
「慰霊の日」は学ぶ日
- 1939 (昭和14)年生まれ
- 金城 実さん(きんじょう みのる)
TIMELINE関連年表
| 1939 |
勝連村浜比嘉島(現・うるま市)に生まれる
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| 1944 |
十・十空襲の様子を浜比嘉島で目撃する。
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| 高校時代 |
学生寮に入寮し、前原高校に通学する。
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| 1965 |
京都外国語大学を卒業。
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| 教員時代 |
西宮市立西宮西高校や近畿大学附属高等学校に勤務。
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| 1975 |
夜間中学生の像制作 (大阪市立 天王寺夜間中学校)
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| 1980 |
オモニの像制作 (大阪市立 文の里夜間中学)
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| 1987 |
読谷村チビチリガマに「世代を結ぶ平和の像」建立。
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| 1987 |
長崎市の平和公園に「平和の母子像」建立。
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| 1994 |
沖縄(読谷村)に在住し、彫刻制作に専念する。
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| 2006 |
読谷村に、沖縄戦で強制連行され犠牲になった軍夫、慰安婦の慰霊碑「恨の碑」建立
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| 2008 |
沖縄靖国神社合祀取消訴訟
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| 2025 |
日本軍による住民虐殺を語り継ぐ目的で久米島町の有志と追悼レリーフを共同制作。
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STORY証言
証言者略歴
彫刻家。
大学卒業後、高校教師として働く傍ら、独学で彫刻制作を始める。沖縄戦や差別、人権をテーマにした表現活動を通して社会問題への強いメッセージを発信し続けている。
1979~1980年「戦争と人間」展を全国80ヵ所で巡回展を行った。
主な作品 「残波大獅子」、「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」、「解放へのオガリ」
浜比嘉島での生活と大学受験
家族について
出身は浜比嘉で1939年に生まれました。親父は私が生まれると即、熊本連隊に志願しました。父については写真でしか分からず、全く父親の記憶がありません。
浜比嘉島での沖縄戦
私は敗戦直後の最初の小学校1年生です。校舎ができるのが小学校の3年生ぐらいからです。村中のものがすすきの茅を刈ってきて茅葺きやトタン屋根でした。最初はアメリカからもらったテントでした。担当の先生は女性で当時、児童は 22人でした。先生は教室もないので浜辺の岩の下の岩陰を利用して五十音や算数の勉強をしました。僕はそんなに成績がよくなかったです。小学校1年から4年まで「どもり(イザナー)の実」や「泣き虫 実」とあだ名がついていじめられていました。
母親がとても勉強に厳しかったです。戦前の教育方法で「実を立派な日本人として教育してくれ。」というのが親父の遺言だったらしく強制的に勉強させられたので勉強が嫌いになりました。前原高校の1年の時に英語と日本史が赤点でした。高校に入ると柔道部に入ったのでほとんどいじめられなくなりましたが、成績は相変わらず悪かったです。
18歳から19歳の時に南米の祖父から大金が送られてきました。大学受験のためにパスポートを持って、東京に行きました。私は大学に行く気はありませんでしたが、おふくろを安心させようと思って母親のために大学受験をしました。ですから、自分から進んで勉強のために大学へ行くという気になりませんでした。4年間、浪人のうち、2年間、東京の大学を受験しましたが、合格できませんでした。「やっぱり、大学に行くのは諦めよう。」と思いました。
浜比嘉島を出るときには餞別金をもらって渡し舟がぐるぐると3回程、回りながらおじいさん、おばあさんたちが「実、頑張ってこいよ。」と見送ってくれました。それには理由がありました。うちの島の者は学校の教師になった人もいるが、先生は隣の平安座からきて、いつも平安座の人たちから馬鹿にされていたから、「実。お前ぐらいは大和(日本本土)に行って、大学を卒業して、学校の先生になって戻ってこいよ。」ということでした。島の人たちから期待をかけられていたわけで私としては私としてはありがた迷惑でした。ドラ鐘や太鼓まで鳴らされ見送りされて、東京に行きました。
勉強をしなかったわけではありませんがとにかく勉強についていけなくて予備校に行ったものの半年で辞めました。その時、友人たちから「金城君。沖縄に帰るのなら、上野公園ぐらい行っておいたほうがいいよ。西郷隆盛の像があるから。」と言われ、東京に来てからどこにも行っていなかったので行ってみることにしました。
上野公園に行くと大雨豪雨の中、風が台風のように吹き荒れる状況の中、ふと、気が付くと建物が見えました。その建物がロダン美術館だったのです。当時はロダン美術館で今は西洋美術館に変わっています。彫刻という名前も知らなかったし、「世の中にそんなものがあるのか。」と思いました。野外に展示されている彫刻をライトが照らし、嵐の中、雨の中でも彫刻が動いて見えるぐらいすごくいい光景でした。
後で行ってみて分かりましたが、ロダン作品の「地獄の門」があり、その左側に「アダムとイブ」という彫刻があります。その次にロダンの弟子だったマイヨールの「弓を弾くヘラクレス」があって、「地中海」という裸婦像がある。正門を越えて左に行くと奥の方に「考える人」が座っていました。さらに、衝撃的で最も心惹かれたのが「カレーの市民」という作品でした。計り知れない魂に連れ込まれたような感覚が今でも残っています。「カレーの市民」は6人の群像で大きさは人間より大きくて、だいたい2メートルぐらいの大きな作品です。
大阪で再度大学受験
大阪でもう一度、中之島図書館に通って勉強して、ようやく京都外国語大学に合格しました。京都外国語大学を卒業後、近畿大学付属高等学校で英語の非常勤講師を務め、天王寺夜間中学校という夜間中学とそれから西宮西高等学校定時制というふうに30年ほど英語の教師を勤め、その間に彫刻の世界に陥ってしまいました。
差別と教育
差別について
私が「最初に差別されているという実感はいつ頃あったか。」という話に触れます。本土へ渡るためににパスポートを取った頃からなぜ、沖縄の人間であるということに誇りを持てなかったのかよく理屈は分かりませんが、ヤマト(日本本土)に行くとヤマトンチュ(本土の人)と向き合った時、「自分が潜在的に無意識のうちにヤマトンチュよりも沖縄の人間が劣っているんだ。」という心理的状況にはまっていました。沖縄の人間の中には国費留学生とかディキヤー(頭のよい人)もいます。私みたいな平均的な人間はやっぱりヤマトンチュに対するコンプレックスを持っていたのです。
ある時、アルバイトで稼いだお金で飲み屋に入ったら、店員から「イントネーションが変わっていますけど」と言われました。おかしいといわずに「変わっていますけど出身はどちらですか。」と聞かれた時になぜか私は過剰反応を示しました。
これは意外と沖縄の人や朝鮮の人、部落の人たちもそうです。差別されてきた人間の中に潜在的に防衛本能があります。そうするとどうなったかというと黙ってしまったわけです。そうしたら飲み屋の店員さんが「鹿児島方面ですか?」と聞かれて「はい、そうです。」と言ってしまいました。自分が許せなくなってしまい、ガンガン酒を飲んで、突然立ち上がってテーブルを叩いて、「俺は沖縄じゃ。」と言ってしまいました。
店員さんも差別するために言ったわけではありませんが過剰反応をしてしまいました。差別には過剰反応が付きまとってきます。私の方に被害者意識や過剰反応があるから、自分に嘘をついたことを自分が許せないから私の問題であり、店員さんの問題ではありません。飲みすぎて暴れたら厨房から出てきた若い青年に叩き出されてしまいました。劣等意識とか差別されてきた人間にはとんでもない過剰反応があることを身をもって経験しました。
指紋押捺拒否運動
近大附属(近畿大学附属高等学校)に勤めていた時、指紋押捺拒否裁判というのがありました。指紋押捺の問題で外国人のパスポートに指紋押捺を強制的されているのが「人権侵害や人間の尊厳を傷つけるようなことにならないか。」ということで裁判をするので「証人尋問に立ってくれんか。」と友人に頼まれました。裁判の中で、私が指紋押捺したパスポート時代にどういう思いをしたのかを法廷で証言してくれという話でした。
その時に近大附属の授業でそのことを生徒たちと話し合いました。ある生徒から「日本の法律を守らなかったら日本から追い出せばいいじゃないか。」という発言があってカッとなりました。これが学校での差別問題に向き合うことになったきっかけでした。
あなたたちは朝鮮の人や日本人でない人が指紋を押さないことについて「日本の法律に従わなかったら自分の国に帰ればいいのではないか。」と言いますが、朝鮮の人は自ら進んで日本に来たわけではなくて豊臣秀吉の時代から強制的に引っ張られてきたり、第2次世界大戦で強制的に慰安婦にされたり、軍夫にされた人たちの子孫が同級生や特に大阪に多いということを知っているだろうか。かつて我々、沖縄の人でもパスポートがなければ日本本土に来られなかったということを考えると生徒たちにしっかりと説明しないといけないと思いました。
英語の授業をそっちのけに1時間の授業を割いて、「朝鮮の人がなぜ日本にいるのか。」や「なぜ、沖縄の人がパスポートを持ってきたのか。」について話しました。「沖縄は日本じゃないのか。日本なのか。」ということを迷いあぐねた時代が私の青春でした。中途半端な日本人として扱われた沖縄の歴史があったこともあり、在日の生徒たちと自分自身が重なった経験でした。
日本復帰と沖縄への帰郷
日本復帰
私は大阪の八尾市で沖縄の日本復帰を迎えます。復帰前に大きな事件が起こりました。1970年の12月20日に有名な「コザ騒動」が起きました。あれは暴動ではありません。暴動といってはダメです。暴動は警察用語です。権力が使うのが暴動であって我々一般的な庶民は騒動かレジスタンス蜂起です。
八尾で「コザ騒動」のニュースを聞きました。嬉しかった。優しい沖縄人がね。何を言われてもにやにや笑いながらごまかして生きていた沖縄の人達がこともあろうに米軍属の車80台に火をつけて焼いた。沖縄の人の心意気というか意地というのでしょうか。泣きました。今でも覚えています。子供も妻もいっしょに外へ飛び出して飲み屋を探して大ジョッキのビールを注文して「乾杯」って言って飲みました。店員に「この人、正気を失ったのか。」と思われたかもしれませんがそんなことはどうでもよかったです。私は彫刻で沖縄を表現しようという気持ちに傾いていったきっかけがコザ騒動です。これは大きかった。金城実の運命を決定づけたコザ事件(コザ騒動)でした。
沖縄の日本復帰は大阪では意見が真っ二つに割れました。「いや、こんな復帰じゃなかった。ほとんど沖縄の要望は満たされていないじゃないか。」という側と「どっちでもいいかな。もうパスポートもいらなくなったし、日本人になったのだからいいやないか。」というこの2つに分断されました。私は復帰に対する不満派に属していました。沖縄の復帰運動は大阪にいた沖縄の人たちを復帰賛成派と不満派の2つに分けさせた混乱がありました。
沖縄に戻ったきっかけ
1992年 コリン・コバヤシというフランスに帰化した美術家に「フランスで個展開きませんか。」と誘われました。日本とフランスの文化交流のある団体の主催だったと思います。大阪市長賞をもらった「拷問」という彫刻があり、いくつか4、5点 入賞作品など、また、東京美術館でも賞をもらい、自分で言うのもなんですが、一応、私の名前は売れていました。
1ヶ月、フランスで個展を開こうと日本の日仏学院にはもう説得したというのでそれで近大付属に「1ヶ月間学校を休ませてくれるか。」と相談したところ、11月でしたからもうそろそろ受験も控えていて「金城先生。11月にフランスに行って、1か月間授業をしないで高校の最後の3学期の授業を放棄するなんてそれは無茶ですよ。」と言われました。「それはそうだですね。」と言って高校をあっさりとやめました。それが学校を辞めた理由です。
学校を辞めたら帰るところは沖縄しかありません。沖縄でやるべき仕事は地についていました。私の作品は読谷村で「残波大獅子」と「チビチリガマ」が知られていました。だから、沖縄に帰ってくるにあたっては歓迎こそあれ、「私が来たら困る。」という時代ではありませんでした。
共同で制作すること
子供や年寄などの彫刻をつくる技術のない人たちを一緒に巻き込んで制作する。何で素人の子供達とか素人のおじいちゃんやおばあちゃんも入れて共同で制作をすることになったことのキッカケは夜間中学での勤務経験にあります。平均年齢60歳以上、朝鮮人の生徒が半分以上の夜間中学校に非常勤講師として働いていました。この夜間中学校では音楽や体育、美術の先生は務まりませんでした。「なんでこんな年になってまで絵を描かなあかんのか。なぜ、この歳になっても音楽をしないとあかんのか。なぜ、60過ぎてこんな歳になってもテニスや体育をやらなあかんのか。先生、字を教えてください。」と生徒たちが言うのです。
私は英語の教師として入ったのに校長から「美術も担当をしてくれ。」と頼まれたことが始まりでした。新聞でも彫刻家として名が通っていたから「教育委員会や教育上の問題になったら、学校の事情を話して何とか責任を持つ。」と校長が言いました。「美術の授業がない」というのが問題だと言うのです。アルゼンチンやブラジル帰りの沖縄二世の子供たちは日本語が分からないから沖縄の言葉で授業をしました。
夜間中学の半分以上が朝鮮人のおばさん(生徒)たちです。苦労してきているからガッツもあって喧嘩も上手いし言葉も上手い。学校の中では先生だけども学校の外では私などは坊や扱いでした。
制作にはアルゼンチンとか南米から大阪に来た若い連中と沖縄の人間やヤマトンチューの生徒も入れて10人ぐらいで4月から制作を始めました。制作を進めた2学期の終わり頃、11月まで来なかった朝鮮人のおばさん達3名の生徒が私に文句を言いに来ました。
「先生たちが作っているオモニ像のチマチョゴリが恥ずかしい。」と言い出した。「あなた達は授業に一度も来ないのにチマチョゴリが恥ずかしいとはなんだ。朝鮮の文化のチマチョゴリがそんなに恥ずかしいのか。」と聞いたら「いや、そうじゃなくて先生が作っているチマチョゴリの着方がだらしない」と言いました。授業に来てから文句を言うのであれば、わかるけれど授業にこないのに文句だけ言いに来たので怒りました。「チマチョゴリの着方が気に食わないのであればモデルにならんかい。」と言いました。一人では恥ずかしいというので何人でもいいからモデルになるように伝え、モデルにさせました。
これが毎日新聞に掲載された彫刻です。この彫刻についての死ぬまで忘れられない光景でした。除幕式のくす玉もいっぱい準備されていましたが朝鮮人の生徒がいないのです。ちょっと離れたところの体育館でがやがやと声が聞こえました。チマチョゴリを着たおばちゃんたちが口歌でアリランを歌いながら「アリラン アリラン」と言って除幕式の彫刻の場所に集まり、自分たちで作ったオモニの彫刻周辺を回りながらくす玉を割りました。その光景を見て私は泣きました。その時に「彫刻はこういう風に作るべきだ。」と感じました。
なぜ、差別されて文化や自分たちの生きざまを誇りに思えなかった彼らがたかが彫刻という授業の中で、たかがチマチョゴリという彫刻を作ることによってお互いが人間的な尊厳と差別からの解放としての熱気を感じました。「これこそが共同制作だ。彫刻とか芸術はもったいつけるものではない。誰のための作品なのか。」と気づかされました。
戦争を振り返り 母親との対話
「沖縄の人間全般」と言うと問題があるので母親と私、沖縄人として沖縄戦をどのように振り返るか。母親と言い合いになったのは沖縄の慰霊碑です。ある年に母親と摩文仁に行った時、母親と喧嘩をしてしまいました。摩文仁の丘に奥津城之塔(おくつきのとう)といってブーゲンビルで戦死した約2000人の兵士が祀られていて、沖縄のお墓の形をした中に父親も祀られています。
母親が平和の礎(刻銘された名前)を触りながら泣いていました。悲しいよりも怒りがこみあげてきて「何で泣くのか。」と母親に言いました。母親は「何、実、あなたは何を言うの。あなたは親父が戦争で死んだのに悲しくないか。」と言われました。「ここで母親と決着をつけるべきだ。」と思いました。親子だから苦しいですよ。他人との喧嘩は逃げられるけど私と母親との喧嘩ですからね。
「親父はお国のために天皇陛下のために死んだのだから靖国神社にも祀られるのは当たり前。実は何が不服なんだ。」と母は言いました。天皇陛下のためにお国のために死んだ親父に対して「英霊か。犬死にか。」と問われ、私は「親父は犬死だった。」という発言をしました。「どういう考え方をするの。本当にお父さんが戦死したのが悲しくないのか。」と母は言いました。
「悲しくないな。なんで親父はアンマー(お母さん)と18歳で結婚して19歳の頃に俺が生まれて俺を島にほったらかして、天皇陛下、お国のために志願兵として命を捧げたというのは『犬死』でしょ。私が作った集団自決(強制死)の彫刻「チビチリガマ」をみてごらん。何であんなことが起こったんだ。」と私は言いました。親父の手紙の中に「僕を立派な日本人として教育してくれ。」とこれが立派な日本人か。私は日本人とは違うな。私は琉球・沖縄人で私は日本人にはならない。無理やり法律で日本人にされているけど私は日本人じゃない。私はあの世に行くまで日本人にはならない。孫や子供たちにもそう言っておく「お前のじいちゃんは日本人じゃなかった。」
「『犬死』で親父が死んだことを悲しくないといって私を責めているけれど、お母さんよ。次に戦争がある時にお国のために進んで志願しなさい。命を張って来い。」ということを孫に言えるかと聞いたら黙ってしまいました。「慰霊祭」は泣く時ではない。泣く場所ではない。誰のための慰霊祭なんだ。遺族のための慰霊祭だろう。沖縄戦ではなぜ4人に1人が死んだんだ。沖縄の人が誰のために・・・。沖縄戦はこれからも悲しく綴られていく。物語にもなるが悲しみや哀れみを語るところではなくて、歴史を勉強する。歴史を学ぶ場所であるということ。これが私のあの世に行く最後の遺言としましょうか。





