イメージ1_祖国復帰大行進
イメージ2_祖国復帰大行進
イメージ3_ドル交換所
イメージ4_祖国復帰大行進
POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

18歳の衝撃

movie_play
  • 1937(昭和12)年生まれ
  • 森口 豁さん(もりぐち かつ)

TIMELINE関連年表

1937
東京都世田谷区で生まれる。
1950
玉川学園中等部に入学。中学生のころから写真を撮り始める。
1956
玉川学園高校3年生の時、沖縄からの留学生で後輩の「金城哲夫」に誘われ、学友とともに米国統治下の沖縄を初めて訪れ、衝撃を受ける。
1958
玉川大学を中退し、琉球新報社東京支社に勤務する。
1959
沖縄に赴任し、社会部の記者として活動する。
1963
水不足にあえぐ久高島を舞台にしたノンフィクション劇場「乾いた沖縄」を制作。
1966
基地の町・コザの高校生が祖国復帰にこめた思いと不安を描いた「沖縄の十八歳」を制作。
1972
沖縄復帰報道特番「沖縄・記憶からの出発」を制作。
1974
日本テレビ本社に転勤。その後も番組ディレクターとして沖縄の諸問題を追い続ける。
1979
日本軍や本土出身の教育者について鋭く問う「ひめゆり戦史・いま問う国家と教育」を制作。

STORY証言

証言者略歴

 元琉球新報記者。元日本テレビ沖縄特派員。
 高校生時代に訪れた沖縄の現状に衝撃を受け、沖縄問題に強い関心を抱く。米国統治化や祖国復帰後の沖縄の現実を日本本土に伝えることに生涯を奉げたジャーナリスト。日本テレビ退職後も沖縄をテーマに発信し続けている。
 テレビ大賞優秀個人賞受賞。日本ジャーナリスト会議奨励賞受賞。

沖縄との出会い

金城哲夫氏に誘われて沖縄の地へ

 森口豁といいます。五人きょうだいです。父と母は教育熱心で僕は中学から大学まで玉川学園で過ごしました。玉川学園は、自由教育というかとてもおおらかな学校でした。

 高校を卒業した春休みに僕の1期下に「金城哲夫」という男がいて彼に「森口さん、僕達と一緒に沖縄に行きませんか。」と声をかけられました。沖縄出身の哲夫の方から誘われました。「先輩、参加して団長になってくれないか。」という話でした。

 その日、僕は家に帰って、「沖縄はどこにあるのか。」と地図を広げました。当時、沖縄教職員会の屋良朝苗さんや教職員会事務局長の喜屋武眞榮さんのお二人が玉川学園にいらして中学生から大学生を講堂に集めて沖縄の教育事情や学校校舎の状況、戦後の話を聞いて沖縄のことは知っていたけれど、実際に金城に誘われて「沖縄に行きましょう。」と言われると「じゃあ、沖縄はどこだ。」と世界地図を広げてしまいました。ある意味、沖縄については無知でした。

 それで1956年の4月、学校の春休みに2週間弱の日程で沖縄に行きました。糸満高校から名護高校まで琉球政府立高校を回って交流会をしました。学校に舞台はなかったけれど、僕たち玉川学園は合唱やコーラスの好きな学校だったので四部合唱のコーラスを歌い、沖縄の高校生からは琉舞や空手を見せてもらったり、意見交流をしたりしました。

 交流会後の懇談会で沖縄の実情を訴えられました。「僕たちがどんなにアメリカの支配下で苦労しているか。どれほど不自由をしているか。」という話をさんざん聞かされました。次第に僕たちは、居場所を失うような気持ちになりました。沖縄について予習したとは言っても、実際に現地に来たら、無知を思い知らされました。

 コザ高校だったか、ある教室で一人の高校生が立ち上がって「この周りには犬がいるかもしれません。犬とはスパイですよ。」と言いました。「だから、こんなことを言ったら僕は米国民政府や米軍から睨まれてパスポートも出なくなる。いろんな不自由になるかもしれないけれども僕は言います。」と言いました。スパイといっても教室にいるのは生徒と先生だけでした。でも、当時はそういう時代だったのです。集落ごとに必ず米軍に通じている人がいて「あいつはアカ(共産主義者)だ。」と密告したそうです。

 その青年は「自分たちがどんな思いで米軍政下で暮らしているか。」という実情を日本に帰ったら、「ぜひ、広めてください。伝えてください。早く日本に帰りたいんだ。」と彼は身の危険を感じながら語りました。それで僕のその後の人生が決まってしまった。

沖縄の実情を知らせる有志が集まる

 ヤマト(日本本土)に帰ると僕はもう大学1年生になり、金城たちは高校3年生でした。その垣根を越えてまず初めに「観てきた沖縄」というガリ版刷りのパンフレットを作りました。「自分たちが見てきた沖縄の実情や本土の友への訴え」みたいな内容のパンフレットを作って全国の高校の生徒会に送ることを始めました。沖縄出身の3人と一緒に旅をした10人ほどが集まり、放課後にガリ版を切って、パンフレットを刷ってホチキスで止めてできあがり。

 全国の高校、200校ほどあったかもしれません。公立高校や私立高校などの生徒会宛に送りました。そういうことを2年程続けて全部で7号出しました。それから会の名前は「沖縄と手をつなぐ会」や「沖縄研究会」と変わっていきました。

 1956年に沖縄に来てショックを受けて、翌年の大学2年生の夏休みに今度は僕一人で沖縄に来ました。その時、金城哲夫は夏休みで帰郷して、一緒に沖縄各地を歩き、写真も多く撮りました。辺野古のキャンプハンセンがちょうど山を切り開いているころで工事現場にも入って行きました。

沖縄への移住

新聞記者の道へ

 次第に僕の気持ちは沖縄に入れ込んでいきました。「大学で勉強なんかしている場合ではない。」と思いました。2回目の沖縄から帰った1957年の秋に琉球新報の東京支社でアルバイトを始めました。1958年の春に大学2年で中退してそれから琉球新報の東京支社に入社しました。当時の新聞社の東京支局は沖縄の大使館のようなものでした。本土の文化人や沖縄の著名人が出入りするから、その人たちを知る機会にもなりました。

 大学を辞めて沖縄に住み着こうと思ったのは「今度は自分が沖縄に飛び込んでいって、沖縄の中から本土に向かっていろいろな形で発信したい。」という気持ちからでした。琉球新報にいた5年間はすべて社会部所属でした。社会部の新聞記者でカメラを持って、取材に飛び出しました。僕は記事も書けるし、写真も撮れる。両方できたから琉球新報ではとても重用されて大事な取材や大きな事件には真っ先に僕を出してくれました。その頃の編集局長は池宮城秀意さんでした。

新聞記者とTV局の通信員「四足のわらじ」

 琉球新報の記者時代、休みで東京に帰った時に琉球新報記者の名刺を持って東京のテレビ局、民放局を歩き回って、報道部長や報道局長に会いました。「僕は沖縄でこういうことやっていますが、沖縄のニュースを送る通信員にしてくれませんか。」と売り込みました。日本テレビの通信員になったのは僕を対応した人が「絶え間なく送ってくれ。」と言ってくれたので、日本テレビの通信員になりました。16ミリフィルムのカメラを与えられて、琉球新報の「記者」「カメラマン」と、それに加えて日テレの「カメラマン」と「記者」ということで私は4足のわらじで過ごしました。

 1962、63年頃はもうテレビ各局、NHKとか日本教育テレビ(現 テレビ朝日)など、テレビ局は支局特派員を置きだしました。そうすると、僕は琉球新報記者と日テレ通信員を兼ねていて琉球新報側の取材と重なってしまうと本土に送りたいニュースの取材が自由に行けなくなってきました。そういう状況でした。「民法各局も沖縄に来ているし、対抗して負けずにやるにはもう日テレ1本でやるしかない。」と考えて琉球新報を辞めました。

 沖縄が日本復帰して1ヶ月後に報道部長から電話が掛かってきて「沖縄問題は終わったから本土に帰ってこい。」と言われて東京に転勤になりました。「沖縄の問題は復帰で解決した。」と言われ、僕は「とんでもない。基地はこのまま残り、何にも実態は変わっていない。まだ問題は山積ですよ。」と転勤はしませんでした。転勤に2年程粘ったけれども会社に屈してしまい1974年の春に東京に引き上げました。

米国政権下でのドキュメンタリー番組制作

離島問題を取り上げるドキュメンタリーをつくる

 沖縄から実情を本土に伝えるために「報道の仕事」が僕の1つの武器になりました。自分で考えて本土に伝えるべき素材を掘り起こしてニュースとして送ったり、あるいはドキュメンタリー番組にしたりしました。そういうことを復帰をまたいでやっていました。

 主に力を入れたことは誰も目を向けなかった離島の問題です。僕は琉球新報記者時代から宮古、八重山、その他の離島を歩き回って取材してきました。沖縄問題の底辺というか究極の問題というのは「各島々だ。」ということで、離島の問題に関心を持ちました。

 復帰前に初めて作ったドキュメンタリーは1963年の久高島での大干ばつをテーマにした番組です。当時、沖縄本島から近い久高島は現在のように水道や電気も通っておらず、頼りの水源は「雨水」と「井戸」です。「井戸」と言っても「ガマ(洞窟)」のことです。ガマに溜まった水を汲んでいて、そのガマの水も干ばつで枯れてきて雨水はもう使い尽くしました。四斗缶一杯の水を汲むために夜通しで井戸の周りに女性たちが並んでいました。そういう不自由な状況で生きる久高の女性たちを撮ったのが1963年に撮影した「乾いた沖縄」です。まだ、日本のテレビドキュメンタリーが草分けの時期でした。当時、非常に高く評価されたドキュメンタリー番組でした。

八重山取材中での米国政権下の影響

 久高島の放送時に東京に戻り、日テレに行くと牛山純一プロデューサーから「沖縄でもう1本、ドキュメンタリーを作るならどこがいいかな。」と聞かれました。僕は八重山の干ばつ事情も知っていたので「八重山で1本撮りましょう。」と答えました。その時のドキュメンタリーはプロデューサーとディレクターそれにカメラマンが2人でシナリオライターは早坂暁で僕は現地助手でした。

 「ドキュメンタリーは主人公の顔で決まる。」それが、牛山純一の持つ信念でした。ドキュメンタリーの主人公は老女でした。「感情が伝わる顔をした迫力ある老女を見つけてきなさい。」ということで1人ずつ島を担当に割り当てられ、僕は当時、人口が千人近くいた黒島担当になりました。

 僕は集落内のおばあちゃんいる家を一軒ずつ訪ねて、主人公探しをしました。最終的に「黒島のあの集落に行こう。」と決まって、黒島の集落に住む「カマドおばあちゃん」を主人公にした「水と風」というドキュメンタリーを作りました。大干ばつと闘う島の女を主人公にした 約50分の芸術祭の参加作品を作りました。

 コザ高校の時の話じゃないけれど島の誰かが密告したのか知りませんが、ある日、米国民政府の広報局が我々の宿泊先の民宿に乗り込んできました。「今までどういうものを撮影したんだ。」と聞かれました。「水不足で苦しむ人たちを取材しています。」と答えてしまうと米国民政府としては苛立ってしまうので、アメリカの気に障りそうなことは隠して説明しました。実は広報局の彼らは前日に黒島に乗り込んでいて、各集落の区長と会って、日テレが今まで撮影したことを全部調べていました。そのうえで僕たちの所にやって来たのです。

 「あなたたちが撮ろうとしている干ばつ下で苦しむ沖縄の住民の姿を日本本土で放送されたら沖縄の人をこんなに苦しめているのはアメリカ民政府だと思われ、共産主義者のいい宣伝になる。だから、あなたたちがやっていることは認められない。」と米国民政府の広報局の役人に言われました。それでプロデューサーは「いやいやそんなことはない。これは大自然と人間の闘いを撮っているんだ。『老人と海』だよ。ヘミングウェイが書いた老人と海の沖縄版なんだよ。大自然との闘いなんだ。」と言ってごまかしました。それでも、彼らは納得しませんでした。

 結局、その後、プロデューサーはサバニ借りて2回程、八重山民政府に通ってその後の撮影が順調にいくように交渉をしました。我々は最後まで自分たちのやりたいことを押し切り、最終的に何も屈せずに作りたいものを作って放送しました。

 僕は復帰前から復帰後にかけて約30年間、沖縄と関わりました。最初の15年は沖縄に住んで新聞記者とテレビの仕事でした。それから、沖縄から引き上げて15年は民放、東京の報道局の仕事でした。その30年の間に沖縄に関するドキュメンタリーを28本作りました。1963年の「乾いた沖縄」から始まり、「昭和が終わった日」という裕仁天皇が崩御した日の沖縄。「沖縄の人たちが昭和天皇の死をどう受け止めたか」ということをテーマにしたドキュメンタリーまで全部で28本撮りました。

 八重山の小さな島々。例えば鳩間島で水道が引かれて電気がついたのは復帰して10年近く経ってからです。末端の島にいると「僕は沖縄がよく見える。あるいは日本本土がよく見える。」という気持ちになってきます。要するに日本の縮図のようです。まず、「自分の足元を見よ。」という意味で離島に関心を持ってほしい。そのような離島を知ってもらう一つの手法として、離島の番組作りが多かったわけです。

「コザ暴動」の取材

 コザ暴動。僕はあえて「暴動」と言うけれどこれは市民が暴れまくった暴動ではなくて 「整然たる秩序ある暴動だ。」とよく言います。コザ暴動を取材した時、発生は確か夜中12時過ぎの交通事故がきっかけだったと思います。

 僕は那覇からカメラを持って助手と一緒に車を運転して現場に着いたのはたぶん1時半ぐらいだったと思います。午前1時半ぐらいから朝7時過ぎまで16ミリフィルムカメラを回し続けました。現場は真っ暗闇の中でプラザハウスから少しコザよりの島袋交差点あたりの場所。

 現場は真っ暗闇の中、火の海でした。真っ暗闇でもう炎上する車の火の明かりだけでした。当時は街灯なんてほとんどありません。米軍のヘリがサーチライトみたいに照らしていて、警戒のために低空飛行で現場を飛び回り、騒音がすごかったです。コザ暴動で盛んに車をひっくり返しては火をつけての繰り返しの様子を撮影していました。

 朝7時、第2ゲートの暴動の終局までいて、そういう状況をずっとカメラを回して記録していました。真っ暗闇の中、周りには群衆がいて灯りは燃えている車の炎だけで、僕の動画(カメラ)のライトが唯一状況を照らしていました。ライトを点けるとみんなが寄ってきました。するとある青年が僕の肩を抱いてきて「兄さん。兄さん。いい写真を撮ってください。日本に伝えてくださいね。」と言うのです。そして、僕の肩を抱いてより激しい現場に次々と連れて行ってくれました。コザ暴動の最中、カメラをまわしている時にファインダー越しが滲んで見えて困ったぐらいです。

 コザ市民や名も無き市民が誰の命令を受けるわけでもなく、ああやってアメリカに抵抗した時は「ついにウチナンチュ-が立ち上がったか。」と本当にうれしかったです。路地に止まっているイエローナンバーの車に火をつけると周辺の民家が炎上してしまうからそれをコザ大通りまで皆で押してきて大通りに持ってきてから火をつけていました。

 また、黒人兵には手出しませんでした。黒人兵が出てきてみんなが近寄ると誰かが「クロだ。クロだ。」と言いました。「クロだからやめとけ。」と認識が浸透していました。つまり、黒人と沖縄の我々は同じく差別されている側だと手を出しませんでした。参加した1人1人がそのような意識がありました。

 「コザ暴動」を撮ったフィルムは当時、マイクロ波が通っていなくて飛行機でニュースフィルムを送っていました。旅行者にフィルムを渡して旅行者がフィルムを那覇空港に持ち込んで航空会社に送ってもらいました。ところが、あの日の翌日は日曜日でした。コザ暴動が土曜日の夜から発生したので翌日は日曜日でした。税関が休みでした。空港の税関が休みなのでフィルムが送れません。それで、このフィルムは密輸しました。僕は朝8時過ぎにコザを離れて那覇に戻り、まず、お昼のニュースで電話リポートをしました。夕方6時のニュースには映像を間に合わせたいと思いました。便の少ない東京行きの飛行機だと夕方のニュースは間に合わないのです。大阪行きの飛行機がその前の時間帯にあったのでそれにフィルムを積めば夕方6時のニュースに間に合いました。大阪行きのカウンターに行って大阪に行くお客さんを探して「大阪行きですか?実はお願いがあります。これは大事なニュースフィルムなんです。」とお願いしました。「大阪の空港にYTV(読売テレビ)の人が待っているのでそこで渡してください。」すると、大阪行きの彼は引き受けてくれました。そのフィルムは大阪の読売テレビの人の手に渡り、その日の夕方のニュースでYTVから映像を流して音声は僕が那覇から電話でリポートしました。

現在の取り組みと沖縄への想い

 現在は「ドキュメンタリートーク」的なことを頼まれたり、働きかけたりしています。あとは沖縄に関心を持つ人が僕の過去のドキュメンタリーを見て僕から過去から未来に至るまでの沖縄の話を聞く集いをしています。とにかく沖縄のことを理解してくれる人を広げて、それがまた周囲に輪を作っていって「広がればいいな。」と思って何十年もヤマトに帰ってからおそらくトークだけで何百回もやっています。それでも沖縄問題は全然変わらない。本土との人口比が100対1の沖縄の人が沖縄の1人が100人の意識を変えていくことは大変です。

 僕は18歳から沖縄との関わりをずっと引っ張り続けてテレビ局で働いている時も「沖縄一辺倒」というか、沖縄を伝えることにしか関心がなかったです。53歳の時に「沖縄一本でやろう。」と思い、会社を飛び出してフリーになりました。

 人間は「18歳の衝撃」と言って18歳の時に出会ったことは人生を変えるほど一生焼き付いてしまいます。「18歳」というのはすごい時期です。僕がまさに18歳は「沖縄体験」の歳だったでしょう。だから、ずっと引っ張って吹っ切れないのです。「僕の沖縄はこれで終わり」という時が来ないのです。

RELATED関連記事

少年の見た日本復帰

  • 1949(昭和24)年生まれ
  • 大城 和喜さん(おおしろ かずき)

沖縄を平和創造の拠点に

  • 1935(昭和10)年生まれ
  • 高山 朝光さん(たかやま ちょうこう)