イメージ1_祖国復帰大行進
イメージ2_祖国復帰大行進
イメージ3_ドル交換所
イメージ4_祖国復帰大行進
POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

沖縄空手を探究する

movie_play
  • 1939(昭和14)年生まれ
  • 新里 勝彦さん(しんざと かつひこ)

TIMELINE関連年表

1939
フィリピンのマニラで生まれる。
1945
疎開先の宮崎で終戦をむかえる。
1957
琉球大学空手クラブで稽古を始める。
大学卒業後
那覇市立上山中学校に英語教師として勤務。
1964
米国留学中にアメリカ人に空手を指導する。
米国留学後
世界松林流空手道総本部長嶺道場で稽古を再開。長嶺将真師範の「史実と伝統を守る沖縄空手道の神髄」を英訳。
1998
沖縄空手道松林流喜舎場塾を結成する。
2000
喜舎場朝啓師が逝去。その後、塾長となり、与那原道場を拠点として活動。
2008
『沖縄空手古武道事典』(共著)を創刊。
2017
沖縄空手会館が豊見城市に開館。

STORY証言

証言者略歴

 沖縄空手道松林流喜舎場塾塾長。沖縄国際大学名誉教授。
 大学時代に空手を始め、米国留学中にはアメリカ人に空手の指導を行う。帰国後、空手道場で稽古に励む一方、空手の国際的普及に尽力した。また、英米言語文化学科の教授として教育や研究に取り組み、武道と教育の両面で沖縄文化を発信している。

幼少期~中学時代

疎開を経験した幼少期

 1939年 昭和14年2月10日フィリピンのマニラで生まれました。家族は両親と僕ら兄弟2人の4名家族です。昭和17年に母と弟も一緒に沖縄に戻りました。沖縄に戻ってから1年ほど経つと戦争が激しくなり、疎開が始まりました。たまにB29が飛んでいるのを見るだけのあまり戦争の気配を感じない宮崎県の山奥に私たちは3名で疎開しました。疎開先は宮崎県西都原の寺原という所で約4所帯が一緒に居ました。1944年に対馬丸がやられたというニュースと「十・十空襲」の知らせがありました。宮崎に行った沖縄の人たちは泣きじゃくっていた事を覚えています。

 2、3年生まで宮崎にいて父親が復員したのが昭和22年、僕が8歳の頃です。宮崎から長崎の佐世保の収容所にみんな集められ、そこから沖縄の与那原に戻って来ました。当時の沖縄は殺伐とした雰囲気だったことを子ども心に覚えています。

戦後の与那原での生活

 大里村の「大里北小学校」に通学しました。その時に驚いた事は宮崎の妻小学校は戦争で校舎が壊されていない学校でしたが、北小学校の校舎はテント小屋でした。そして、机もなくて拾った瓦礫を腰掛けにしていました。授業中は自分の膝の上に物を置いてノートを書いていました。かなり大変でした。中学時代、一般的な沖縄の人は茅葺屋根の家に住んでいましたが中学校の校舎はコンセットでした。知念高校に進学するとコンクリート校舎でしたので「時代が変わった」と感じました。

英語や空手との出会い

知念高校に入学 英語に出会う

 知念高校に入学しました。その頃の知念高校は玉城村親慶原にありました。その場所から与那原町に移りましたが名前は変わらずにそのまま「知念」高校でした。当時の校長先生が後に沖縄県知事になられた屋良朝苗先生でした。1年生の時に屋良朝苗先生が講堂でスピーチをしました。

 その時、印象に残っていることは英語雑誌の「TIME」を広げて、「皆さん見えますか?」と生徒に見せてくれました。屋良先生は「私たちは教科書を写して勉強しました」とお話しましていました。私はその時、「これが英語か」と思いました。行間に書かれた日本語をいまだに覚えています。凄いインパクトがありました。

「空手」との出会い

 1957年4月、琉球大学を受験して英文科に合格しました。長嶺先生を中心に「沖縄空手道連盟」ができたのはその頃です。まだ、現役だった小林流の翁長良光さんは高校から比嘉祐直先生の道場に通っていました。僕はそれを羨ましく思っていました。彼は腕っぷしが強い上に、ピアノが上手で音楽の才能もありました。

 当時、米留制度があったので、沖縄のお国自慢と言えば「三味線」か「踊り」、「空手」。私は「それなら空手がいいだろう」と考え、大学1年の後半に空手クラブに入りました。各道場で練習している人たちが集まりました。翁長良光さんや宮城篤正さんが先輩格で小林流を教えていました。そして、もう一人は金城昭夫さんでした。金城さんは大里で中国拳法をやっている方で剛柔流関係を教えていました。商学部の先輩、島袋常敬さんも空手を教えていて彼が教えていたのは松林流空手だと後で知りました。

 その頃は力自慢の世界でしたので小柄な僕はとても大変でした。各流派の空手道場で本格的に習っている人たちが稽古に来ていたので型も順序もそれぞれの流派ごとの正式な空手でした。空手クラブで習った人は卒業後、その道場に再入門していました。実際、僕もアメリカから帰ってきて松林流に再入門しました。

米国留学と空手を通した文化交流

社会人生活から米国留学に進む

 琉球大学を卒業してもう少し英語を磨こうと考え、軍関係の「アイランド建材会社」に勤めました。そこは嘉手納のFire Station(消防署)関係の仕事をしていたので日常的にアメリカ人との付き合いがありました。僕はタイプもできたのでタイピストと通訳を兼業しました。

 ところがアルバイトをやっているうちにアメリカ人の態度が横柄に感じました。これでは仕事は続かないと思っている5月頃に教生実習をさせてもらった上山中学の校長先生がわざわざ自宅まで訪ねて来て「教員の空きがあるけどどうだろう?」と声をかけていただきました。私は5月から上山中学に勤務しました。1961年、2学期から1年生を担当しました。3年間、その学校で勤めて1964年に米留学試験に合格したので上山中学を辞めて米国留学をしました。

 米国では私は学生寮に住んでいました。僕らは沖縄出身だから「空手は知っているか」と尋ねられたので「少し、学生時代にやっていた」と答えると「教えてくれ」とお願いされました。空手を教えることで自分の運動にもなるのでその申し出を受けることにしました。最初の教え子が僕の助手になってセミナーも開きました。みんながお金を出してくれたおかげで留学生活はとても潤沢でした。

空手を通じての文化交流

 1950年ごろから日本の松濤館流が海外に進出していました。アメリカでも松濤館流を習っている人もいてみんな名前は聞いていました。ですから「空手」という言葉をアメリカ人は知っていました。アメリカ人でも構わずに一緒に稽古をしていました。

 その頃、UCLA(カリフォルニア大学)に1年間在籍していた高宮城繁さんが2年目になると僕がいたインディアナ大学に移って来ました。その時、お国自慢のインターナショナルハウスがあって、各国のお国自慢を披露しました。彼は上地流で僕は松林流でしたが私は彼と一緒に空手をやることになり、組手をやりました。夢中だったので気がつくと組手の最中に彼は奥歯を折られていました。ところが、見ていた人は拍手喝采でした。おそらく迫力があったのだと思います。その後、インディアナ大学では空手で有名になっていました。

長嶺道場への入門

「教員」と「空手」の二刀流生活

 1964年に米国留学に行き、1966年に修士号を取って帰ってきました。2学期から那覇商業の教員になりました。長嶺道場が近くにあることを知ったので那覇商業に通勤しながら長嶺道場へ熱心に通いました。バスも無かったので拾い車をして朝の6時頃に与那原を出て道場に到着し、7時半まで稽古をやってから歩いて那覇商業に通う生活を2、3年続けました。

 空手を習うことに僕の両親は反対していました。「スポーツは沢山あるのになぜ空手なのか?」と言っていました。当時、空手に対する偏見があると感じていました。今でも僕の妻は「何で空手をやっているの?」と思っています。

 空手への偏見は根強いですよね。それには理由がありました。例えば何かの喧嘩騒ぎがありました。喧嘩沙汰になっているのは、どこかの流派の暴れ者でした。彼らが弱い者いじめをしたり、あるいは飲み屋で騒いだりすると、周囲からは「教養もない連中。野蛮人」と見られて「大卒者が何で空手をやっているの?」と思われていました。

 でも、長嶺先生にお会いした時には人格者だと思いました。喧嘩の話は全然しないし、「自分なりに頑張りなさい」と仰っていました。ところが長嶺道場に入ると先輩方はやっぱり野蛮でした。でも、当時は空手家にとってそれが自慢だったのです。おかげで僕は鍛えられましたが僕らがやっている頃はよく思われていませんでした。空手は文化的なものだとは見られていませんでした。

長嶺将真先生と松林流

 当時の長嶺道場では長嶺先生自身は温厚な人だけど習っている人の中には力自慢の人がいました。その中で三羽烏と言われていたのが有名な人たちで「喜舎場朝啓」「田場兼靖」「島正雄」でした。その人たちのおかげで松林流は有名になりました。その後、「喜舎場塾」「松源流」「島派」松林流三羽烏が長嶺道場から独立しました。型や空手の中身は同じですが「こなし方」が違いました。「こなし方の違い」とは「護身術として使えるかどうか」ということです。

 型の美しさとかはほとんど気にせずに空手はやり方によって「健康空手」にも「武術空手」にもなります。やり方次第だというのはやりながら分かりました。他の国の武術と比較しながら沖縄空手を習っている人たちの方が沖縄空手に対する理解や求め方は強かったです。その頃から僕らも目覚めて「相当、勉強しないといかん」と気を引き締めた記憶があります。

私学の統合問題と新たな空手団体

沖縄の日本復帰に伴う私学の統合問題

 僕はアメリカから帰って1967年に那覇商業高校に赴任しました。1968年、現在の球陽高校がある場所に「国際大学」の短期大学がありました。僕はその国際大学に採用されました。その国際大学はとても貧弱な施設でしたが学ぶ人たちはみんな真剣でした。

 沖縄が日本復帰することが決まって沖縄の私立大学は文部省から認められないと言われました。日本復帰は1972年だから1971年の頃の話です。それから沖縄の私学は大騒ぎになりました。日本復帰するので基準を日本本土に合せることになりました。私学の場合は大学を潰すか、あるいは解体するかしかありません。そこで、元早稲田大学総長の大濱信泉先生が私学を統合して大学にするという内容の「大濱私案」を打ち出しました。国際大学の教授会は「大濱私案」を採用し準備を進めていました。教員数や施設が足りないので沖縄大学との合併話が持ちあがりました。


 ところが、当時の沖縄大学は「嘉数学園」が運営していて学生と学園が衝突して大変だった時期です。
 沖縄大学、国際大学それぞれの学生登録を同等に扱う事になりました。ところが、沖縄大学が合併に反対しました。半年後に迫っていたあの時のショックはいまだに忘れられません。沖縄大学は合併から降りました。沖縄大学との学園騒動で呆れている先生方が沢山いました。その人たちは国際大学のアイデアに乗って良いと言って賛成多数になり、教授陣が揃ったのでやっと認められました。

 現在の沖縄国際大学の場所は全部墓地でした。安里源秀先生が学長になられて今の沖国大の場所に決まりました。墓地を移動させる方法について話し合いがあって相当揉めたけれどもそれも上手く治まりました。今、振り返って考えると大変な時代だったと思い出があります。僕個人としては空手関係のトラブルよりも私学の成り立ちで「日本復帰」が何を意味するのかよく分かりました。

 空手協会が「海邦国体」をきっかけに大和派と沖縄派の二つに分かれました。歴史的に同じパターンが続いていると実感しました。これが沖縄の宿命と思うぐらい如実になっていますね。

海邦国体を契機に新たな空手団体が出来る

 1987年に海邦国体がありました。その前に沖縄の空手界は「全沖縄空手道連盟」として結成していました。海邦国体の時、沖縄県体育協会のもとに「全日本空手道連盟」に入らない限り沖縄の空手は海邦国体に出場できない旨の通知がありました。

 長嶺先生たちも「沖縄独自でやればいいんじゃないか」と仰っていました。ところが国としては47都道府県の1県だけが出られない。しかも、それが空手発祥の地である沖縄というのはどう考えても許されないしおかしいと思います。制度上、全日本空手道連盟の傘下に入らない限り出場できません。

 そこで、いろいろな話し合いが当時の長老格の人たち(長嶺先生、八木先生、上地先生たち)の間で行われました。長嶺先生は不承不承、その時は大変だったと思うけど「沖縄県空手道連盟」という別の団体を作りました。それで海邦国体に出場できるようになりました。「全沖縄空手道連盟」と「沖縄県空手道連盟」はそれ以来、今現在も分かれています。肝心な長嶺先生がなびくというよりも立場上、そうせざるを得なかったと思います。ある意味「火中の栗を拾った人」でした。

 長嶺先生が中心になって理念もしっかりした「全沖縄空手道連盟」を作り、競技空手はなじまないと言って頑張っていました。僕らが道場に通っている時には絶対に組手はさせませんでした。組み手をやっているのを見ると「絶対だめだ」と怒鳴られました。そういう先生が競技空手を認めたので上地流や周辺の友だちから「イッター 先生ヤー」(お前たちの先生は何だ!)と批難されました。

 長嶺先生たちが賛成したのは型の審査でも「沖縄は沖縄の型でやっているからそれを認めてくれるなら構わないだろう」との考えからでした。本土の空手は「指定形」というのがあって、きれいな指定形を作っているので型の競技は本土側が進んでいました。「沖縄の空手家は急には『指定形』をできないので、沖縄の型を認めてほしい」と伝えたところ、交渉している間は認めてくれました。

 しかし、鳥取国体の時に比嘉祐直先生の門弟が「型」で出場すると「指定形」に合わないとの理由で、すぐに失格になりました。その時の比嘉先生の怒りようは凄かったです。

 結局は若手が国体に出られないからどちらも立場上、大変でした。結果的に僕自身がどう思うかというと大変だったけれども喜友名諒選手のようにオリンピックに出場できたのは「沖縄県空手道連盟」ができたからだと思います。その栄誉を考えるとあの時の決断はやはり仕方がなかったことだと思います。ところが、沖縄空手が好きな人は「仕方がないで済むか」という思いがあります。「実質を取るか」、「世界的な栄誉を取るか」ということですから沖縄はそういう立場に置かれているんだなと思いますね。

「沖縄空手」の継承とさらなる研究

「沖縄空手」を残すための事典づくりに関わる

 高宮城先生が「このような『沖縄空手古武道事典』を作ろうと考えている」と言ってきたので僕もその提案に賛同しました。彼があらすじやチャプターを作りました。当時は「全沖縄空手道連盟」と「沖縄県空手道連盟」がまだ対立していましたが、彼は「それは組織の問題でしょうがないから空手としてどういうものだったのかをお互いで残そう」と言ったので高宮城先生の案に僕はすぐ乗りました。それが『沖縄空手古武道事典』を作る動機でした。その後は大変でした。「空手はこれまでのものをもっと研究するべきだ」と昔の人たちの評伝を全部チェックしながら「人物編」と「技編」を作りました。

 それに携わって分かったことは戦後、空手を続けていた人たちが集まって、稽古をやっていたことです。また、現在の長老格にインタビューをして色んな人たちから空手を習っていたことがわかりました。長嶺先生自身も宮城長順先生とも稽古していて、それから「泊手」もやっている。自分の道場を作り、責任者になって自分なりにまとめたものが今の「松林流」となるわけです。先人たちから習った人が自分の力量でまとめたのが戦後の沖縄空手です。

 沖縄空手はそれぞれ習った型(形)が順当だと自認していますし、世間もそれを認めているからそれにはもう触れられません。しかし、このような事典では書けるわけです。このようになっているとそれは批判ではなくて比較資料になるわけです。ましてやこれからはそのような事典がなければ基準が無くなるので大変です。これが良かろうが悪かろうが基準にはなります。

これからの沖縄空手界に望むこと

 個人レベルで組織と離れて今、自分たちがやっているものより良くなる。補完できるかを確かめてほしいです。確かめてほしいものは沖縄空手界ではあまり話題にならない「柔の空手」。揶揄されたにしても踊りのような動き方で護身術として優れているかもしれないということを知ってほしいです。

 各流派からの有志だけでもいいから体験して自分たちの空手との比較をしてほしいという希望があります。空手というのは素早くてダイナミックなものだという固定観念があります。人間の体の未知な部分。剛でもできる。剛柔でもできる。柔でもできる。あるいは別の方法でできる可能性もある。人間の体にはまだ発見してない部分があるわけです。

 スポーツ空手はエンターテインメントですから見せる空手で構わない。武術は自分の身を守るのが先で、「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」とは自分を守るための身の使い方であって相手をやっつけるのは二の次です。結果的にはそうなるかもしれないけどいつまでも自分の体の可能性を求めていくようにするには自分の体に「柔の要素」を持たないと限界があると思います。武術は人間相手であって、物が相手ではありません。無機物でもないけれど動物でもありません。人間には神経組織があるからもっと研究すべきだと思います。特に沖縄空手は鍛えることが主になっているので鍛える方法はすごく発達しています。鍛えた体を武術的に使いこなすという武術の「術」のレベルがあまり研究されていない感じがします。人体を相対的に考えた武術の研究は必要でしょうね。その意味でこういう記録を残すのは将来、誰かのためになると思います。

RELATED関連記事

在本土沖縄県学生会の「祖国復帰運動」

  • 1945(昭和20)年生まれ
  • 小渡 律子さん(おど りつこ)

戦後宮古の社会教育に携わって

  • 1942(昭和17)年生まれ
  • 砂川 幸夫さん(すなかわ ゆきお)