
フィリピンを想う 沖縄のシスター
- 1935(昭和10)年生まれ
- 宮城 涼子さん(みやぎ りょうこ)
TIMELINE関連年表
| 1935 |
フィリピン ミンダナオ島ダバオ市に生まれる。
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| 1946 |
フィリンピンの収容所から引き揚げ、横須賀を経由して埼玉県川越市へ。
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| 1947 |
家族で父の実家がある大宜味村喜如嘉へ移住する。
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| 1949 |
中学1年生の時、家族そろって石垣市星野地区に移住する。
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| 1954 |
八重山農林高校2年生の時に洗礼を受ける。
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| 1957 |
東京都保育専修学校入学
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| 1958 |
幼稚園教諭免許を取得、八重山海星幼稚園に勤務する。
聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会(カトリック与那原教会)が建設される。 |
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| 1960 |
25歳で修道院に入り、シスターとなる。
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| 1981 |
フィリピンでの体験学習で、日本人としての謝罪と琉球人の誇りに目覚める。
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| 現在 |
定期的に生活困窮者に対する食糧提供などの支援活動を行っている。
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STORY証言
証言者略歴
与那原町にある聖クララ教会のシスター。戦時中、生まれ育ったフィリピンの山中で日本兵によって弟妹を殺害される。高校時代に洗礼を受け、キリスト教徒としての道を歩む。戦後戦争未亡人への職業支援に取り組んだ。幼児期のトラウマを乗り越え、日本のシスターたちへ体験学習を通し沖縄の現状を伝える。基地問題を環境問題、人権問題として捉える平和運動や、生活支援困窮者支援等の平和活動弱者支援活動を継続している。
幼少時代を過ごしたフィリピン
フィリピンでの幼少時代
宮城涼子です。子どもの頃はリリィと言われていました。産まれはミンダナオのダバオです。父は17歳の頃にフィリピンに渡り、アバカ(マニラ麻)の工場を立ち上げるまで滞在して、大宜味村の田嘉里に戻り、母と結婚しました。その後、再び、フィリピンに戻り、そこで生まれたのが私です。
父が経営する工場で働くフィリピンの人たちの家を周囲に作って労働者の家族を含め、全員の面倒を見ていました。労働者としてフィリピンの方が20人から30人いました。フィリピン人労働者の子どもたちと一緒に遊びました。タガログ語ではなくビサヤ語で会話をしていました。子どもはお互いに、日本語で会話をしていました。片言ですがビサヤ語で話が通じるようになりました。自分が日本人という意識は全然ありませんでした。皇民化教育を受けたという意識もありませんでした。
覚えているのは宗教の時間です。毎日1時間ありました。キリストの生涯について学び、それがすごく心に残っていました。クリスチャンになった理由はフィリピンでの生活の影響が大きく家族全員でキリスト教に改宗しました。
フィリピンでの戦争体験
学校周辺に日本軍の兵舎ができました。日本軍が学校周辺を管理するようになってくると工場で働いていたフィリピン人の労働者が日本軍に時々連れ出されました。連れ出された労働者は帰ってきませんでした。労働者の子どものほうが日本人を「ハポン。ハポン。(日本人)」と意識するようになりました。
日本軍により労働者が連れだされ、工場がまわらなくなりました。労働者のお父さんたちは大きな穴の中に生け埋めにされたようです。ダンプカーに乗せられて、穴に入れられ帰って来ませんでした。フィリピン人の子供たちは家族みんなで逃げだして私たち家族もそこにはいられないので山岳地帯に行きました。山岳地帯に行くまでには父は招兵されませんでした。おそらく健康上の理由で招兵されなかったと思います。
しかし、近隣の沖縄や日本の人はみんな招兵されました。父は近隣住民を隣組として一緒に避難しました。食料を探しに行かないといけません。すごい奥地の農家まで行くのには出かけると2〜3日は帰ってきませんでした。そういう時は隣組の中で年長の私が小さい子たちを預かりました。
敗残兵による衝撃的な事件
日本軍は組織的に解散して一人一人が敗残兵になりました。日本兵は地理が分からないので日本人のいるところに集まって来ました。食べ物がありません。山岳地帯でしたが偵察機がずっと飛んでいて、少しでも声がすると襲撃されました。
私の弟は3歳で妹の「はるみ」は1歳半でした。父母が帰るまでは食べ物がないのでお腹を空すかして泣いていました。そこに一人の敗残兵が入ってきて弟と妹の泣き声を聞き、すごく怒鳴りました。ものすごく泣いたものだから弟の「かつとし」と妹の「はるみ」はこの日本兵によって武器を持っていないのでひねり潰されて崖に落とされました。下は大きな川が流れていて探しに行くこともできないし、2人の泣き声も聞こえない。それっきりでした。
両親が帰ってきた時には弟と妹がいないことをすぐ察知したと思います。日本兵がそばにいて、そのようなことがあったので隣組は解散しました。私はすごく責任を感じました。みんなの子どもを預かっていたので、ものすごい罪の意識がありました。その時、初めて「私も日本人だ。」と意識しました。この兵隊と私は同じ国民。日本人。日本人になりたくない。すごいショックを受けました。その時の後遺症はずっと後まで続きます。
父は地理に詳しかったので、どんな山岳地帯でもどこに行けば作物が取れるかが分かっていました。水がある場所には行けないので木の根を掘って湧き水を探しました。そうして逃げ回っているうちに飛行機から「出てこい。出てこい。」と日本語で書かれたビラがいっぱい落ちてきました。それでも出るわけにいかない。出られませんでした。
なぜなら、フィリピンでは暴動が起きていたからです。「ハポン(日本人)は全員パタイ(殺害)する。」
日本兵がフィリピン人に物凄く酷いことをしたので暴動が起こっていて出るに出られない状況でした。
米軍が山岳地帯をジープで探しまわってそれに見つかり、私たちはトラックが止まっているところまでジープで連れていかれ、そして、トラックに乗せられました。乗っている人がいっぱいになると荷物のようにテントをかぶせられました。
周囲でフィリピンの人たちが暴動を起こしているから収容所に行くとアメリカ兵が守っていました。フェンスの外側でフィリピンの人たちが朝早くから日が暮れるまで「日本人を殺す。」と言っていました。フィリピン人は日本兵に酷いことをされていたので日本人はアメリカ兵に守られて日本まで護送しました。夜に海上トラックで沖にある大きな船に乗り換えました。
横須賀経由で沖縄へ引き揚げる
横須賀に着いた時、季節は冬で寒かったです。フィリピンは寒くないので到着すると私たちは冬服がないので震えていました。そこに毛布が準備されていて頭から毛布をかぶって食事をもらいに行きました。横須賀に着きましたが結局は難民生活です。
家族で沖縄に戻ることになり、久場崎に上陸して父の故郷、田嘉里に着きました。沖縄に帰ってきた時、アメリカ兵がいっぱいいるので驚きました。彼らは収容所を守ってくれたり、おやつをいっぱいくれたりといろんなことをしてくれたのでアメリカ兵に対して嫌悪感はなかったです。
八重山へ、教会との出会い
計画移民で八重山へ
喜如嘉には中学1年生までいました。それからまた八重山群島民政府と言って群島政府の計画で八重山移民政策がありました。移住先は大浜町の白保の奥のジンギ山というところでした。その村は名前もないので村の名前を「星野」とつけました。
高校2年生で洗礼を受ける
また、海外に行きたいと思って畜産科に入りました。牛の出産や農産加工品、にわとりの卵を孵化させることなど、そういうことをやって海外に開拓に行きたいと思っていました。八重山農林高校隣の教会へ勉強に行くようになりました。その時の宣教師はオーバンと言いました。
当時、沖縄にはカトリックの教会がなかったので、「どうやったら復興できるか。」が課題でした。当時、沖縄の教会では働く人も助ける人もいない。どこに要請しても沖縄に宣教師は来ない。そこで、自分たちでそういう組織を作るということになり、「修道会」が出来ました。支援してくれたのが奄美の若い女性信徒たちでした。オーバン宣教師は日本語が上手でした。この方のおかげでのちに、私は東京の養成に行かせてもらいました。私が洗礼を受けたのは高校2年の時です。
幼稚園教諭への道
幼稚園教諭になるために上京する
高校を卒業して学校の先生が足りない状況でした。私は代用教員として伊野田の小学校に赴任しました。当時は「代用教員」がいました。しばらくして、「東京に勉強しに行かないか。」と教会から声をかけられました。高校卒業後の1年目は小学校で勤務して、2年目に幼稚園教諭の免許取得のために東京へ行かせてもらいました。
教会は「戦後の復興を立ち上げるのは教育だ。まずは幼児教育から始めよう。」ということで各教会に幼稚園を作るために要請しました。私は八重山にいたので海星幼稚園のために東京へ2年間勉強して帰ってきて、海星幼稚園を立ち上げました。午前中は幼稚園に出勤し、午後は自分の村に帰って教会で村の子供たちに勉強を教えたり、伝道師が大人たちに勉強を教えたりしていました。
私たち教会の趣旨として事業所を持ちませんでした。地域のニーズに応えるためにしがらみに左右されないようにしたかったからです。私たちも働く時は採用され、辞令をもらってから働きに行きます。だから、自分たちのものはこの建物だけ。建物と土地だけは宗教法人として那覇教区からいただきました。今やっている幼稚園や保育園はみんな那覇教区の事業です。それに私たちは応えていくかたちです。だから、デモや座り込みがある時もあまりしがらみがないから出て行きます。「市民と一緒にやる。」というのが私たちの一つの狙いです
クララ幼稚園に勤務
聖クララ幼稚園は沖縄県内で最初にできた幼稚園だと思います。建物はすごく頑丈に作られていると思います。アメリカ人の出入りが多く、米軍がいろんな物資やおやつ等を持ってきてくれました。
時々、日本人が訪ねてきました。私は修道院に入るまで気づきませんでしたが、日本人を見ると鳥肌が立つのです。ヤマトンチュー(日本人)というだけで鳥肌が立ちました。自分の中で何か拒否反応や憎しみや怒りが出てくる時、それは私の精神的、霊的な生活の大きな妨げになっていました。「何とかして原因を探さなきゃいけない。」という思いがありました。ミサの時にずっと祈っていました。「どうぞこれを気づかせてください。悟らせてください。」とずっと祈っていました。
トラウマと向き合い、再びフィリピンへ
自身のトラウマ(PTSD)と向き合う
「生涯養成」というのがあります。全国からシスターたちを東京に集めて再養成するための「生涯養成」がありました。生涯養成に行った時に割と話が通じ合いストレートに話ができるメンバーやグループです。この人たちはみんな日本人でしたが、私は鳥肌が立ちませんでした。鳥肌がたつのは日本人の男性に対してだけです。
その時に初めて分かち合いの最中に私は大声で「日本人は嫌い!」と叫びました。この日本のシスターたちに対して自分も驚きました。言うつもりもないのに自分の思いが爆発して、シスターたちもびっくりしてみんな黙ってしまいました。
仙台から来たバイオリニストで音楽のシスターがいました。そのシスターも何か事情があって「記憶の癒し」をしてもらった経験のある方でした。そのシスターから「宮城シスター。そこに何かあるね。そこが原因だね。」と言われました。生涯養成が終わって、いつも日曜日にシスターと会って、1~2時間ほどシスターと聖書を読んで、祈りながら「叫びたいことがあれば叫びなさい。」と言われました。現在からずっと幼少期まで記憶をたどっていきました。その療法を半年ほど続けたあと、ダバオの山岳地帯までさかのぼりました。記憶が山岳地帯に来た時にものすごく叫びました。そしたら、シスターが「そこだね。今、あなたが言いたいことがあったら言いなさい。私が原因であるその時の兵隊だと思って、私に向かって叫びなさい。」と言いました。それで、私は感情が爆発して彼女に全部、吐き出しました。弟や妹が日本兵に落とされた時に言いたかったことを吐き出しました。
父はその時、言っていました。「危ないから口出さないで、あなたも殺されるよ。赦しなさい。赦しなさい。」と父が私の手を捕まえていたところまでたどり着きました。「あなたの中に誰かいませんか?」と最後に彼女は言いました。私は「父がいます。」と応えました。「父が私の手を捕まえて、父の温もりを感じている。」と・・・
その時に父がキリストの姿に変わりました。そして、「赦しなさい」という言葉をいただきました。その時、私はすごく解放されました。そこが解放の一歩でした。気づいたから、すぐ治るものでもない。一旦傷ついたものはまだ残っています。過去の憎しみを赦すことをしなけゃいけない。そのためにはどうするか。自分の気持ちをどこかで表現して吐き出さないといけない。
もう一度フィリピンへ
自分がもう一度、フィリピンに帰って、「その人たちにお詫びをしないといけない。」と思いました。それからお祈りを始めて「フィリピンへ行けるチャンスをください。」とずっと祈って3年目にチャンスがありました。
「エクスポージャー」という体験学習がありました。「ダバオに行きたい。ぜひ、プログラムに入れてください。」といってプログラムに組んでもらい、ダバオに行きました。私は日本人として「フィリピンの人たちに謝らないといけない。」と思い、共同農場をやっている所に行きました。
そこでは朝4時半に鶏が鳴き出す頃に畑に行って、太陽が上り、暑くなったら帰ってお祈りをして、また、朝ご飯という日程でした。社会部の人たちが朝食を準備して、私たち日本から行ったシスターたちを歓迎して、彼らはギター弾いたり歌ったりしてくれました。
「日本から来たシスターも何かしてください。」ということになり、ギターに合わせて沖縄のカチャーシーをもんぺを着たまま踊りました。フィリピンの方たちがみんな立ち上がって一緒になって手をつないで踊り、それが一つの大きな和解になりました。
その時に初めて自分が「なぜここに来たか。」という意図を説明しました。私は小さい時こういう体験をしました。日本兵がしたこともよく見ていました。日本人として謝りたいと思っていても、フィリピン人の家族に言うことができなかったです。その場にいたというだけで「いつ仕返しされるか分からない。」という恐怖がありました。そういうことも全部含めて赦してもらい、和解しました
沖縄で体験学習
体験学習を終え、マニラに集合してこの研修についての分析が始まりました。そこで言われたことは「日本から来て、何もフィリピンですることはありません。あなたたちがここで体験したこと。感じたこと。見たこと。匂いをしたこと。いろんなこと。自分の足元に必ずあるはずです。自分の足元でそれをやりなさい。」と言われました。それから私は恐れずにフィリピンの人と関わるようになりました。それが体験学習の始まりでした。
日本のシスターたちは8000人程います。シスターたちの体験学習が始まり、私自身が沖縄のことをあまり知らなかったのでそれを企画することによって沖縄のいろいろな人材とふれあうことになりました。
体験学習に来る人たちにこのフィリピンでの話をしました。「私は日本人が嫌いでした。」ということを発表しました。皆さんのお父さんやお兄さんかもしれない。戦争に行った経験のある隣近所の人かもしれません。戦争の経験があるのなら、必ず人を殺しているはずです。あなたのお父さんが私の弟妹を殺したかもしれません。だから、これに対する意識を持って、戦争というのは天皇とかそういうものではない。だから、関係ないではなく日本人として皆さんも全部、謝らないといけないです。20年間、体験学習を続けてきました。私の鳥肌がたつことは段々となくなりました。
だから、気づいたら行動が必要になってくる。それは形が違うけど私たちの生活の中に沖縄での修道会の使命はやっぱり、平和問題や人権問題に対することです。だから、そういうことに対して意見も言わないといけないっていうのはどうでしょうか。最初はずっと駆け込み寺みたいにやっていたのが、次は児童関係のアメリカとの関係とか、中学生が出産しなきゃいけないとか何とかって出産するまで匿っていたことなど。そうしているうちに辺野古の問題が起こり、環境問題が出てきたり、高江の問題が出てきて座り込みに行ったりしました。
今は生活困窮者がいっぱいいるので牧志公園に行ってお米や品物などの物品を持っていく。時代によって違うけれどもそういうことに意識を向けていく修道会です。それを通して平和問題に関わるパートナーシップを韓国と取っています。だから、毎月15日は韓国と同じ時間に祈ります。最初は韓国にも体験学習に行って、いろんなことさんざん言われて、赦しや和解など。それで、うちの教会の庭には50周年に韓国の銅像を作りました。
教会としてできること
戦後、教会としての支援活動
アメリカから来た宣教師たちは沖縄の状況を見て、それこそ復興はもちろん。教育を立ち上げると同時に戦争未亡人は仕事がなかったので、それで未亡人のためにミシン部を作りました。そして、ランドリーも作りました。とにかく仕事を作りました。そしてミシン部は洋裁。これはユニフォーム。軍のユニフォームだとかランドリーも軍から仕事を持ってきて仕事をさせていました。
最初に来た頃の宣教師たち、神父さんたちが休暇をとってアメリカに帰る目的は沖縄のためにお金を集めに行ったようなものです。一番大事なことは子どもたちが健康に育たないと将来に響きます。子どもたちの義務教育の中の物資も全部。20何年間、アメリカの脱脂粉乳を援助物資として調達しました。沖縄へ送るために アメリカでは買えなかったそうです。
私は昼は幼稚園、夜は私服に着替えてから金武や辺野古のバーに出かけて行くとかそんなふうにしてその人たちの健康状態がどうか。ちゃんとサラリーはもらっているかどうか。信仰を守られているかどうか。そのへんを確認していました。次はその頃、南米から出稼ぎのために南米の人たちが来ていました。那覇教区として国際協力委員会を作り、そういう人たちを支援しました。
人を呼び寄せる教会の建物
この教会を設計した人が有名な方でした。戦争に対する何かこの一つの償いとしてすごく力を入れて設計したようです。私たちが人を呼びに出ていくのではなく建物が人を呼んでいます。不思議ですが、人間の存在も大事だけど建物が存在している。出て行かなくても存在するものが相手を呼んでいるというようなそういう県外からのお客さんが結構多いです。
できないことは考えない。何ができるか。まだ動ける。まだ手が使える。まだ見ることができる。聞くことができる。その範囲内でできること。ただ一つ、気を付けることはすぐには始めない。若い時はすぐに飛び出してブルドーザーみたいにやったけれど、でも、今はそれが本当に神様が望んでいることなのかどうかを私たちは半年とか1年祈ります。祈ってからOKしています。
神様がいろんなものを持ってきてくれます。やっぱり、自分で「できること」や「できないこと」。「できることは何か。」ということで少し、喋ることはできるからお客さんが来た時は「Noと言わないで受けましょう。」だから、自分たちの生活費から捻出して今、私たちは貧しい人や小さな人、弱い人のために牧志のホームレスの人とかそういう人たちに受けたら継続ということ。これは途中でやめないでそのことを続ける。それのためには自分たちだけでしない。
辺野古とか基地問題について「なんでシスター。基地問題までするの?」と聞かれます。「基地の問題ではなく、基地が起こす環境破壊。人権の問題。それに対する反対なのよ。」と回答します。「基地がそういうことをしていることに反対。神様が創造した素晴らしい環境、自然を預かっているのにそれを壊すことに反対しなかったらおかしい。」と思います。高江で座わりこみをした理由はそのためです。だから、結局、高江の自然を破壊して赤土が海に流れて真っ赤に染まった。それは珊瑚礁や魚は全部、死滅するわけでしょう。それは陸と海が戦争です。だから、そういうことに対する反対。基地の存在がそういうものに持っていくということに反対です。





