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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

「艦砲の歌」で伝える 沖縄の戦後史

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  • 1947(昭和22)年生まれ
  • 島袋 艶子さん(しまぶくろ つやこ)

TIMELINE関連年表

1947
石川(現うるま市)で生まれる。
幼少期
読谷村楚辺区で育つ。7人きょうだいの長子として家族を支える。
中学生時代
古堅中学に入学し、姉妹で民謡グループの活動が始まる。
1964
読谷高校に入学。民謡グループを「でいご娘」と命名。
1970
第9回新春民謡紅白歌合戦に出演。
1973
飲酒運転の米兵との交通事故により両親が他界する。
1997
普久原恒勇と出会い、「でいご娘」活動再開。
2004
北谷町栄口区自治会長に就任。
2013
「艦砲ぬ喰ぇぬくさー」歌碑を読谷村楚辺区に設置。
2025
秋の地方自治功労による叙勲(旭日単光章)を受賞

STORY証言

証言者略歴

 民謡グループ「でいご娘」の長女。北谷町栄口区自治会長。
 幼少の頃より三線や民謡に触れ、姉妹で民謡グループ「でいご娘」を結成し、県内外で公演する。現在も民謡グループを活動する一方で長年にわたって地域の自治会長を務め、地域活性化の為に尽力する。
 2025年 旭日単光章(地方自治功労)受章。

戦後の楚辺

 昭和22年4月10日、生まれたのがうるま市石川の捕虜収容所です。出身は読谷村楚辺です。家族構成は私たち兄弟姉妹男の子3名、女の子4名いて両親合わせて9名家族です。
 私たちたくさんの子どもを食べさせるために父は修理工や本屋など職種は選ばずいろんな仕事をしていました。母は子どもたちに十分な食事を用意できないのでリアカーで醤油瓶を集めて売って、生活の足しにしていました。母はすごく優しくて、父は少し短気でした。そんな中でも子どもたちのことをすごく大事に育ててくれたので今考えると生活が大変だったと思います。食事については海が近かったので兄弟姉妹 みんなで近くの海に行ってアバサー(ハリセンボン)を浅瀬に追い込んで捕まえ、それをお家に持ち帰って母が夕飯に出しました。海が自分たちにとっての遊び場でした。

 あの頃は自然も豊かだったので男の子は山に行っていました。メジロを山からとってきたらソーミナー(メジロ)のカゴを自分たちで作りました。口のまわりが黒や紫になるくらい、いろんな山の実を食べて遊んでいました。
 どんなに父から厳しくされても母親が私たちを優しく受け止めてくれたので「家庭ってとてもいいな」と今になっても思います。父は定職に就かず、僅かな収入を得るために小さな部屋でメガネをかけて時計の修理をしていました。母は雑貨店をやっていたので雑貨店のもうけは少なくても卸値で仕入れができたのでそれで生活ができるという感じでした。

 決して、裕福ではなかったけれども、家庭の温かさがあって、家族で「今日、食べたら明日はどうなるのか」と不安な日もありましたが、楽しい家庭だったと思います。皆が家の中の一か所に集まり、いつも会話がありました。私たちは三線を習い、お正月などの時期にはムーチーを作りました。父の手作りの火鉢があったので、みんないつもいっしょに集まっていました。

 父がいろいろと地域の行事に関わっていたので何かお祝い事に出かけると、私たちも一緒についていきました。あの頃は各家庭でお祝いがあると三線が弾ける人は呼ばれて、私たちもついていきました。チットグヮーという手土産をもらうのがすごく楽しみで、みんなで一緒に分け合って食べました。

 近くのお店に買い物に行くとお店の人が買い物に来た子どもたちに1個ずつ飴玉をくれました。もらった飴はすぐには食べずに家に持ち帰って母に渡します。母がそれを包丁で割ると飴玉なので崩れてしまいます。それを子どもたちの口に入れて、兄弟姉妹みんなで分けて食べました。隠れて一人で食べるのではなく、もらった物はみんなで食べる。妹や弟たちのことが気になるので持ち帰って母に渡し、みんなで分け合って食べていました。

 中学の頃には共通語励行というのがありました。それが貼り出されていて方言を使ったら掃除当番になる等、罰がありました。でも、私たちは民謡を歌っているので、話す言葉はほとんどが方言、シマクトゥバ(島言葉)でした。私たちのそのシマクトゥバに対して中学校や高校の頃には「ウチナー(沖縄)の民謡は下品だ」という先生もいました。女の子が幼いころから民謡をやったり人前で踊ったりするのは「ジュリ花(料亭で働く女性)」という女性たちがやることであって「あなたは子どもたちにそういうことをさせていいのですか」と父に注意するも先生もいました。

「でいご娘」と父

民謡グループ「でいご娘」の誕生

 中学校の頃は民謡もしながら「でいご娘」という名前がつく以前から私たちは活動していました。高校からは自分達の家庭の事情が分かるようになりました。民謡の出演依頼であちこちに呼ばれてそのお祝いの席に行くとギャラ(出演料)がもらえるのでこれで私たちは生活していることに気づきました。

 あの頃はガールズグループといって特に女の子が揃う家族グループなども流行っていて、私達もヤンバル(沖縄本島北部)に行ったり宮古や八重山に行ったりしました。あの頃は内地(本土)に行くにはアメリカの統治下なのでパスポートが必要でした。父が「自分は学校に行けず、無学だから学校だけはしっかり行きなさい」と言っていました。だから学校が終わる時間になるとみんなを迎えにきていました。学校帰りにそのまま結婚式会場や色々な場所に行きました。

 ある時、幼稚園の先生から「この子(三女)は素質があるので伸ばしてあげて下さい」と父に話していました。三女の千津子は舞踊が上手でなんでも上手。先生から褒められてまず、三女が踊り始めました。人に力を与える言葉というのはとても大切だと思います。

父・比嘉恒敏について

 父はもともと古典音楽をやっていて戦後、大阪から帰ってきた時に三線ではなく大正琴で早弾きをやっていました。その中でも大阪の普久原朝喜先生の曲ばかり弾いていました。昔は親子ラジオで民謡の歌合戦をやっていました。父は山内昌徳さんという声の柔らかい大先生に声が似ているといわれてすごく喜んでいました。

 私達も次第に歌や三線に興味を持つようになり、まずは三女が習い始め、次に私達も習いました。姉妹4名が揃うまでには結構、時間はかかりました。当時、舞踊や民謡をやっている方は少なかったけど、芸を生業にするつもりはありませんでした。

 読谷村楚辺青年会の25歳のお祝い(生年祝い)の時に父が創作して私たちに教え、今度は私たちが青年会の皆さんに教えた思い出があります。とにかく、無我夢中でやっていて、皆さんに喜んでもらえることが父の一番の楽しみで生きがいだったと思います。

 なぜか不思議なことに父は女の子だけに教えました。7名兄弟姉妹、私の間に弟がいて女 男 女 男 女 男 女で三男四女いました。「艦砲の喰ぇー残さー」の歌詞に「チンナンビー(かたつむり)」という言葉があります。子ども達がどんどん生まれて、その時の様子を「なしぐゎーうまれてチンナンビー」という歌詞で表現されています。

 米軍基地の中に仕事で呼ばれることがありました。基地の将校クラブで踊るときはアメリカの方々が相手なので衣装をワンピースにしたり、クリスマスの飾り物を買ってきて髪に巻いたりして工夫をしていました。当時は子どもでも基地内のクラブに入れましたが今だったら無理でしょうね。あのころはそれができて、そこで評判が高いと今度は別のところに呼ばれました。基地の中でもいろんな踊りをして喜んでもらいました。あの頃は基地の中がどういうものなのかも分かっていませんでした。 

 基地の中で楽しみにしていたことは、日頃私達が食べられないアイスクリームや飲み物を食べられることでした。私達の普段の生活と基地の中では違っていて「アメリカ人はいろんなものを食べているんだな」と思いました。だから、アメリカ製はなんでも上等だというイメージがありました。

 ヤンバルから那覇まで幅広く「トゥシビー(成年祝い)でお願いします」と電話で公演依頼ありました。今のように綺麗なホールはありませんでした。中央公民館で結婚式をしていました。あとはヤンバル辺りでは個人の家だと座敷でトーカチ(米寿)のお祝いしました。一番困ったのは野外のステージでした。

 例えば自治会やどこかの集落のお祝いのときには私たちは三線を持っているから外からマイクをむけてもらって演奏をしていました。そしたらたくさん虫が飛んできて、顔にもつくことがありましたが、演奏中は三線を持っているので虫をよけることができなくても我慢して演奏しました。

 でも、むしろあの頃は目の前にお客さんがいて、虫もいっぱい飛んでいる中でも集落の人達が座って見てくれていました。その集落の人たちが作ったご馳走が出てきました。三枚肉が物凄く厚かったです。それを食べながらみんなが演奏を見てくれました。あの頃はお客さんの表情が分かり私たちの歌の聴いている様子がすごく身近に感じることができました。

 復帰前からその後もそうですが、皆、基地で働いていて私の弟もそうでした。おじさんもおばさんもみんな基地に勤めていました。沖縄には企業は少なかったのでみんな基地に勤めていて、いろんな事件事故もあったと思います。

基地経済と楚辺住民

 私たちが小さい頃、寝ている時に地響きみたいな嘉手納基地からのすごい爆音が楚辺まで聞こえてきました。楚辺集落のそばにトリイステーョンがありましたが、子どもなので基地があるからそれが悪いと思わず、クリスマスの頃にプレゼントをもらうのがとても嬉しかったです。大きな車がトリイステーションから人形やいろいろなおもちゃをいっぱい車に乗せて楚辺公民館に来ました。私たちはそのプレゼントをもらいに行きました。

 聞いた話では「帰りに米兵に引っ張られた」などのちょっとした事件はありました。今だったら決して許されないことです。トリイステーションの隣り合わせで今は黙認耕作地(基地内にある畑)になっている場所に私たちの実家もありました。基地の弊害はありますが、中にはそこの軍用地料、特に高齢者はそれで生活している人たちもいて「軍用地をなくすと自分たちはどうやって生活するのか」という声もあります。沖縄の場合すごく複雑だからそれは結論が出るかどうか分からない。

 私も話はしたくないことですが、同級生のお母さんが酷い目にあったことがありました。事件として表には出ない形で消えていったことがあったと思います。当時、みんな米軍基地に勤めていたので米軍に対して意見を言うと仕事ができなくなると言われていました。みんな、米軍基地に勤めることにすごく憧れていていました。米軍に勤めているお家の同級生は私たちから見てもとても裕福に見えました。特にその中でも炊事班長やコックをやっているところはすごい豊かで羨ましかったです。基地で働いている人は羨ましかったし、その仕事に就くのも困難でした。また、社会保障とか待遇について話を聞いていると羨ましいと思うこともありました。

 復帰以前は50セントでガソリンを入れることができたのに復帰した途端に高くなって「やっぱり復帰しない方が良かったよね」と言う人もいました。本土復帰後、いろんな生活面でいい思い出はなくて復帰以前、復帰以降という実感はありませんでした。

 なぜかというとずっと同じようなことを続けていて「以前よりもいろいろな事件・事故が多くなった」と感じていました。爆音もありましたし、私たちの両親は復帰直後の翌年に事故で亡くなりました。その時も基地がみんなの働く場所なので大きな事件があっても皆で立ち上がることはありませんでした。

両親の事故

 交通事故は大山でした。母は即死で私はたまたま別の車に乗っていました。今、考えると幸せだった家族が地獄に落ちた瞬間でした。その事故に関しては10月10日という調書を書かれていました。しばらくは兄弟姉妹みんなで話すことはありませんでした。事故があった時、私が26歳の頃なので若いながらに手探り状態で弁護士をお願いしました。沖縄は復帰直後なので、法律も整備されていなくて損害賠償は十分に足りませんでした。今、考えるとあの時、みんなが立ち上がってくれたら良かったかなと思いますが、「米軍に意見すると、すぐ仕事がなくなるよ」と言われていました。

 私たちの地域でも同級生のお母さんが米兵にやられて亡くなり、私たちの両親も同様で、米兵の事件・事故に対して誰も何も言えない状況でした。家族としては「もう忘れるしかないのかな」と思いました。そのような事件が、一つ一つちゃんと解決していくというわけでもなくて、結局はそのままになってしまいました。

 あの頃は楚辺区内では米兵と一緒になってお家を借りて、そこで生活している沖縄の女の人もいました。そのお姉さんたちはお隣近所ともよくしてくれたので、とてもお世話になったお姉さんもいました。

 私たち両親の場合は事故を起こした米兵がいつ本国に帰ったかも分かりません。あの頃は自分たちで活動をするしかありませんでした。両親が亡くなって法事の時に事故を起こした米兵の奥さんが来て「この指輪をあげるから許すと言ってくれないか。そうすれば主人は刑務所から出られるので」と私たちに言いました。その言葉よりも自分たちの目の前からいなくなったことが悲しくて、悔しいけれども言葉を返す気にもならずに、兄弟姉妹、みんな黙っていました。奥さんは沖縄の人ではなく内地(本土)の方だったのを覚えています。

 父が56歳で母が48歳。2人は若いうちに亡くなりました。ただ、父が艦砲の歌を私達に残してくれたのでとてもうれしいです。あの歌は自分たち家族に実際に起きた事を歌った歌です。父の若い時のことやそれからまた食べ物がなくて基地の中に入ってちょっとコソ泥(戦果アギヤー)をやったらガードマンに見つかってコテンパンにやられたことなどです。子どもたちがどんどん生まれてきてその子どもたちを見ているととても癒される。自分の慰めになるという本当に家族愛を歌った歌です。

 こうして平和になったけれども4番の歌詞で「平和になってから〜」という歌詞があって「子の達んまぎさなて居しが」また、あの戦争が起こるのではないか。「それを考えると夜も眠れない」という 4番の歌詞です。

 父の言葉というのは子どもたちと一緒に暮らして幸せになったけれど、また、戦争が起こるかと思うと眠れません。今の世界の状況がそれと似ていると思ったりしています。だから、それをまた最後にはやっぱり戦争というのは家族みんなを失って悔しいけれども、それを誰にぶつけていいか分からない。「誰があの様しいいんじゃちゃら」(誰がそんな事をやらかしたの)という歌詞があり、そういう想いをぶつけている歌です。「子どもたちにその歌を残して遺言にするよ」と結んでいる歌です。

父の歌を後世に残す

「でいご娘」再結成される

 北谷町の総合グラウンドでちょうど祭りの時に通りかかって、「安里屋ユンタ」とかそういう歌を聞いた時に「自分たちはこれを絶対にやらないといけないよね」と思い、妹たちにすぐ電話をしました。「父の作った曲を頑張って残そうよ」と電話をしたら妹たちはみんなそれを待っていた様子で「やろうよ。やろうよ。」と賛同してくれました。

 「芭蕉布」を作曲した普久原恒勇先生のところに行って「父の歌を1曲でも残したいのでお願いします」と曲を持って行きました。先生は「じゃあ弾いてごらん」と言われ、その歌詞を聞いた先生は「これはものすごい歌だよ」って言われてすぐにレコーディングをしました。あの頃までは「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は軽快なテンポで楽しい感じの曲でした。父は娘たちに合わせたテンポだったと私は思っていました。そういった曲でしたので歌を聴いている方が悲しむ歌ではないと思っていました。

 でも、集落に呼ばれてあちらこちらで歌っていくと、ずっとうつむいている方がいらっしゃいました。この歌は「歌ってはいけないのかな」という雰囲気がありました。お祝いの席でもしばらく歌いませんでした。でも、最近は平和のためにといって皆さんがよく歌ってくれています。

 今年は戦後80年ということでこんなにまでこの歌がみんなに愛されてそれで人と人を繋いでいると思うとすごく嬉しいです。両親に「今、天国で見ているね?」と言いたいです。

年を重ねて知る歌詞の意味

 私たちもやっぱり年月を重ねて今なると、父親が大変だった頃を思い出します。父がどんな思いでこの歌を作ったかが分かり始めてきました。

 今は兄弟姉妹みんな、一人ひとりが結婚して子どもができて孫もいてだんだんと両親の気持ちが分かってきたと思います。お互いに家庭を持っているから尊敬し合いながら「違うところは違う」とお互いに直して楽しく歌を歌っています。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌詞の意味がだんだんと分かってきて夜一人で聞いていると泣いてしまいます。皆さんと一緒に歌って、その繋がりによって「私達の本当の歌になっていくんだな」と実感しています。この戦後80年はそれがとても大きいです。

艦砲ぬ喰ぇー残さー歌碑について

 父は戦争ではなく、事故で亡くなっています。私の気持ちの中では歌碑が「礎」だと自分の中で勝手に決めています。

 読谷高校の皆さんと一緒に繋ぐという意味で歌碑の前で「艦砲ぬ喰ぇー残さー」をみんなで歌い、古堅中学校にも行って皆さんと一緒に歌って、このように繋がっていくのは「本当にすごいな」と思います。

 「自分たちが引退しても大丈夫だ」と思うくらいに感激しました。その歌が私たち兄弟姉妹をみんな繋いでくれている。だからこそ、私たちはこれからも頑張って皆さんに歌を理解してもらい、この曲が広がっていってくれたらと思います。

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