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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

沖縄を平和創造の拠点に

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  • 1935(昭和10)年生まれ
  • 高山 朝光さん(たかやま ちょうこう)

TIMELINE関連年表

1935
本部町伊豆味に生まれる。
1945
10歳の時に沖縄戦を体験。
1951
琉球政府立名護高等学校入学。
1954
琉球大学文理学部に入学。
1962
ハワイ大学大学院留学。
1989
NHK沖縄放送局副局長に就任。
1992
沖縄県知事公室長に就任。
1994
沖縄県政策調整監に就任。
1995
太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業として「平和の礎」が建設される。
1997
那覇市助役に就任。

STORY証言

証言者略歴

 沖縄ハワイ協会顧問。東西センター沖縄同窓会顧問。
 ハワイ大学大学院、琉球大学職員、NHK勤務を経て、大田昌秀知事から知事公室長に抜擢され「平和の礎」建設の責任者を務める。沖縄戦体験者として戦争の悲惨さを語り継ぐ一方で、沖縄の平和・国際交流事業に尽力した。 著書「ハワイと沖縄の架け橋」 共著「沖縄『平和の礎』はいかにして創られたか」

本島北部の沖縄戦を体験

 1944年沖縄戦の始まる前、本部町伊豆味の小学校に沖縄本島の北部全体を守る「宇土部隊」が入ってきました。そして、私たちの学校には宇土部隊が駐屯するようになりました。なぜかというと、伊江島には沖縄で一番の飛行場を建設していたので、そこの守備をする目的も含めて、宇土部隊が「北部支隊」として陣地を持っていました。

 1944年の10月の「十・十空襲」の時、その空襲で本部町も全て焼けてしまいました。米軍の艦砲射撃による激しい爆撃を受けました。防空壕に入っていても地面が揺れるほどの破裂音で、私は、「いつ、自命を失うか。」と思うほどの激しい戦場の中で過ごしていました。

 最終的に日本軍は敗残兵となって食料も何も持っていなかったので戦うのではなくて銃を突きつけて民間人を脅して食料を奪うなど悪質な方向に変わってしまったことが非常に残念でした。米軍の捕虜になって本部半島の人たちはみんな、羽地に収容されました。

戦後の世替わりと学生新聞の活動

世の中の移り変わりを感じて

 戦後になって日本の軍国主義は変わりました。私が最初に驚いたことは米軍の物量の多さと物の豊かさでした。「これからは自由主義だ」と盛んに謳われていて軍国主義から民主主義への大きな世替わりでした。戦後の社会は民主主義に変わったとはいえ長い間、米軍の占領下の民主主義でしたから大きな反発がありました。私は学生時代に土地闘争にも参加して「政策が駄目だ。」と米軍にも反発しました。

琉球大学の学生新聞に関わる

 私が琉球大学に入った年は1954年です。琉球大学設立が1950年。それから4年後のころです。当時は大学のキャンパスができて、コンクリートの建物がひとつ、ふたつあるぐらいで赤瓦の校舎でキャンパスがあって首里城の城跡を整地しながら大学を広めていきました。

 実は私は日本の国立大学に進学したいと思っていました。当時は琉球大学に入学後に国費留学に向けて受験勉強をしている人がたくさんいました。そのため、琉球大学は何と言われたかというと「琉大は予備校だ」と言われました。しばらくして、評論家の大宅壮一さんが沖縄に来られた時に「琉球大学は8ミリ大学だ」と言われました。大学の名前がつくかつかないかくらいのみすぼらしい大学の頃でした。

 しかしながら、琉球大学に入ったからには「この大学を共にもっといい大学にしよう。」と教官たちは熱意がありました。その中で学生もやはり「布令大学」ではありましたが、学問の自由を掲げながら「もっと良い大学にしよう。勉強しよう。」と熱意を持っていました。「8ミリ大学」「予備校」と言われていた中で私は大学の新聞部長をしていたので学生向けに「もっと琉大に誇りを持とう」という論説を書きました。大学を皆で盛り上げようと思い、新聞部で発行した学生新聞は当時の琉大生たちに読まれていました。

土地闘争と米軍の締め付け政策

「プライス勧告」から島ぐるみの土地闘争へ

 私が3年生の頃です。沖縄県全体で「島ぐるみ闘争」に発展する「プライス勧告」がありました。米軍が一括で軍用地をみんな買い上げるというような内容の勧告でした。それに対して当時の琉球政府の行政主席がこれは阻止するためにアメリカへ行って要請もしました。米軍は1950年以降に朝鮮戦争の勃発により米軍基地を強化してきました。沖縄の占領は一時的な予定だったかもしれませんが、恒久的な基地建設に変わっていきました。

 そのために、やっと住民が帰えることができて住んでいた自分の土地も収用されてしまいました。例えば宜野湾の伊佐浜や現在の那覇新都心あたりに住んでいた人たち。伊江島もそうです。住民が住んでいた家を米軍がブルドーザーで壊してしまう。抵抗する人には銃剣を突きつけて強制的に土地を収用しました。

 その土地を一括で買い上げる勧告があって土地闘争が起こりました。その動きが琉球全域に広がって住民大会になりました。1956年に那覇高校で大会があり、10万人余りの人たちが抗議大会に集まりました。琉球大学も夏休みでしたが学生会が中心になり、今の守礼門あたりの琉大の女子寮前に集まってそこから60人単位で移動して首里から坂下を降りて那覇高校まで行ってデモに参加をしました。そうすると反対運動がものすごく盛り上がりました。米軍は「このままだと非常に危ない。」と思ったのでしょう。燃え上がる沖縄住民の土地闘争を「何とか鎮めなきゃいけない。」と施策をとったと思います。

オフリミッツなどの米軍の締め付け政策

 その政策の一つが「オフリミッツ」でした。最もアメリカ軍に頼って生活をしていたコザ(現沖縄市)の飲み屋街への米軍の立ち入り禁止をしました。米軍が立ち入らないと干上がってしまい、生活ができなくなってしまいます。

 それからもう一つ、米軍は「大学を潰す」と言いました。なぜかというと、学生が土地反対運動をして、そのうえ、デモに参加した学生が「ヤンキーゴーホームと言った。反米運動をする学生たちを許すわけにいかん。」ということで「大学を潰す」という行動にでたのです。当時の琉球大学は米軍民政府が管理ですからそこから大学の方に通知がありました。大学の先生方、学長以下評議員の先生方が大変に悩んで何度も何度も論議をしたけれども結局、学生のデモ行進にはどこにも落ち度はありませんでした。

 なぜかというと、大学はデモ行進大会に参加することを許可したのです。デモに行くために警察の許可が必要で警察署の許可も取っていました。どこにも違法な点がないので、大学は非常に困り、学生を処分するわけにもいかないので何度も何度も理事会を開いたり協議会を開いたりしました。

「琉大事件」

 やむを得ず、指導者の学生会長ほか7名を処分しました。その処分内容は6人が退学処分で1人は謹慎処分になりました。たまたま、私はクビにならずにそのまま残りましたが、その後、大学は集会を全部禁止にしてしまい抗議集会もできませんでした。学生は抗議もできないし、身動きができない状態に追い込まれ、次第に学生運動そのものが下火になりました。

 50年経った後、最終的には大学は全部、再調査をして「これは大学が間違いでした。全部取り消します。」とお詫びしました。

ハワイ留学を通して

 1960年、ハワイに「東西センター」ができました。管轄するアメリカ国務省が奨学資金を出してハワイ大学大学院の留学制度を推進していました。沖縄の方からも採用したいと声掛けがありました。当時、沖縄の採用枠は5人で、私は応募して合格することができました。幸いにも琉球大学の職員として現職のままで留学させてくれました。1962年から1964年の2ヵ年間、ハワイ大学大学院で勉強しました。

 私は東西センターの奨学生でしたのでそこの寮で生活しました。アジア太平洋地域から将来のエリートとなる将来に次世代を背負ってリーダーとなるエリートクラスを奨学金で呼んで勉強させている所でした。私が行った時にはアメリカから若者が250人ぐらい来ていて、アジア太平洋地域からは250人程で、そのうち、沖縄からは5人でした。当時は日本もまだ発展途上の中にいたので日本全国からも70人ぐらい来ていました。

 同じ目線で同じ寮で宿泊を共にしながら学び合う 。そうすると異文化の中でお互いの交流というのがあって、それぞれの価値観の違いの中で学び合うわけです。その中で培ったことは国際理解の重要性だとか国際協力のあり方など、そのようなことをかなり学びました。文化の違いなどを互いに学び合う非常にいい機会で私の2ヵ年間はものすごく貴重な体験になりました。

 これはアジアの人たちとの付き合いもそうですし、南洋群島から来た人たちもそうです。その人たちと随分つきあいました。私は「国際理解」「国際協力」というものを今のライフワークとしていますが、留学経験が一つの起点となって現在、そういう取り組みをしています。

 私は大学での専攻が経済でしたので、経済大国のアメリカが「どのような経済大国なのか」また「社会構造がどうなっているのか」というのを見てきたいという思いがありました。ハワイ大学に行って2ヵ年勉強しながらそれが終わる時に40日間、アメリカ全体を旅しました。最初は当時、世界一の自動車会社の「フォード」の本社を見てきました。世界を席巻している車のフォードですからそこを見ると、「アメリカの企業の規模が分かる。」と考えて見てきました。

 もう一つは裏を見ようと思いました。当時、アメリカで一番危険な場所と言われたシカゴの貧民窟街がありました。そこは昼から酔っ払いが多く大変危険なところなので警察としても「そこは入るな」と言われる場所でした。そのような裏を見ないといけないという思いが強くて大変危険な所でしたが街の中に入って見に行きました。アメリカの一番豊かな面と貧しい面を絶えず念頭に置きながら見てきました。言ってみれば、「社会構造を見てくる」というような思いでした。「アメリカの豊かさ」と「日本が戦争をした愚かさ」をつくづく感じました。アメリカが戦後、今日と比較して最も経済的に豊かで人々の生活が安定している時代でした。

琉球大学からの転職と人生に影響を与えた恩師

NHK放送局殷時代

 放送局へ行きたいという思いもあり、そこに「沖縄放送協会のスタート」ということだったので、そこで、私は希望して琉球大学から沖縄放送協会に転職をしました。今まで何をするにしても全て制約があったので、アメリカ軍の布令の下の生活から解放されて日本国の憲法の下に戻ることは非常に希望がありました。

 東京でNHKの仕事をしている時に海外からの研修生を受け入れる受託担当をしたことがあります。その時は政府との交渉があって郵政や国際事業団と交渉しました。東京の中央で政府との交渉してきたことがあったので、後に沖縄県庁に移った時、政府対応をするときにはNHKの東京勤務を経験したことが大きな支えとなりました。

人生に影響を与えた恩師

 経済学科で私の担任だった久場政彦先生。久場先生に大変お世話になりました。学生の頃に教えられただけではなく、卒業後、私はいろんな職場に移りますが、そのたびに先生から連絡をいただいて激励を兼ねて食事に誘っていただいたこともあり、私の生涯を通して先生がお亡くなりになるまでずっとお世話になりました。

 もう1人は仲宗根政善先生です。仲宗根政善先生が琉球大学の副学長の頃、私が新聞部長をしていた頃から先生にお世話になりました。私は大学卒業後、琉球大学の学生部に勤めました。私が学生部に勤めた理由は2つあります。一つは琉大事件で処分された学生の人たちを支援するために私は学生部に残りました。処分された学生の6名のうち4名は本土の大学に編入学しました。当時は貧しい時代で当の学生たちもアルバイトしながら琉大に通っていました。そのためには資金的な支援をしなければいけません。支援をするためには資金を集めないといけない。当時、大学が学生を処分したのですが、仲宗根先生は副学長として若い将来ある人たちをここで処分をしてそのまま社会に放り出すということが忍びなかったと思います。仲宗根先生は大変な力を入れられて処分学生の編入学に尽力しました。それで、早稲田や日本大学と交渉して処分学生たちの編入学を認めてもらいました。そこで、編入学をさせた学生の支援策として奨学資金をしなくてはなりません。その時、私は仲宗根先生のお供をして村や議会などを回って支援金のお願いに行きました、もう一つ、大きく支援したのが沖縄教職員会です。土地闘争の時、大きく活動を展開したのは沖縄教職員会でしたので沖縄教職員会が奨学資金の支援をすることになりました。後の沖縄県知事、屋良朝苗先生が教職員会長でしたので、その支援金を受けて私が仕送りをする役割を果たしました。

 もう一人は大田昌秀先生です。大田先生が県知事になってから県の知事公室長や政策調整官として大田知事に仕えて、平和行政についての仕事をさせていただきました。琉球大学からのつながりで私は3名の先生方に大変お世話になって、先生方の背中を見て生きてきたという思いがあります。

「平和の礎」と平和への思い

「平和の礎」建立

 「平和の礎」を作るにあたり3つの大きな構想がありました。一つは平和発信の拠点として「平和の礎」をつくること。もう一つは「沖縄県平和祈念資料館」を新しくすること。「平和の礎」と「平和祈念資料館」を一体化させた活用をするということでの平和資料館を移築して拡大する。それからもう一つは「国際平和研究所」です。知事に同行して、県内外のいろんな研究所を訪問しました。

 大きな3つの柱が沖縄から平和を発信するということ。それはいつの時点からスタートするかというと目標が先に決まっていました。1995年は戦後50年になるので「50年を節目として過去の戦争の悲惨な状況を風化させることなく、それを沖縄から世界に平和を発信していく。」という目標を掲げました。目標を先に置いて、「平和の礎」をつくっていくことをスタートしました。

 1992年。私が知事公室長になった時に「平和推進課」をつくって、具体的な取り組みがスタートしました。一番大事なことは「平和の礎」に刻銘する名簿を全部整備することでした。刻銘するためには各国の協力と了解を得なければいけません。国内で言えば全国の各県の協力を得なければいけないし、それからアメリカの協力を得なければいけません。

 それから、かつて植民地だった台湾、韓国、北朝鮮。それらの国々との協力を得なければいけませんでした。名簿を整備するにあたって、まず、最初に米国に行った時、アメリカ国防省を訪れて、「沖縄で敵味方なく刻銘する記念碑をつくる。そこで、アメリカの亡くなった人たちの名前を刻む了解を得たい。」ということを伝え、大田知事が自身の戦争体験を含め、いろいろなことを話し込みました。米国側のキックライターのほか5人の委員は非常にみんな感動して「ぜひ、協力しよう。」と言ってくれて、名簿の収集がスタートしました。

 台湾は沖縄に事務所があります、そこの所長と会って名簿をもらうことと「平和の礎」について所長を通して台湾政府へ報告し許可をいただくことになりました。韓国については沖縄に領事館がありました。韓国の領事と会って、同じように説明して韓国政府の了解を得るようにしました。それから、北朝鮮については当時、朝鮮総連の支部が沖縄にあったので、支部長に会いました。そのようにして台湾、韓国、朝鮮から全部了解を取りつけて、名簿整理に入りました。

 つくるまでの期間はわずか2ヵ年しかありませんでした。「平和の礎」の完成は1995年の6月23日だと完成の日にちはすでに決まっていました。そこへ向かって作業をしなくてはいけないし、時間は僅かしかありません。名簿を収集して、それから図面を描いて、設計図面をやって建築物をつくる。そういうものをするには時間が相当かかるのです。そして、それは全部、委員会を置いてその委員会の意見を聞きながら進めなくてはいけないから短期間で勝負をしなくてはなりませんでした。

 名簿については平和推進課が担当でしたので「厚生省の名簿だけで止めていいんじゃないかな?」という思いが私にもありました。ところが、刻銘委員長の沖縄国際大学の石原昌家先生から「全戸調査からすると、全ての各市町村の協力をいただければ、刻銘ができますよ。」という提案がありました。以前、石原先生は学生と一緒に浦添の方で全戸調査をしたそうです。全戸調査で漏れのない刻銘がしたかったので「ぜひ、市町村の協力をいただきたい。」とお願いをしました。

 それから、平和推進課では手分けをして、いろいろなところに働きかけたり、ボランティアをお願いしたりすることで各字の公民館等を使って全て調査をしました。全戸調査が終わり、調査をした結果を今度は新聞社の協力を得て、全てコピーを作りました。そして、公告縦覧を行い、漏れがないかあるいは正しい記入になっているのかというようなことを全部チェックして推進してきました。

 知事としては鉄血勤皇隊として「あれだけの犠牲者を出した。」ということの思いも非常に強かったと思います。戦後50年にして、戦争を風化させることなく平和を訴えるためには「この時期に『平和の礎』をつくらないとだめだ。」という思いがあり、それを繰り返し県議会でも説明していました。県議会で最初は反対意見であった人たちも完成後には「よかったですね」と評価してくれました。私は各市町村や県民全体が協力したので「平和の礎」というのは 県民総意による建設だと思っています。

平和への思いを次世代に繋ぐ

 多くの人たちが今、「平和の礎」に行って、それを通して沖縄戦というのが何であったのか。これだけの小さい島でこれだけ多くの人が亡くなったという戦争の恐ろしさを実感されるのではないかと思います。ただ、沖縄ではアメリカ人は敵であったけれども、人を殺したけれども、それでも敵の名前を刻んだ。これは「戦争を憎んで人を憎まず。沖縄の人のヒューマニズムなのだ。」と私は理解しています。

 今後、さらに沖縄から平和を発信するために「平和の礎」の思いを語り継ぐというのは非常に大事だと思います。私は遺族もだんだんいなくなる中でどうすれば「平和の礎」が守られて、若い人たちが平和発信をできるかを考えています。幸いにも今、6月慰霊の月に「平和の礎」の刻銘者の名前を読み上げる活動がスタートしました。

 中学生も参加して、戦没者の名前を読み上げる。そのとき、読み上げる人たちの「思い」というのが「亡くなった人たちが生きていたらどういうことをしていたのだろう。」と生きているときの姿を思い浮かべながら読み上げているということも聞いています。私はそうあってほしいです。単に名前を読み上げるだけでなくて、「その人たちが生きていていたら、どんな幸せな生活を送っていたのだろう。」戦争があったために犠牲になってしまった。その人たち一人ひとりへの思いを寄せて読み上げていく。今、その読み上げる運動の輪が広がっています。これは沖縄だけではなくて 韓国あるいは日本本土、台湾、アメリカにこれからどんどん広がっていければと思います。それぞれの国から読み上げることが継続できればそれが一つの平和発信だと思います。

 「平和の礎」が世界平和を目指すシンボル、記念碑としてそこから平和を訴えていく。そして、その輪を広げていくことに「平和の礎」の名前を読み上げる活動が入ってきましたので期待をしています。若者への期待です。

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