしょうか。牧港にある「キャンプキンザー」で働いていました。仕事はきつかったです。ゲートとあとは基地周辺の動哨(見回り警備)でした。カービン銃を持っていました。生まれて初めてカービン銃の実弾を撃ったことがあります。感触は良かったです。「良かった」というのはなぜかというとカービン銃は非常に扱いやすくてしかも連発式でした。沖縄戦のことを考えた時に日本兵が使っていた小銃はいちいち手で操作するボルトアクションの5連発です。ところが、アメリカ軍のものは連発ですよ。連発できるものだから敵うわけがありません。その違いがあるとカービン銃を持ちながら考えていました。
デビュー作は『沖縄決戦』
漫画を描く人は私の周りにはいなかったです。新聞社に1コマ漫画を描いている方がいるくらいであとは分かりません。あの頃、漫画家は周りにいませんでした。漫画の投稿をしたことがありません。作品を描いてずっとためていました。いつか どこかの出版社に投稿しようと思い、ためていました。タクシー運転手時代、タクシー強盗のような目に遭いました。その時、「僕には向いていない」と思ってタクシー運転手を辞めました。「餓死してもいいから漫画一本でやろう」と思っていました。幸いにも「月刊沖縄社」の佐久田社長から電話が来て、「君は沖縄戦の漫画描いているそうだね。沖縄戦の漫画を見せてくれ。」と言われて書きためた原稿を持って行きました。それから「うちで君の漫画を発行しよう。」と言われて僕の漫画家人生はそれからです。
デビュー作は『沖縄決戦』です。月刊沖縄社の佐久田社長に出してもらった『沖縄決戦』が最初の作品です。1977年か1978年ごろです。周りの人の反応は良かったのですが、ただ、当時の沖縄の人たちは漫画に対してあまり関心がなくて、「漫画は子供が読むもの」と俗物あつかいでした。「これはどうやって読むんですか?」と言う人もいました。「読んで良かった。」という手紙が多かったですが、中には「沖縄戦を漫画にするとはふざけている。」とそのような批判もありました。
第11回日本漫画家協会賞優秀賞受賞
『ハブ捕り』誕生秘話
30幾つかの時だったかな。電化製品の営業を始めていて、それで友人と二人で各地を営業で回りました。たまたま西原町の池田を回っていたときに道のそばに壕がありました。僕は壕を見たら入りたくなる性分で、幸いにも懐中電灯を持っていたので友人と二人でその壕に入ることになりました。壕の中はそんなに大きくなかったです。L字型になっていてすぐに行き止まりで距離は14、5mくらいありました。僕が帰ろうとすると友人が言いました。「新里、上にも壕があるよ。」と言うので見てみると上に穴がありました。ちょうど窪みがあってそこに足を掛けて登れるようになっていました。最初、友人が登って行くと彼が大声で「新里、ハブがいるよ。」と言ったので、僕は驚きました。僕も上ってみるとそこはドーム型になっていて奥は行き止まりです。地面には大きい石が転がっていてその奥にハブがいました。僕は初めて野生のハブを見て驚きました。ものすごい迫力でした。ハブとの距離は1m50センチぐらいでした。大きな石の陰にいました。とぐろを巻いて頭を沈めて、今にも僕らはやられそうな感じで、僕は友人の後ろにいたので、後ずさりして降りて行って友人も降りてきました。
壕から出て車ですぐ近くの場所に雑貨店がありました。ジュースを買って飲んでいると店のおばあさんが「あなた達。なんでそんなに慌てているの?」と聞いたので「おばさん。あの壕の中でハブを見たんですよ」と答えました。おばさんは「ハブは予知能力を持っているからあんた達がまたやって来るのを待ち構えているよ。」と言いました。それで、再び壕へは行かずに会社に戻りました。
みんなの前でハブの話をすると偶然にも会社の同僚に「ハブ捕り」がいました。彼はまだ、若かったけれど「ハブを捕りに行くから案内して」と私に言いました。僕は驚いて「大変だよ。ハブにやられるかもしれない」と言ったら「いや、大丈夫だから」と言われてハブ捕りと一緒に壕に行きました。
その壕に入る前にハブ捕りが小さな木の枝を一本拾ってきて「これで捕る」と言いました。彼は「大丈夫だからついて来い。」と言って懐中電灯を持って入っていきました。上の壕にのぼっていったらハブは以前の状態でその場に居ました。首を沈めて攻撃態勢に入っていました。ハブ捕りが棒を持って「新里くん。前の石をどけてくれ。ハブの頭を押さえるから」と言いました。木の枝を伸ばしてハブの頭を押さえました。「今だ!どかしてくれて」と言われて恐る恐る石をどかしたらハブは綺麗に頭を押さえられて巻きついていました。彼が棒を手繰っていって素早く首を捕まえ、ハブの身体をのばして「もう大丈夫だから」と言いました。長さは1m20~50㎝ぐらいあってけっこう大きなハブでした。このような経験をしたことでこのハブの話は「漫画のいいネタになる」と思って描いたのが『ハブ捕り』だったのです。
漫画家協会賞受賞
『ハブ捕り』の連載が終わった後、新聞社が単行本にしてくれてそれが東京まで届いたことで評価されたのではないでしょうか。受賞の知らせは電話だったと思います。受賞の知らせを聞いて驚きました。
授賞式の時、初めて手塚治虫先生や有名な漫画家にお会いできて良かったです。「君の漫画は何か色が違うね」と手塚先生から言われて「色が違う?」と不思議に思って、その時はカラー原稿だったのでそのことかと思いましたが、沖縄でハブが素材の作品だったものだから手塚先生はそういうことをおっしゃったのだと思います。先生に声をかけられて嬉しかったです。
尊敬する漫画家と現場を見る大切さ
尊敬する漫画家と作品づくりへのこだわり
描く道具は決まっています。「Gペン」と「墨汁」です。それだけ非常にシンプルです。残念ながら亡くなられたけれど時代劇漫画の小島剛夕先生。あの方の作品が大好きで、僕の方向性を教えてくれたのも小島先生の作品なのです。ペンで「人間の表情や感情、動きを本当に表現できるものだな」と小島先生から教わりました。キャラクターを描くとキャラクター自身が動いてくれます。だから、後を追っかけるような感じで描くのです。もちろんネーム(ラフ案)も描きます。キャラクターが勝手に喋るから僕は描くだけです。
作品中、ウチナーグチを使うのは当たり前の事として書いたつもりです。ウチナーグチでも平仮名ばかりだとわかりません。漢字を入れるとある程度、理解できます。作品中、ウチナーグチを出すことにそれほど抵抗はありませんでした。
私は英語も喋れないし、アメリカ兵に取材ができないので、アメリカ軍の記録を日本語訳した本を参考にして、できるだけ、当時に近いように描いたつもりです。アメリカ兵も日本兵も住民もやはり同じ人間なのです。だから、人間という視点で描いたつもりです。
「戦争を美化しているのではないか」とたまに批判もありますが、僕は戦争を美化するつもりは全くありません。でも、読む人によって美化していると受け止められるかもしれません。知れば知るほど戦争なんて美化できるものではありません。僕としてはそれを言いたいわけです。言いたいのは「ヒューマニズム(人間性)」です。僕はひとりの人間として描いているわけです。
仲宗根政善先生との交流
仲宗根政善先生の本『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』を読みました。沖縄県平和祈念資料館で展示されていた「水筒」を見て「ひめゆり学徒隊」を描こうと思った一つの動機です。まだ描きかけでしたけど、仲宗根先生に原稿をお見せしました。そこに仲宗根先生が出てくるので先生がこれを見て「これが僕か?」と笑っておっしゃいました。
そのあと、ちょっと厳しい表情で「君は現場を見たのか?」とおっしゃるものだから「いや 見ていません」と私は答えました。なぜかというと、いつも摩文仁周辺を回っているからある程度、想像で書けるわけです。「いや、見ていません」と言うと「現場を見てこないと駄目だよ。サンゴ礁はカミソリの刃のように鋭かった」と現場の海岸についておっしゃいました。僕はそこを見ていなかったので「見てきます」と先生に言ってバイクを飛ばして行きました。やっぱり、カミソリの刃のようなサンゴ礁でした。その上を学生たちは転んだりして逃げ回っていたのだから大変だったことが身にしみて分かったのでそれから僕は「描くときは現場を見ないと駄目だ。」と心に決めたのです。
仲宗根先生のお話の中にありました。「人は悲惨な状況の中にいても必ずしも落ち込みはせず、笑いもあった。」と仰っていました。例えば、この壕の中でオバー達が小声で話をしている。戦時中でも時には笑い声もあったそうです。仲宗根先生はそのことで人間味を感じたそうです。「他にも珠玉の話がいっぱいあった」と仰いました。
その前に仲宗根先生は「君、作品を描くんだったら後世に残るものを書きなさいよ。」と仰って私は「はい、わかりました。」と返事をしました。お会いする前はああいう体験をされた方なので非常に厳しく怖い人かと思っていました。実際にお会いしてみると全くそんなことはなくて非常に温和で優しい方でした。
取材中の印象的な出来事
これまでに印象深いのは現在の沖縄県平和祈念資料館の旧館があった場所の近くに摩文仁の丘へ登る道があります。 あの道は米軍が作りました。摩文仁への道を米軍が作っている時にその上の方に戦時中の沖縄県知事島田叡が最後に居た壕があります。彼はそれを見ているわけです。アメリカがブルドーザーで岩や土砂を積み上げて道を作る光景を島田知事は見ていたのです。
あの時、資料館の中で「水筒」の展示がありました。あれは非常に印象的でした。「水筒」でひめゆり学徒隊の作品にしたのです。
10年以上前だと思います。「シュガーローフの戦い」という作品の最後のあとがきに今は大きな貯水タンクになっているシュガーローフの丘はちょうどあの頃、トンボが無数に飛んでいました。その様子が印象的であとがきにそのことを書いていました。当時の仕事場の外は墓場でした。午前11時頃、ふと窓の外を見ると1匹のトンボがホバリングをしながら僕を見ていました。トンボがずっとこちらを見ていたので僕もトンボを見返しました。
僕はトンボに言いました。「あんた、僕を迎えに来たのか?いや、まだ早いよ。」しばらくして、僕は「どこかへ行っただろう」と窓の外を見たらまだいました。15分ぐらいホバリングをやっていました。今でも不思議な体験だと思っています。向こうで亡くなられた日米の少年兵たちのあれは一つの身代わりだったと思いました。
執筆活動の裏側と今後の作品づくり
執筆活動の裏側
僕が作品を描いている時はその世界に入って、仕事はだいたい夕方の四時から五時には終わります。それから、一歩外へ出ると僕はある種のバリアから抜け出るような感覚を覚えます。目に見えないバリアがあってその世界から抜け出す感じです。時々は描けなくなったり、投げ出したくなったりとそういうことが何回もありました。
ドライブが好きなので「よし、今日はもう遊びに行こう。ドライブに行こう。」と車でヤンバルまで行きますが行っても作品の世界にすぐに引き戻されます。とにかく1分1秒でも一線でも一コマでもいいから目に見えない存在に「早く描け!」と言われるのです。
今後の作品づくり
『ヤンバルの戦い』の最後の締めを描いているところです。登場人物たちがその後どうなったのかという話を描いています。「護郷隊」だけではなくてヤンバルの守備についていた「宇土部隊」の話も混ぜたそこにいた人々の話です。沖縄戦南部の状況と北部の状況は違います。やっぱり「飢え」との戦いです。あまり知られていないことですけれども、北部の住民と南部から避難してきた人たちとの間にいろんな軋轢があって、そういうことにも目を向けて描いているつもりです。
他にも描きたいものがあります。例えば、ギルバート諸島にある「タラワ島」での戦いについてです。
大阪の豊中に古本屋があり、そこで買った本の中に「タラワ」という本がありました。それはアメリカの従軍記者が自分の体験をまとめたものです。その本を読んで衝撃を受けました。沖縄戦とは直接関係はないけれどもタラワ島の話もぜひ、描いて残したい。「タラワの戦い」もそうだし「サイパンの戦い」もそう。また、「インパール作戦」とかあるじゃないですか。太平洋戦争の転換点になったソロモンの「ガダルカナルの戦い」とかいろいろあります。
もう来年は80歳になります。あと何年、作品を描けるか分かりませんが「死ぬまで描けたらいいな」と思っています。





