
看護の道を歩んで70年
- 1933(昭和8)年生まれ
- 古堅 重子さん(ふるげん しげこ)
TIMELINE関連年表
| 1933 |
宮古島の平良市(現・宮古島市)に生まれる。
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| 1941 |
台湾台中市に家族と共に疎開する。
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| 1944 |
十・十空襲でハンセン病国立療養所(現沖縄愛楽園)が空襲を受ける。
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| 1947 |
宮古島に帰郷し、宮古高等女学校に入学。
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| 1953 |
父が勤務する「宮古南静園」に務める。
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| 1953 |
日本では「らい予防法」が制定される。
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| 1953 |
沖縄愛楽園に勤務する。
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| 1971 |
那覇市内の看護学校に通い、看護資格を取得。
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| 1972 |
日本復帰後、沖縄は「らい予防法」下に入る。
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| 1993 |
沖縄愛楽園を定年退職後、あけみおの里に勤務する。
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STORY証言
証言者略歴
生まれ育った宮古島の「南静園」での勤務を経て、「沖縄愛楽園」でハンセン病患者の看護に従事する。「沖縄愛楽園」を定年退職後も老健施設や知的障害施設で91歳まで看護職を続ける。民謡や三線、手話などの豊富な趣味を持ち、民生員や地域赤十字奉仕団員など多くのボランティア活動に携わる。
厚生保護女性会員理事。レク支援団体「あそびやからーず」所属。
幼少の頃
宮古から台湾への疎開
「戦争が始まって大変だ。」ということで疎開が始まりました。私が小学校3年生の頃だと思います。みんなと疎開して台湾の台中にある小学校に入りました。父が台中の役所に勤めていました。小学校に通っているときは(昭和)20年6年生だったと思います。台中では空襲は少なかったです。台北あたりは空襲があったようですが沖縄ほどひどくはなくて台中は被害が少なくて、私は平穏無事に小学校に通っていました。疎開する人はみんな山奥に住む場所が与えられ、避難していましたが、私たち家族は父が現地で勤めていたので、私たち家族は町で暮らしていました。
台湾の学校には日本人学校がありました。「新富小学校」と「明治小学校」があって私たちが通うのは日本人学校の「明治小学校」で台湾の人が通うのは「新富小学校」でした。当時、台湾の人でお金を持っている人は改姓名をして日本人学校に通う人がいました。ところが、終戦になるとこの人たちはすぐにいなくなりました。改姓名をして、また、元の名前に戻ったと思います。日本が戦争に負けるとすぐに申請して元の名前に戻したと思います。
台湾から引き揚げ 宮古島で生活
あのころは飛行機がなかったので、基隆から船で宮古に帰ってきました。宮古に帰ってきたこの船はすぐ港には着かず、港から遠いところに着いて、ポンポン船(小型船)で沖にいる船から送り迎えしました。
台湾から戻った時は宮古の方言は分かりました。かえって今の方が方言を分かりません。台湾にいたのは三ヵ年ぐらいなのでうちの母は那覇の出身だったこともあり、家庭内では宮古の方言を使いませんでした。ちょうど台湾から帰ってきた時期は疎開する前の家があったのでそこに住んで父も家から通っていましたが、途中から官舎に入りましたので私たち家族もみんな官舎に入りました。
宮古島での勤務
南静園での勤務
父が「南静園」で仕事をしていたので私も南静園に採用されました。あの頃は免許や資格がなくても看護婦(看護助手)として採用されて、それから、5ヵ年経って戦後の看護学校の生徒が卒業してきて、本採用で南静園に入ってきたので私たちは人員整理されました。南静園での仕事は5年で終わりました。あの頃、「看護助手」はなかったと思います。みんな「看護婦」として働いて看護婦の仕事は何から何でもやりました。南静園には外科や内科、歯科、眼科となんでもありました。みんな病棟を回って2、3年でセクションが変わります。
ハンセン病の治療薬
ハンセン病の治療薬の「DDS」には5ミリから20ミリがあって患者の症状に合わせて、5ミリの錠剤を与えていました。プロミンの注射をしたい人は来ていました。あまり注射をうちに来ない人もいましたけれど頻繁に来ていた人は早く治りたい人だったと思います。
プロミンの注射は毎日やっていました。ハンセン病が治って出所する人もいました。最初、私たちが来た頃は門の側に守衛室があり、守衛が門番をして往来する人を管理していました。自分の家に用事があるという人も通していたけれどその時は「鼻汁検査」と言って鼻の粘膜を採って検査して菌がマイナスだったら外出許可を出し、プラスなら外出を許可しないとかそのようにしていました。
愛楽園での勤務時代
愛楽園に勤務
「南西園」の事務局の人が「愛楽園」に転勤して、偶然その人と那覇の街で出会って「愛楽園で人を募集しているから一緒に行こう。」と誘われて「愛楽園」に就職しました。あの頃は看護師免許もなかったけれど、看護師と同じような仕事をやっていました。
仕事をしながら那覇看護学校に週2回通い、講義を受けたりレポート書いたり実習したりしました。赤十字病院や那覇病院などに実習に行きました。一回は実習で一回は講義ですね。2年間、週に2回通って、准看護婦免許の資格を取りました。「愛楽園」での看護婦の仕事は「内科」「外科」「歯科」といろいろあります。
看護婦の仕事は3カ年ごとにセクションが変わりました。外科に行ったりしました。私が来た当時は看護婦は雨靴を履いていました。いつの間にかナースシューズになりました。私がここに来る前は雨靴のまま入所者のお家に入ったという話を聞きました。私が来てからはそういうことはなかったです。
勤務時間は自分の子供を人に預けていました。当時は三交代制だから準夜勤が午後4時から午前1時ぐらいで私の夫も愛楽園に勤務していましたから準夜勤はこなせました。私が仕事に行っている間に学校から子供たちが帰って来ると、保育所は終わっていたので私の夫が子供の面倒を見ていました。
本土から転勤してきた職員の奥さんが愛楽園の官舎にいたので私の子供の面倒をみることをお願いすると了承してくれて預かってもらった時期もあります。遠方にある羽地の保育所まで預けに行くこともあって、子育ても大変でした。それで車の運転免許も早く取りました。
病棟での勤務
私が病棟での仕事の時は「不自由舎」「一般舎」「夫婦舎」という居住区がありました。一般舎病棟はありませんが「不自由舎」に回されると1週間に1回、回復者・患者たちが短歌や俳句をたくさん書いていました。私も手伝いをやったことがあります。不自由舎に行った時に代筆をやりました。
毎年、運動会がありました。その運動会の時に私は走るのが速かったのでいつも選手でした。そういったことも印象に残っています。
当時のハンセン病治療について
ハンセン病には「神経らい」「斑紋らい」「結節らい」と3種類の症状がありました。「神経らい」は例えば、身体を傷つけたとしますね。そうすると、神経に麻痺があるので化膿しやすいです。こちらの入所者で手が切れている人はそういう方々です。化膿菌が進行すると骨まで腐ってしまうので化膿した部分を切り取りました。入所者で身体の一部がない人がいます。足もそのようになるので手術場に行って外科手術して外回りの担当になっていたら、この切った足を持って行って、その処置が終わると入所者の中で係の人がいて切断した足などを浜に埋めたりしていました。
それ以外の手術では大きなもので盲腸ぐらいです。内科の手術などでそれ以上のものはありませんでした。切断することは多かったのですが、手術では盲腸以上のものはなかったです。なかったというよりは先生がやらなかったです
堕胎手術
子供を妊娠したときは羊水の中に食塩水を入れました。食塩水を入れて陣痛を促しました。2、3日のうちに陣痛が来ます。その時、体内から子供が降りてくるので子供を取ってアダンの実がある場所の砂に埋めに行きました。埋めるのは入所者がやりました。「子供を産みたい。」という人が1人だけいました。愛楽園の外にいる家族で子供の面倒を見る人がいたら産んでも良いということで実際に子供を産んだのは一人だけしかいなかったのですが生まれてきた赤ちゃんはハンセン病ではなかったです。健康ですからね。私が愛楽園に来た時には胎児のホルマリン漬けはありました。そして、検査室を建て直すことになって胎児のホルマリン漬けはどこかに埋めました。それ以来、そういうことはなかったです。
遺体の解剖
患者さんが亡くなったら必ず解剖しました。こちらでの決まりでした。亡くなった人を解剖するので解剖室がありました。ドクターが「解剖をやる。」と言うと私たちもついて行って規則になっていたので解剖しました。亡くなったら解剖室に連れて行きます。火葬場もあって火葬係もいました。
亡くなった方がキリスト教ならキリスト教の人が集まって葬儀を行う。創価学会の人が亡くなった場合、創価学会の人同士が創価学会で葬儀をする場所があるので亡くなった方と同じ宗教の信者のところに連れて行きます。愛楽園はキリスト教の人が多かったです。愛楽園の創始者(青木恵哉)がキリスト教の教会を建てていたので病棟からも近かったのでそこに連れて行ってそこでキリスト教のお棺に入れて歌をうたいました。今は納骨堂があります。亡くなった方はそこに納められているはずです。
外出について
愛楽園から外を「社会」と言っていました。「社会に外出する。」時には「鼻汁検査」があります。許可をもらって外出に行く人はちゃんと検査していたけれど逃げて、遊びに行く人もいました。遊びに出た人もちゃんと戻って来ました。当時は屋我地の橋は架かっていませんでした。仲尾次からサバニで渡り、名護まで用事があったらそれで行き来していました。
愛楽園の外に用事があるときは鼻汁検査をして出かける人もいました。家族に会いに行く人もいたけれど「用事があるから」と言って出かける人もいました。私が愛楽園を辞める頃はそれほど厳重ではなかったと思います。「社会」に行くときはそれほど厳重ではありませんでした。昔はもう厳重でしたよ。
愛楽園退職後の取組と愛楽園時代を振り返って
愛楽園退職後の様々な取り組み
愛楽園を定年退職した時、婦長をしていた方も一緒だったので、その人が「あけみおの里」という老健施設に招かれたので老健施設で5ヵ年働きました。老健施設では踊りを教えたりしてレクリエーションの係を担当しました。「レクインストラクター」の資格を取っていたので、みんなに喜んでもらい入居者のおばあちゃんたちと一緒に踊ったり、歌ったりしました。
「赤十字奉仕団」にも入っていました。地域の赤十字奉仕団に参加して、献血のお願いをしながら道ジュネーをして歩きながら「献血願いの札」を配って歩きました。三線も習いました。愛楽園にいる頃、三線の古典を習っていましたが、正座することができなくなったので、あそこ(古典)を辞めて、民謡を唄うようにしました。
愛楽園時代を振り返って
「スコアブランド公園」があります。彼が鐘を寄付しています。この人(スコアブランド)はお医者さんだったそうです。スコアブランドさんの奥さんは沖縄の人ですよ。カンプー(沖縄女性の髪形)を結っていたのを見たことがあります。病棟まで来ました。愛楽園のことをよくやってくれました。
以前、愛楽園には家族でも入れませんでした。最初の頃は面会に来ることも少なかったけれど私が愛楽園を辞める頃には家族が面会することができました。面会室で家族と面会をやっていました。当時と今では随分変わりました。この「交流会館」というものはありませんでした。だから、「今はいいですね。」と思っています。





