イメージ1_祖国復帰大行進
イメージ2_祖国復帰大行進
イメージ3_ドル交換所
イメージ4_祖国復帰大行進
POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

ヤンバル在来文化資源を繋ぐ

movie_play
  • 1943(昭和18)年生まれ
  • 島袋 正敏さん(しまぶくろ まさとし)

TIMELINE関連年表

1943
旧久志村底仁屋(現・名護市)に生まれる。
1957
辺野古で基地建設開始。
中学生時代
3年生の時に修学旅行で人生二度目の那覇。
高校生時代
宜野座高校に入学。親元を離れ、寮生活を送る。
1961
高校卒業後、コザの米兵相手の飲食店で働く。
1964
久志村役場に勤める。
1970
名護市誕生。(名護、羽地、屋我地、久志、屋部の5町村が合併)
1975
沖縄国際海洋博覧会開催。沖縄県の本土復帰記念事業として本部町で行われた。
1984
名護博物館初代館長に就任。
1989
「山原島酒之会」を開く。

STORY証言

証言者略歴

 初代名護市博物館館長。
 ヤンバルの生活と自然をテーマにした名護博物館の立ち上げに関わる。泡盛文化の継承やアグー豚などの琉球在来種の保護に尽力する。名護市底仁屋に「黙々100年塾 蔓草庵」を創設し、竹細工づくりの指導を行うとともに、自然や文化を学ぶ場を提供している。

幼少の頃~高校時代

戦後の底仁屋での暮らし

 戦後、嘉陽小学校や天仁屋小学校で配給がありました。ここでは「レーション(野戦食)」を「サッパ―(夕食)」と言いました。その中にバターやチーズ、チョコレートなどが入っていました。チョコレートとチーズは何故か食べませんでした。チョコレートは妙に甘くて、普段、食べている砂糖とは違っていたので田んぼに捨てました。チーズもなにか石鹸みたいで、僕は食べませんでした。やはり、食べ慣れない物でした。米軍用の毛布が大量にありました。冬になると有難かったです。内側からファスナーを閉めて、温まりました。

 僕が小学校低学年の頃(1950年代の初めごろ)、米軍車両が校門前に止まると、生徒たちは皆、一斉に教室を出ました。生徒たちが集まった理由は車が珍しかったことと米軍が演習時に多くの食料を持っていたからです。彼らは食料を地面に投げていました。かじりかけのリンゴや牛乳パック、ハムサンドイッチなどを投げていました。生徒たちは泥のついた食料を奪い合っていました。この出来事を高校生や二十歳になって思い返しました。あの時の情景は何だったのだろうか。米軍車両に乗った米兵たちが白い歯を見せて笑いながら僕らに食べ物を投げ与えた情景がずっと頭にこびりついて、妙な感情が頭をよぎりました。

 大半の子供たちは米兵からの食料をすぐに食べていたけれど、僕は食べませんでした。家が貧しかったので、ハムサンドイッチを持ち帰り、家族みんなで食べました。美味しいものは自分だけで食べないように我慢して、授業が終わってから家に帰り、母がサンドイッチを包丁で一センチずつ切って、家族みんなで分けて食べました。そのような思い出があります。

 当時の弁当は大きい芋を一つ隣の我如古のおじいさんが作ってくれた籠に入れた芋弁当です。我如古のおじいさんは近所の子供たちが小学校に上がると必ず小さな竹籠を作ってくれました。「はい、おめでとう」と籠をくれたとても優しいお爺さんでした。

 修学旅行先は那覇でした。そこまで行くために運搬用の車を借りてトラックの荷台に生徒15名と先生方5名ほどが乗りました。アメリカのテントカバーを敷いていて雨が降るとカバーを被りました。当時の修学旅行の定宿は今のひめゆり通りに木造2階建ての「ひめゆり旅館」でそこに泊まりました。また、当時の旅館の費用は「現金」ではなくて「お米」でした。

辺野古基地建設

 辺野古は1957年から米軍基地の建設が始まりました。実際に基地が運用されたのは1960年頃です。1957年に土地接収が始まって基地建設が始まりました。米軍は海兵隊だから先に基地が出来ていた金武から米兵は来ていたと思います。おそらく1957年、僕が中学2年生の頃だったと思います。辺野古が軍用地契約に同意したのはその頃です。

宜野座高校での寮生活

 僕は宜野座高校出身です。当時の久志村や金武村、宜野座村の高校区域は宜野座高校でした。高校は寄宿舎から通学しました。寮の名前は「青雲寮」といい、セメント瓦の大きな木造建築で中はがらんどうでした。部屋には机と腰掛け、そして小さな石油ランプがありました。絵が描かれている小さなホヤランプが皆に1つずつ配られました。

 土曜日になると地元に帰り、家の手伝いをしました。山に行ったり、サトウキビの収穫を手伝ったりして、日曜日の夕方になるとバスで寄宿舎に帰りました。

 僕が最初に写真を撮ったのは宜野座高校のときです。私はアルバム編集委員のつもりでいたけれど、実際はそうではなくて写真撮影担当でした。宜野座高校にはカメラが一台あって、そのカメラを島袋くんと2人でいろんな学校行事などの写真を撮りました。それから化学室の暗室で現像してプリントしました。

コザに出て社会人生活 

 僕は高校卒業後の8月からコザ(現 沖縄市)で仕事を始めました。1954年ごろにコザに出て来てクラブ経営をしていた底仁屋出身の我如古さんに「コザに来ないか?」と誘われました。高校卒業したばかりで仕事内容も分からないけれど金を稼ぐためにコザに行きました。コザには1961年8月から1964年3月末までいました。

久志村役場での勤務と名護市誕生

久志村役場時代

 1964年4月1日、東京五輪の年に久志村役場に就職しました。僕の最初の仕事は役場の庶務係で統計主任でした。統計は人口統計と各集落の人口の増減や死亡数、出生数などを記録しました。これらの月報を作りました。あとは家畜と農産物の統計です。ヤギから豚、馬、牛の頭数を毎月計算しました。芋や稲、そして他の作物も先輩から教わりながら全部記録しました。これが最初の仕事でした。

 だから、常に現場に行かないといけませんでした。ヤギ小屋も豚小屋も芋がどれだけあって稲作の状況も見て集計しないといけません。もう夏も冬も大変でした。そのかわりに地域の人との繋がりはよくなりました。1967年か68年頃、当時の沖縄は田んぼが多かったです。その頃、本土では減反政策が始まっていたので、その影響が沖縄まで響いてきました。日本復帰の3年前ごろから次第に水田が減っていきました。水田を埋土してサトウキビ畑や蔬菜(そさい)園芸に変わっていきました。

名護市合併後は教育委員会へ

 1970年8月1日に一町四村(名護町、羽地村、屋我地村、屋部村、久志村)が合併して「名護市」になりました。僕ら名護市教育委員会は名護琉米文化会館に事務所を構えました。各地域から集まった職員はお互いが初めて同士でした。「名護市」が誕生したことで皆、緊張感をもっていました。この地域をどうするかと職員はみんながむしゃらでした。

 復帰前には1975年の海洋博開催が決まっていたので大きな自然破壊や色々なことが起こるのではないかという懸念がありました。地域の色々な民俗資料が失われるのではないかと心配していました。

 1971年から僕は博物館の資料収集を始めました。大きな渦に巻き込まれるような一種の危機感を覚えました。それから博物館準備室に約10年間、資料を収集しました。

 ヤンバル(本島北部)の地域は名護が中心でした。当時の青年団や地域の人たち、主に屋我地の年寄りたちなどが一緒に協力してくれて資料を収集しました。それは僕の担当業務ではありませんでした。資料収集の理由は個人的な危機感からでした。私の事務分掌には文化財の資料収集や博物館準備等は定められておらず、自分の興味で勝手に始めました。僕の新婚時代の間借り先は全部、資料の収蔵庫でした。みんなは縁側に厨子甕(骨壺)を置いていて協力してくれました。資料が集まると元琉米文化会館の館長室を改造して収蔵庫を作りました。そこも資料がいっぱいになったので1975年の海洋博が終わった翌年に70万で買ったプレハブを建て、そこを収蔵庫として拡張しました。

 1980年 名護市施政10周年で新しい市庁舎が出来ました。新庁舎が出来た頃、古い名護市庁舎をどうするかという話し合いがあり、僕は当時の渡具知裕徳市長に「博物館にしたい」と直談判しました。旧庁舎はまだ使えて広さも十分でしたので「博物館にしよう」と僕は主張しました。市長は収蔵庫にするようにと意見を譲りませんでしたが僕は意見を曲げずに旧庁舎を博物館として使いました。
 有る物を使わずに古い物を壊していく風潮は当時からありました。僕は個人的に皆と一緒に賑やかに利用できる博物館があっていいと思います。

 「屋部の久護家」と言うと明治の豪農の屋敷です。あれは県の文化財に指定されました。後に同じ時期の豪農「羽地の仲尾殿内」や久志の瀬嵩に「仲地家」、源河に「源河ウェーキ(豪農)」があり、これらも保存しようと一生懸命頑張りましたが、結局、全部保存できませんでした。僕は文化財担当でもあったので守らなければならないものが守れなかったことが本当に辛かったです。今も残っていれば宝物です。

 汀間川のマングローブも残そうと一生懸命頑張りました。県の土木事務所と喧嘩しながら調整を続け、15年かかけてやっと名護市で予算化して汀間川のマングローブを買いました。社会教育の現場で「文化財と自然を守ろう」と掲げ、僕は「やんばるの自然を守る会」の事務局長を80年代まで務めました。それから、北部地域の一大文化展を実施するために「やんばる展」を開催しようとして考え、社会教育課が事務局を担当しました。この試みは孤軍奮闘ではなく、名護市の他にも大宜味や本部、国頭、伊平屋を含めて進めました。名護市の職員だけではなく他の自治体の社会教育主事なども一緒になって「やんばる展」の会場づくりや展示作業を行い、ポスター張りも全部 自分たちでやりました。

 当時は今のような展示会場があるわけではないので、冬休み中の名護高校の教室や北部会館のホールを使わせてもらいました。ベニヤとサンを買ってきて、自分たちでパネルをつくり、展示作業も全部、自分たちで行いました。

 この活動のエネルギー源は「泡盛」と「オリオンビール」です。お酒を飲んでヒージャー(ヤギ汁)会をやって、喧々諤々と語りあいました。時にはみんな喧嘩腰で 「どうするの?」と議論をし、熱い思いを持って取り組んでいきました。

 僕は原昭夫さんや中村誠司さん、象設計集団などのよそから来た人たちにかなり刺激を受け、相当勉強になりました。彼らと渾然一体になって新しいエネルギーを生み出していきました。それが地域づくりやまちづくりに繋がり、ついに1973年、名護市の基本構想が出きました。元名護市長の岸本建男が「地域自治研究会」を提唱して毎週火曜日に集まり勉強会をしました。

在来文化資源を守る活動

琉球在来種の保護をはじめる

 1981年 、名護博物館の準備室が出きます。準備室ができると資料の整理や新博物館の展示・設計を考えていく過程で剥製を作る話が出ました。当時、剥製にする対象は野生生物だけじゃなくて生活のベースにある「家畜」も必要だと考えました。「農業」と「家畜」を考えるとそれは外せないだろう。それではどこの豚や馬を剥製にするのか悩みました。北は国頭から南は糸満まで探し回りました。伊是名や伊平屋まで足を運んだら、アグー(琉球在来豚)が結構残っていることに気が付きました。それらは剥製だけではなく種として残すべきだと思いました。1982年からアグーを集め出しました。アグーの肉質が西洋豚より優れていることを当時は知りませんでした。とにかく、古くからあるものは残さなければいけないと思い、名護博物館でアグーを5頭集めて僕の父親や久志村の比嘉為一さんなどに無償で養ってもらいました。やはり、5頭だけではアグーの種を保存できないと分かりました。比嘉為一さんはキャンプシュワブの残飯を飼料にして辺野古で養豚をしていました。彼は牛や豚、与那国馬まで養っていた凄い方です。彼は私に「残っているアグーはみんな集めよう」と言っていました。2人で駆け回って新たにアグー13頭を集め、全部で18頭になりました。

 当時、アグーは「等級外」でした。つまり、アグーは飼育してもお金にはなりませんでした。それでも比嘉為一さんはとても家畜が好きな人で「僕は金になる、ならないは関係ないよ」と言って協力してくれました。それから、アグーだけではなく与那国馬や宮古馬、チャーン(琉球在来鶏)、沖縄在来のヤギ、トゥラー(在来犬)を全部保存しようと思い、それらを名護博物館で飼育することにしました。

 幸地又の一番上の場所で飼育しました。それを山之端一博(いっぱく)さんが子供たちと一緒に草刈りしたり、馬に乗ったりして世話をしました。在来犬については博物館で飼って頭数を増やし、全県下に70頭くらい増やしました。

泡盛講座をはじめる 

 僕は名護博物館時代に「古酒講座」をやりました。すると、「博物館で酒の講座をやるとはどういうことだ」と行政内部から批判されました。当時は泡盛講座を公の場でやるというのは抵抗がありましたが、沖縄県工業試験場にいた照屋比呂子さんにお願いして泡盛の歴史や工程について話してもらいました。それが泡盛講座の始まりです。

 それから僕は1989年に「山原島酒之会」を作りました。泡盛は戦争で99%潰されてしまったので、もう一度、泡盛を再生させるにはやはり古酒だろうと思いました。やはり泡盛を家庭で寝かせて育て、それで遠来のお客をもてなしたり家庭の行事で使ったりする酒の文化をもう一度復活させたい。そこで「全ての家庭の床の間に古酒甕を」というキャッチフレーズにしました。一度始まるともう止まりません。

在来文化資源こそアイデンティティー

 僕は豚や泡盛などを「在来文化資源」と言っています。沖縄に定着して100年を越えたものはみんな「在来」だと思っています。ですから、染め織りや陶器、琉球漆器、籠、在来家畜、在来作物、在来薬草、あるいは沖縄空手そして歌三線も含めてそれらは全て自分たちのアイデンティティーの依拠するところです。それが「在来文化資源」です。それらを大事にしないで何をもって僕らのアイデンティティーというのでしょうか。

 アグーはアグーだけ。泡盛は泡盛だけでなくみんな繋がっていてトータルで文化と見なしましょう。今は学問も産業も細分化、専門化されすぎていてほとんど繋がりがありません。私はそれを複合的に繋いでいく視点が必要だと思います。

―エコツーリズムへの問題提起

 今は自然保護で「エコツーリズム」という言葉があり、自然は大事だとみんながキャンペーンしますよね。自然が大事だという事は皆わかっています。でも「自然と関わる暮らし」はほとんど消えているのです。子供が自然素材を使って物をつくったり、季節ごとに木の実や葉っぱ、皮、根っこを食べたりすることや川や海の生き物を捕って食べたりすること。そのような自然とのつながりと人々の暮らしが離れてしまっています。自然素材を使って遊ぶことにどんな意味があるのか。それを伝えるのがエコツーリズムのガイドだと思います。

貴重なヤンバルクイナやノグチゲラがいます。だから自然を大事にしましょう。確かにこれも大事だけどそれだけで終わるところが今の自然保護やエコツーリズムの問題だと思います。

博物館の役割とあり方

博物館の役割とは何でしょうか。若い学芸員は博物館の資料活用をしたこともなく、使う場面を実際に見たこともないが、文献上は分かります。それをどのように伝えるといいのか。昔の道具を使って追体験することやあるいは道具の修理や作ることもいいと思います。市民と一緒に経験しないと博物館の学芸員も育たないと思います。

「博物館は玄関だけあればいい」と僕は言いました。先輩方には「博物館を作るときに君は何を言うのか」と叱られました。僕が言っている意味を先輩方は理解していませんでした。博物館は入り口であってフィールドはヤンバル全体です。ヤンバル全体が博物館という捉え方をしないと視野も動きも次第に小さくなります。

心に残る米軍統治下での出来事 

戦後、米軍の占領下で沖縄は苦しんできました。今は違いますが、当時の僕はそこから脱するには日本に復帰することだと思っていました。僕の原点は1955年の由美子ちゃん事件です。僕が小学校4年生の時、母が米兵のハート軍曹が小さい子供を誘拐して犯した話を私にしました。小学校4年か5年の時ですから大きな衝撃を受けました。小学校低学年の時にGMC(米軍車両)から米兵が投げた物を拾って食べた経験と1955年の由美子ちゃん事件や1960年の宜野座高校生徒会でのアイゼンハワー米大統領の訪沖反対運動。これらは僕に決定的な衝撃を与えたと思います。

若い人たちへのメッセージ

今、自分たちの地域で起きていることを見てほしいです。世界中で様々な問題が起きていますよね。だからスマホかAIか分からないけどそれにのめり込むのではなく、自分の目で地域の問題や課題を見つけてほしいです。そこを見ないと問題意識は湧きません。「何をすべきか」が出てこない。そういう「見抜く力」が僕はとても大事だと思います。お金があって消費をするだけの暮らし。これでいいのでしょうか。僕らはもっと大事な価値を持っているのではないでしょうか。僕はそれを繋いでいくために細々とやっています。泡盛もそうですよ。それぞれがみんな文化運動です。技術を伝えることはそんなに難しいことではありません。技術ではなく、連携をとりながらバックボーンというかベースは何なのかを伝えていくことは大切です。

RELATED関連記事

戦後宮古の社会教育に携わって

  • 1942(昭和17)年生まれ
  • 砂川 幸夫さん(すなかわ ゆきお)

戦後沖縄の美術教育

  • 1932(昭和7)年生まれ
  • 稲嶺 成祚さん(いなみね せいそ)