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POSTWOR OKINAWA
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okinawa1945

「一坪たりとも渡すまい」~昆布土地闘争から学んだこと~

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  • 1948(昭和23)年生まれ
  • 佐々木 末子さん(ささき すえこ)

TIMELINE関連年表

1948
具志川村昆布(現・うるま市)に生まれる。
1956
プライス勧告発表。その後、沖縄各地に反対運動が広がる。56の市町村で集会が催され、「島ぐるみ闘争」へと発展した。
1959
米軍ジェット機が石川市の宮森小学校に墜落。
1961
具志川村川崎に米軍ジェット機が墜落した事故を目撃
1965
米軍、北ベトナム空爆。(北爆開始)
1966
米軍、具志川村昆布の地区の農地約2万1千坪を接収すると通告。
1966
伊江島を訪ね、土地闘争について学ぶ。
1967
昆布土地闘争の中で「一坪たりとも渡すまい」の曲が誕生。
1971
米軍、昆布地区の土地接収を断念する。
1982
第一次嘉手納基地爆音訴訟開始。

STORY証言

証言者略歴

 嘉手納基地爆音訴訟具志川支部事務局長。
 子どもの頃に米軍ジェット機墜落事故を目撃。高校生の時に米軍の土地接収に抵抗する昆布土地闘争に参加。「静かな夜を過ごしたい」と第一次嘉手納基地爆音訴訟から原告として参加する。沖縄の抱える基地問題について次世代に伝える活動を行っている。

戦後間もない昆布集落

 生まれた頃にはキャンプコートニーの基地が近くにありましたので米兵がこの地域に出入りしていたのを身近で見ていました。空襲警報が時々ありました。当時、昆布は田舎でしたので、テレビも無く、「親子ラジオ」があったくらいでとても静かでした。そのため、音がよく響きました。都市と田舎では音の響きが違ったと思います。空襲警報のサイレンが鳴ってそれが止むまでの暫くの間、暗闇の中で家族と過ごしました。朝鮮戦争時代の防空訓練だと聞きました。

拭い去ることのできない戦争の記憶

戦争のトラウマ(後遺症)に 苦しむ人々

 戦争が終わってこれからどうしようかとまだ気持ちが立ち直れない人たちもいました。また、鎌を持って大通りを歩くおばあちゃんがいました。みんな怖がって逃げます。後で知りましたが、この方は戦争の被害にあい家族が全滅したということです。南洋で家族が全滅して1人で帰ってきた方がいてとても大変な思いをしたと思います。戦争で傷ついた人達がたくさんいました。私が子供の頃はそのような大変な思いをした人たちを頻繁に見ました。

南洋帰りの父の記憶

 私の両親も南洋帰りで、沖縄には両親と子供たち、家族7名で帰ってきました。父は現地で戦争協力をさせられたようです。岩に穴をあけて、そこに弾薬を詰めて陣地のようなもの作りました。そこは線路みたいに入り込める場所でした。私の父は石工でしたので岩の加工に慣れていて、そのようなものを作らされました。父が家族に会うために家族が居る壕に行くと日本の兵隊たちも壕の奥に入っていました。民間人は外の方に居ました。そこで、生まれたばかりの赤ちゃんが泣きました。壕から出てきた兵隊が赤ちゃんを捕まえ、カミソリのように尖っている岩に打ちつけて殺してしまったそうです。その後、赤ちゃんを殺された母親は気がふれて叫びながら出て行ったそうです。

 その時、6名ほどが一緒にいて私の父は在郷軍人と一緒にいてこの現場を見ていました。父がこの話をする時、怒りがこみ上げて奥歯を噛みしめていました。
 父は日本兵がやったことをずっと見てきたので「何で味方を殺すのか。戦争で負けるのは当たり前だ。」といつもそのような話をしていました。

軍事施設に囲まれた環境でたくましく生きる人々

軍事施設に囲まれた集落

 私たちが住む昆布集落の西側に米軍のミサイル基地「ナイキハーキュリーズ」がありました。これは夕方になると地下から上がってくるミサイルが立ち上がってきました。集落の南には学校の通学路と燃料タンクがあります。嘉手納基地へ送油するための大きな燃料タンクです。それから、集落の東側にはキャンプコートニーがあります。このキャンプコートニーとつないで30万坪ほどの黙認耕作地がありました。

 集落の北側に燃料タンクがありました。燃料タンク一基が300坪でこれが5基ありました。ここ、昆布を起点に嘉手納に送油されていました。ナイキハーキュリーズ周辺には燃料タンクやキャンプコートニー、黙認耕作地がありました。黙認耕作地になった所は「労務カンパン」とよばれ、ヤンバル(本島北部)から300名。島尻からも多くの人が来ていました。ここから沖縄全島の基地や道路などのいろんな軍作業の手配をやっていました。ですから、ここに来ると食べ物が貰え、賃金は大した問題ではありませんでした。昆布にいると食事ができるし、「戦果」があげられる。缶詰等があります。

 こちらでは炊事をするので多くの残飯が出ていました。そして、それを海岸沿いに捨てていたようです。「残飯が勿体ないから豚を養おう」と言いだした人がいました。それで昆布と天願に豚組合ができたらしいです。「最初の豚はどこから取ってきたのですか?」と聞いてみると答えは伊計島でした。無人島になっていた伊計島に豚はみんな避難させられて一ヵ所に収容されていた豚を伊計島から取って来たそうです。そして、昆布で繁殖させていました。ちょうど私が生まれた年にハワイから豚輸送があり、その豚をここで掛け合わせて広めていったそうです。

「戦果のメッカ」といわれた昆布

 PX(米軍基地内の売店)があった所には大きな荷物がありました。軍人たちが寒いときに着る「羅紗(らしゃ)」を知っていますか?質のいい織り物です。この羅紗が入った一箱を戦果上げすると家1軒建てられました。PXがある地域は「戦果のメッカ」と言われました。作業員が基地の中へ軍作業に行くとします。作業員が基地内から帰るときにガードマン(警備員)がジャンプさせると服の中から缶詰が沢山出てくる作業員がいました。また、ライターの固形燃料になる鉛筆の芯みたいな粒を髪の毛にいっぱい入れる作業員もいました。これが非常に良い戦果になりました。作業員は軍作業に行くときはみんな長靴を履いていました。紐をあちこちつけて飛ばされても戦果品が落ちないようにしていました。警備員も皆、生活が大変だと分かっていたので見逃していました。それで一代を成して土地を買った人たちも出てきました。これはもう本当に現在で言えば社会悪かもしれませんが、当時は必要悪だったと思います。

川崎でのジェット機墜落事故

 1961年4月に私は中学校に入学しました。そして、5月に米軍のヘリコプターが川崎小学校の後ろにある運動場の近くに落ちました。このヘリには5、6名が乗っていて2人ほど死亡しました。そして残りの負傷者は油をたくさん被っていて担架で運ばれる時も手から油が流れていました。川崎の近くに「キャンプ・マクトリアス」があり、ヘリコプターが飛んでいるのが日常茶飯事でした。ヘリが近くまで来て私たちが手を振るとヘリからも手を振り返すのが見えるほど近くまで来ました。それを当初、面白がっていました。ヘリコプター墜落事故は中学になって最初の衝撃的な事件でした。その事件を忘れたころの12月に今度はジェット機がこの学校の校区内の川崎集落に落ちました。事故が起きたのは放課後だったと思います。低学年は下校時間で、帰る時に巻き込まれてひどい火傷を負った1年生がいました。このジェット機から丸い物が火の玉みたいになって転がって行って、交番も突き破りました。その後、巻き添えになった小学1年生が真っ黒になりました。何名か巻き添えになりました。ジェット機が落ちそうだったのでみんな三々五々で逃げました。川崎小ジェット機墜落の2年前には宮森小ジェット墜落機事件がありました。墜落した機体が同じ機種だと分かり本当に驚きました。こんなに落ちるジェット機を何故、この沖縄で次々と飛ばす必要があるのかと強い怒りを感じました。

昆布地区の土地闘争が始まる

新規土地接収に抗う昆布の土地闘争

 1965年、天願桟橋が完成しました。その後、そこに高圧線の鉄塔が出きました。この桟橋から天願の通りに高圧線が通りました。それができると、昆布の新規土地接収が始まりました。1960年代もまだ黙認耕作地でした。その頃にはもうフェンスは無かったのですが、まだ開放されていない黙認耕作地で畑をやっている人たちもいました。そこに30万坪余の黙認耕作地があり、桟橋と黙認耕作地の間にある2万2000坪あまりが私有地でした。米軍は個人有地を新規土地接収する予定でした。伊江島はすでに始まっていました。

 新しく基地を接収するのは昆布そして辺野古それから志喜屋、山里など6ヵ所ほどありました。最初に接収されるのは桟橋を作っているこの昆布の土地でした。新規土地接収の話を口頭で聞いたのが1965年12月です。そして、年が明けて1966年 2月に文書が届きました。布令20号と言っていました。米軍の言い分は「ここに集積場を作って駐車場にします」という話でした。昆布地区は周辺の地主が集まっている地域でした。当時の地主は高齢者や戦争未亡人が多かったです。その中で体が丈夫で比較的若い人が60歳手前の私の父でした。

 「あんたが中心になって考えてほしい」と父の元にオバアたちが来ました。それで私たちの家に集まりどうしようかと話し合いました。「もう、ここだけしか土地はないよ」「子供もいない。夫も戦死した」「この土地があれば養子を迎えることができる」「だから絶対にこの土地は譲れない」と、このような思いがあるオバアたちがいっぱい居ました。

 この地域は南洋移民した方がほとんどでした。その方々が引き上げてきて、この辺りの原野を開拓してサトウキビ畑を始めました。「うちは何千坪もサトウキビを植え付けしたばかりだ。今、土地を接収されたら困る。死活問題だ」とみんな口々にそういうことを言い始めました。

 「区民と一緒にやりましょう」と区長さんにお願いしました。「地域の皆が反対するなら」と村役場も一緒になって抗議することになりました。そしてすぐに呼びかけたのが村内の青年会や婦人会、PTA、至る所の団体です。みんな一緒になって集会を持つことになり、ちょうど4.28復帰行進が具志川に入る時期と重なりました。復帰行進の人たちも一緒になって大会で訴えることになりました。昆布の地域や市内外にカンパ運動が始まり、闘争する機運を盛り上げていきました。

 そうすると、昆布の土地接収に関する前期後期の契約があってD.E.から依頼された琉球政府の法務局職員が契約に回りました。昆布の地主たちの家を個人訪問しました。「今、契約をやった方がいいよ。どうせ土地を取られるよ。土地を取られるときには保障はないよ」と言われました。これは分断工作です。

闘争日誌

 「今日は何処から何ドル何セント」と寄付の記録を母がつけていました。食べ物の寄付は豆腐一丁、素麺、卵。寄付は具志川市だけでなく県内外から来ました。この寄付は物心両面からとても有難いものでした。このノート(闘争日誌)は厳しく管理されていました。軍雇用員やいろんな職場の人たちが圧力を受けてクビになる可能性がありました。今日、書き留めた人が次に渡して、そして次の人が管理していました。確実に管理者を決めていて一般の目には触れないようにしました。

 この事務局日誌は昆布の土地闘争を支える人たちを守る。権利を守るという意味があるものでした。これが残されていたことは良かったです。

伊江島から学んだ闘い方

 1966年1月から12月まで緊迫した状況でした。自分たちはこれから先どう向き合えばいいか分からないのでまずは土地闘争で頑張っている伊江島に行って見ようと思いました。村役場の職員も土地を守る会のメンバーも一緒に行きました。伊江島での土地闘争のやり方を教えてもらうことが目的でした。

 土地闘争のやり方は「石を投げるのは駄目だよ。相手に石を投げては駄目。拳を振り上げたら駄目だよ」とそのような話を聞きました。

 今までの「目には目を」という考えではだめだということに気づきました。米軍相手にどうやっても武力では敵わない。向こうはブルドーザーや鉄砲を持っている。伊江島で長い間、土地闘争が継続できる理由は相手を対等の人間、まともな人間として話し合うからだと感じました。絶対に石を投げたら駄目。当時は「ヤンキーゴーホーム」の言葉が流行っていましたが「ヤンキーゴーホーム」と言うのは駄目。「相手も怒ってしまうからそれを言ったら駄目だよ。」と教えられました。

 その後、10月になると昆布地区は非常に切迫してきました。米軍側も土地接収が出来ないので琉球政府の法務局のやり方では土地接収は駄目だと考え、米軍側もここまで来ると強制接収しようとする雰囲気になりました。

赤い月夜の出来事

 12月は米兵たちも正月休みで沖縄に帰って来ます。ベトナム戦争も一時停戦になりました。米兵たちは闘争小屋の前を通ってキャンプコートニーへ行く時、彼らはミカンの皮やかじったリンゴを投げていました。それを見た集落の若者たちが米兵に向かって「ヤンキーゴーホーム」と言いました。12月30日の夜、明日は年越しの夜だから楽しいことをしようと若い男女が闘争小屋に多く集まりました。

 突然、米軍の車が来て「ピー」と笛の音が鳴り、歩いてきた米兵が止まりました。もう一度、ベルが鳴ると今度は兵隊たちが一斉にこちらを向いてもう一回のベルで石を投げ始めました。彼らは「羅紗」という服を着ていて、服の中に入れてきた石を投げつけました。それから、上がってきて闘争小屋の3、40本もの旗竿を全部へし折っていきました。この時、男の人たちを小屋近くの絶壁から逃がしました。男の人たちは藪の中を通って集落の中に行くように道なき道を渡りました。

 この出来事の後、私たちがすぐに呼びかけをするとあっという間に100名ほどの人々が集まって米軍に対する抗議集会が始まりました。そして、次の日にはキャンプコートニーから隊長格を呼びだして抗議をしました。隊長は「ごめんなさい」とずっと頭を下げていました。

 そのような怖い体験がありました。あの夜のお月様は真っ赤に見えました。オレンジ色のような真っ赤な月でした。多分、私の目が血走っていたからだと思います。私は何度も目を拭いたけど、やはり、真っ赤な月に見えました。

 あの日の夜、闘争小屋には私もいました。兵隊も個人ではいい人たちかもしれないけれど、集団になると戦争屋になってしまって非常に残虐なことをする。戦地ではもっと大変でしょう。「ベトナムで酷いことをするのは考えられる」とその時、実感しました。

歌で全国に訴える

再び伊江島へ 野里竹松さんとの出会い

 1966年の翌年、1967年に個人的に伊江島に行きました。伊江島の中を見て回って阿波根昌鴻さんの家族や島の若者とも交流しました。伊江島から学んだことは「穏やかさ」です。闘争の中にあっても穏やかさが大切だということです。伊江島が長い間、多くの人たちに知られたのは沖縄本島の北部から乞食行進をして「陳情口説(くどぅち)」を歌いながら沖縄全体を回りました。それで伊江島の実情を知らせて行きました。「恥ずかしいのは自分たちに乞食行進をさせる偉い人たちです」と語った阿波根昌鴻さんの言葉は色んな事に通じるものがありました。「陳情口説」の言葉は難しいけれどなんとなくウチナーンチュの心に響きます。演説だけではどうしても及ばないところをこの歌で人の心に訴え、歌を口ずさむことで広がっていくことを知りました。

 伊江島で陳情口説の歌を作った野里竹松さんに会いました。私の目の前で三線を弾いて歌ってくれました。竹松さんのこの歌を聴いて眠れなかったです。その日は眠れなかったので少し詩を書きました。沖縄は鹿児島や東京からも離れた孤島だけれど、伊江島はもっと離れていて沖縄本島からも見えない所でいろんな悪さをされています。伊江島の人たちが真謝部落を立派な農地にしたい。元の肥沃な土地にしたいという思いが昆布地区の私たちの想いと共通するものがありました。土地を取られるという事も私たちと同じです。これは是非、学びたいと思い、少し詩を書きました。

「一坪たりとも渡すまい」歌が生まれた背景

♪東シナ海前に見て

♪わしらが生きた土地がある

♪この土地こそはわしらが命

♪祖先譲りの宝物

 3月の末頃、闘争小屋に合唱団「日本のうたごえ」がアコーディオンを持って来ました。この昆布の土地闘争を「歌で全国に訴えましょう」と提案され、集まっている人たちで詩を書くことになりました。私は少し書き留めていたものを整理して出しました。次の日、朝起きると、闘争小屋の裏にある海が見える丘でアコーディオンの演奏に合わせて聞き覚えのある歌詞の歌を歌っていました。

 復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)の「復帰オルグ」で沖縄から本土に行きました。福岡のメーデーに参加するとそこで、この歌が聞こえて来ました。1ヵ月間、オルグ(組織強化活動)で回っていたので曲のことをすっかり忘れていました。メーデー会場に行くと「一坪たりとも渡すまい」が歌われていました。

 いつも思う事はこの歌は私が作ったものじゃないということ。みんなが必要としていたから生まれた歌だと思っています。伊江島の人達の力をお借りして昆布で闘う仲間たちの知恵にも支えられた歌です。

団結の力と勝ち取った権利

土地闘争を終えて

 1970年まで土地闘争を続けたと思いますが、米軍はこの土地をもう必要としなくなりました。新規土地接収の可能性がなくなり、昆布の土地闘争はこれで終わりました。これには県内はもとより県外からの大きな協力もありました。右も左も分からない農民たちが団結することによって多くの力が助けとなり、出きたということです。27年間の米軍支配は沖縄に大きな弊害をもたらしたと思います。

若い人たちへのメッセージ

 私たちの「今」があるのはただ与えられたものではないのです。みんなで権利を勝ち取ってきました。勝ち取ったからこそ主席公選も出きました。黙っていたら出きなかったこともいろいろと勝ち取ってきました。だから、今、何か言われた時に目覚めないと与えてくれるものは何もありません。みんなが米国統治下時代のこの27年間頑張って繋いで来ています。それを私たちが受け取って幸せを享受して生活しています。だから、この幸せは与えられたものではないという事です。

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