
私は沖縄のキリスト教徒である
- 1931(昭和6)年生まれ
- 平良 修さん(たいら おさむ)
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TIMELINE関連年表
| 1931 |
宮古島平良町(現・宮古島市)に生まれる。
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| 1944 |
旧制宮古中学1年生の時に台湾台中市に疎開。
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| 1945 |
終戦後、宮古島に帰島し、宮古中学(後の新制宮古高校)に進学。
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| 1948 |
高校3年生の時に国中寛一牧師から受洗し、キリスト教信仰に入る。
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| 1952 |
琉球大学英文科を経て、東京神学大学に留学。
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| 1959 |
コザの中の町にある沖縄キリスト教団上地教会牧師に就任。
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| 1964 |
国際基督教大学(東京)に留学。1年後、米国のジョージ・ピーボディ大学に留学。
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| 1966 |
沖縄キリスト教短期大学第2代学長に就任。
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| 1966 |
アンガー高等弁務官の就任式に祈りをささげる牧師として招かれる。
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| 1974 |
日本キリスト教団佐敷教会牧師に就任。
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STORY証言
証言者略歴
元沖縄キリスト教短期大学学長。キリスト教会牧師。
高校時代に一人の牧師との出会い、キリスト教信仰に入る。米国統治下時代に東京や米国での留学を経て、沖縄に戻り、教会牧師や大学学長に就任する。2012年から普天間基地のゲート前で賛美歌を歌い、平和を訴える反戦・平和活動を行う。
宮古の軍国少年と台湾疎開
宮古の軍国少年
生まれは宮古です。両親は那覇の出身ですが私も含めて子供たちはみんな宮古生まれです。両親は家庭を持ち、宮古に引っ越しました。通っていた小学校は平良第一小学校です。「平良第一」だから宮古では「平一(へいいち)」と読みました。優等生が集まっていた小学校でした。ですから、立派な日本語が使えるように学校で訓練を受けました。当時は平良第一小学校の優等生として立派な日本語が使える日本人の少年であるべきだったのです。それ以外の在り方は許されなかったのです。
中学は宮古中学に入学しました。私は小学校の頃から成績は良かったです。そうすると受け入れる中学校側も小学校の優等生として私を招き入れました。「小学校の優等生が来た」と見られていたので私は優等生らしくふるまっていました。中学校でも級長でした。軍事教練は中学校に入ってからです。小学校とは違い中学に入ると軍事訓練を受けました。
父親は宮古で商売に携わっていたので戦争中もずっと宮古にいました。私たちの親戚が台湾の台北に住んでいました。そんなこともあって、私と妹と母親の3名は台湾に疎開しました。当時、私の姉は女学校の3年生で疎開が許されませんでした。だから、姉は宮古にとどまって、日本軍の手伝いをしなくてはなりませんでした。それで姉は宮古に残されたのです。そしたら、両親は「娘一人だけ残すわけにいかん」ということで父は宮古に残りました。台湾に行った者と宮古に留まった者とで家族は分かれてしまいました。
台湾に疎開し、日本人学校に通う
台湾に渡り、入学した中学校はやはり軍国主義教育でした。台湾の中学校は日本人学校でしたので1クラスに何十名かの日本人クラスメイトがいました。そこには例外的に台湾出身のクラスメイトもいました。日本人の学校なので普通の台湾人は入れません。だけど、優れた日本教育を受けて日本人としての生活に親しんでいるという入学を許される前提があり、そういう生徒が何名かいました。
宮古島への引き揚げと教会との出会い
戦争が終わり台湾からの引き揚げ
台湾滞在中に戦争が終わりました。台湾出身のクラスメイトたちは「やった!」「ざまあみろ」「お前たちは私たちをいじめたね」というような感じでした。「今度は自分たちがいじめ返す立場だ」という感覚だったのでしょう。敗戦国の日本人はいじめ返されても反論できませんでした。日本人にいじめられた台湾の出身のクラスメイトたちは日本人のクラスメイトに仕返しをしました。私は沖縄出身者だから仕返しは少し緩い感じだった気がします。同じ日本人には違いないので仕返しの対象ではあるけれども、沖縄の人は自分たち台湾人とどこか境遇が似ていて台湾人からもちょっと大目に見る配慮があったかもしれません。私たちもどこかで台湾にいるヤマトンチュ(日本本土出身者)たちから差別的にいじめられた感覚はあります。苛め返された相手が台湾人であって私たちは沖縄から疎開してきた日本人という違いはあったので多少の差はあったと思います。
敗戦国の日本人はみんな日本に帰されたので、私たちも沖縄に帰されました。私たちは仲間同士であるミヤコンチュ(宮古人)がいる宮古島に引き揚げたので安心感がありました。日本人からいじめられる心配はなかったです。
宮古に引き揚げ、国仲寛一牧師と出会う
宮古島の住民はみんなミヤコンチュでした。宮古にいた日本軍隊を中心とした日本人はヤマト(日本)へ帰されました。戦後、宮古に残ったのはミヤコンチュだけですよ。宮古出身の国仲寛一というクリスチャンがおられました。東京出身の女性と結婚して女性を連れて宮古へ戻ってこられました。国仲さんはすぐに牧師になられたのではなく、宮古の公立学校の校長になりました。この方は戦後、知識人であり、また、経験豊富な社会人として高く評価されていました。宮古に帰るとやがて、その方は教会の牧師になりました
私はその方を通して教会とつながって、やがて、教会人になりました。なぜなら、教会に素晴らしい学びがあったからです。牧師になった彼に誘われて私も教会に行くようになりました。私の知らない世界でしたので国仲さんという新しい人材を通して新しい価値観を示されました。
「このような思想、このような人間理解、このような社会形成の仕方もあるのだ。」といろいろ習いました。国仲さんは日本人だということで立派な方ではなくて、クリスチャンであることで立派な方だったのです。「こういう生き方もあるんだ。」と私は魅力を感じました。彼から「新しい人間の生き方」を学びました。
教会での活動
宮古の教会には「確かなものを把握したい」という思いを持つ若者たちを引きつける魅力がありました。そういう中で私も教会に行くようになりました。
「南静園」というとハンセン病の病院で普段は人が寄り付かない場所です。教会以外の人はハンセン病の病院にはより付きません。嫌って、警戒して、人が良しとしない場所に積極的に関心を持って、奉仕する生き方を見せてくれたのが国仲牧師でした。
南静園そのものについてはそこに行くようになってから知りました。それ以前は南静園について私の周りでは誰も知らなかったです。立ち寄ってはならない場所という認識でした。
東京神学校へ進学。その後、上地教会の牧師に
東京神学校に進学し、妻・悦美さんと出会う
本格的に教会の仕事をしなくてはならないという思いが高まっていくなかで、牧師を養成する東京の神学校に行きました。「東京神学大学」といって東京の三鷹市にありました。「良い神学校があるから進学しないか」と言われたことがきっかけで私は東京神学大学の学生になりました。東京神学大学の後輩として彼女(悦美さん)の弟が入学してきました。
冬休みの時に私は寄宿舎に残っていました。帰る場所もありませんし、寮に残っていました。下級生(悦美さんの弟)がやって来て、「平良さん 冬休みは帰省しないんですか?」と聞きました。「いや、ずっとここにいるよ。寮にいるよ。それで洗濯物を干しているよ」と言いました。その後、「私の家に遊びに行きませんか?」と誘われました。誘われて行ったら彼女(妻・悦美さん)がいました。
彼女は「一緒に沖縄に行きますよ。」と言いました。あっけらかんとしていて、悦美さんは結婚してから沖縄に来ました。神学校の校長も結婚式に来ていただきました。「お祝いの言葉を下さい」というと校長は言葉をくださいました。「沖縄は平良君にとって自分の生まれ故郷だ。友人も家族も親戚も大勢いて、そこにあなたは帰っていく。だけど彼女にとっては全く初めての場所で知人が誰もいない。友人も誰もいない。彼女が知る人はあなただけです。そのような彼女を誘って沖縄まで行くのだよ」と覚悟を探られました。私は「大丈夫です。心配いりません。」と言って彼女を連れて沖縄に帰りました。
沖縄に戻り、コザ(現・沖縄市)の上地教会の牧師へ
沖縄で牧師をしていた場所はコザです。米軍基地の密度が非常に高いところです。コザの上地教会はどんな場所かというと彼女にとっては居心地の悪さはあったでしょうが、私がいたから彼女は辛抱できたと思います。教会の仕事はとにかく楽しかったです。
みんなも喜んで私を大歓迎してくれました。私も彼らの歓迎に応えて気持ちよく働けました。新しい教会でしたが建物自体は古かったです。教会だから国籍を問わず、「来たい人はいらっしゃい」と招き入れる考えがあったのでアメリカ人もちょくちょく出入りしていました。
アメリカ兵が沖縄に駐留する間に沖縄の女性と結婚して女性の住む地域に住み込むというケースがけっこうありました。沖縄出身の女性と結婚している男性たちの生活の面倒を見ながら私は教会の仕事をしました。
やっぱり、トラブルが起きるおそれがありました。本当に深く知り合って結婚した者同士が親類ぐるみの付き合いをしているわけではありません。男性と女性が一緒になった家庭が多かったのでトラブルが起きる可能性がありました。それを支えて見守って、トラブルが起きないように助けて応援していくということはよくやりました。
米軍基地の教会に行くことはたまにありましたがほとんど行きませんでした。沖縄の米軍の教会と沖縄地元の教会との交流プログラムがたまにありました。その時は沖縄の教会まで米軍の教会のバスが迎えに来ました。そのバスで普段は入れないゲートから入って、普段は入れない大きなアメリカの教会堂に行って、そこで美味しい物を食べて親睦会をすることがたまにありました。ですから、米軍の教会と自分たちの教会との交わりは全く無かったわけではありません。
アメリカ留学と学長就任
アメリカへ留学
私の留学先はテネシー州ジョージ・ピーボディ教育大学です。私はアメリカの大学で勉強をして「沖縄に帰ったら教育の一端を担う教会の仕事をするように」とそんな期待があったと思います。
私は留学中、黒人教会の集会によく行きました。黒人の教会で黒人の男性よりも特に女性の方が大きな迫力で声をあげて身体で表現するようなそういう場面もよく経験しました。黒人の男性リーダーたちがたじろぐような勢いでした。
「優しさよりも激しさのほうが強い」とは言えると思うけれども「女性が強くて、男性が弱い」とは必ずしも言えないので「男性も強い。女性も強い。そういうアメリカをちゃんと見るように。」と言われました。公民権運動で先頭を切るようなアメリカの世論を引っ張っていくリーダーたちと一対一で顔を合わせることはありませんでした。もっと下級のほうの責任を負う人たちとよくお会いました。
キリスト教(短期)大学の学長に就任
帰国後、キリスト教短期大学に戻らないといけませんでした。アメリカ留学の経験をとおして学んだ大事なことが数多くあります。それを沖縄の教育界、キリスト教会でどのように反映させるか宿題を負っているという意識はありました。その責任を考えると大変だとは思いました。
アンガー高等弁務官就任式での祈りの言葉
私は新しい高等弁務官の就任式に「沖縄のために祈りを捧げてほしい」と招待を受けました。「沖縄を自分たちの支配下に置いて、自分たちが納得できるような形で」「沖縄を統一しようとする考えは駄目だ。沖縄を大事にしなさい。」と私は逆にクレームをつけました。アメリカの沖縄統治に対する疑問を持つようになっていました。昔のように「はい、分かりました。こうしましょう。」と素直にはいきませんよ。「沖縄の人たちは高等弁務官に対して言いたいことがある。それをちゃんと聞いてもらわないことにはあなた方の沖縄統治はうまくいかないよ。」とそういう気持ちが言葉として表れました。アメリカ側は「これまでの人とだいぶ違うな」と感じてビックリしたと思います。「高等弁務官はかくあるべきだ」という批判を持つような沖縄のリーダーになっているからには「その声を無視することはできないだろう」とアメリカ側はそのような思いにかられたと思います。
高等弁務官から招待を受けたことで特別優遇を受けたことはないです。むしろ、沖縄の教会と親しくしようとしている沖縄にいるアメリカ人の教会は私のことを悪く思っていました。彼らから見ると私はとんでもないやつだと思われていました。自分たちがこんなにも温かく、柔らかく、資金的にも人的にもプログラムの点からも提携して楽しくやっていこうと努力してきて「何度もあなた方を米軍の教会に招待したじゃないか」と思っていたでしょう。確かに私たちを招待してくれました。大きなプログラムがある時には「あなたたち、喜んで来ていたじゃないか?どうして、そうではない反対の態度を見せるんだ?どうも分からん」と理解できない部分があったかもしれません。
沖縄の教会も地元の教会として「目が覚めた」ということでしょう。「別の選択をしなくてはならない」と強く思うようになっていました。「沖縄の人たちがそんなふうに考えているのならもう少しやり方を考えないといけない」と米軍の配慮が始まったでしょう。
地元の人たちは教会も沖縄の一般民衆も「平良、よくやった!」と言ってそれは大喜びでした。一般民衆が感じるように沖縄の自覚も変わってきたと思います。
「イエスはイエス。ノーはノー。」
復帰運動との関わり
復帰運動というのはアメリカ支配を嫌ってアメリカ支配ではない本来の沖縄県としての日本国の在りようを「それは当然考えなきゃならない」と思っていました。復帰運動に関する沖縄側の集会は何度も参加しました。
沖縄のキリスト教徒として歩むべき道
こちらは日本であろうが沖縄であろうがキリスト教会なのです。日本のキリスト教会はこういうことができる。キリスト教会であるがゆえに基本的な立場があります。それを表に出すということで沖縄の教会の新しい姿勢が生まれてきました。それはやっぱり私たちが米国の勢いに負けないように押し返そうとする中で沖縄の「反戦思想」、「反戦行動」と一致するので「沖縄も自分らの手に負えなくなった」と米国側にそう思わせるような沖縄に変わってきたと言えるでしょう。
米軍からの圧力に対して覚悟のうえです。圧力があっても構いません。「自分たちは言うべきことは言う。やってはならないことはやってはならないのだ」という新しい価値観を立てて米国に対しても物を言うぐらいの覚悟はありました。アメリカのやりたい放題にさせることに対して、沖縄の教会側の疑問は膨らんでいきました。
私たちも教会だから「米軍には言えないとしてもアメリカの教会に対して物も言えるのではないか。米軍をバックアップしているアメリカの教会に対しては文句が言えるはずではないか。」というように考え方が変わってきました。
沖縄の教会には2つの考え方があったと思います。沖縄の日本復帰に対する評価をどう考えるかという問題。沖縄には沖縄としての要求や権利があるし、それを日本政府も琉球政府も受け止める責任があると思います。だから、「言うべきことは言う」ぐらいの勇気は持っていたと思います。
戦後の沖縄を見つめてきて思うこと
沖縄の人は物が言えるようになったはずです。自分たちの思いを言えるはずです。だから、言わなきゃならない言葉がいつも渦巻いていると思います。沖縄が必死になって求めている「平和」。その「平和」に逆らうような思想や政治。そういうものがやっぱりあるわけですよ。それに対して沖縄は眠っていてはいけないと思います。沖縄はもっと生々しく沖縄の声をあげ続けていくべきです。沖縄が黙っていたらね。黙っていることに慣らされてきた歴史があるけれども、そういうことを続けていたら、これは日本にとっても、アメリカにとっても、沖縄にとってもマイナスだと思います。やっぱり、はっきりと「イエスはイエス。ノーはノー。」とそのように言わなきゃいけないと思います。





