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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

宮古をみつめ 歩いた人生

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  • 1935(昭和10)年生まれ
  • 仲宗根 將二さん(なかそね まさじ)

TIMELINE関連年表

1935
平良町西里(現在の宮古島市平良西里=通称イリザト)に生まれる。
1944
鹿児島県姶良郡加治木町(現在の姶良市)に疎開する。
1956
鹿児島県立鶴丸高等学校卒業後、3か月の予定で宮古島に一時帰郷。
記者時代
宮古毎日新聞に1957年10月から2年間、日刊南沖縄新聞に1959年12月から4年半務める。
1964
宮古教職員会で機関紙編集を中心に情宣活動に従事する。
1974
平良市教育委員会で市史編纂、文化財保護、市民総合文化祭などに携わる。
1975
宮古郷土史研究会設立。(4月)
1979
平良市歴史民俗資料館(後の平良市総合博物館)が開館。
1990
平良市総合博物館2代目館長に就任(1990年4月~1994年7月)
2006
宮古島市史編纂委員会委員長に就任。

STORY証言

証言者略歴

 元平良市総合博物館館長。「みやこ9条の会」共同代表。
 国民学校4年生から高校卒業まで、疎開先の鹿児島県(加治木町6年、鹿児島市6年)で生活する。宮古島に帰郷後は宮古島の郷土史や文化財の研究に長年携わり、地域史編纂や文化財保護活動に尽力する。著書「宮古風土記」「近代宮古の人と石碑(いしぶみ)」「沖縄県・宮古史料の旅」共著「平良市史全1巻~10巻」「宮古毎日新聞五十年史」「宮古行政史」「みやこの歴史」「沖縄県宮古医療史」「宮古農民弾圧事件50年記念誌」など多数。
 1995年 仲原善忠賞、2010年 東恩納寛惇賞を受賞。

幼少の頃

 「カンカカリャ」の祖母について

 私の祖母は那覇の方言でいうと「ユタ」(職業的霊能者)で宮古の方言では「カンカカリャ」と言います。祖母は「カンカカリャ」で平良では評判が良かったそうです。家では祖母は方言ばかり話して、父は共通語しか使いませんでした。
 ところが、祖母のところには平良の街の有名人の奥様方が毎朝のように来ていました。毎朝5、6名のオバアちゃんたちがやってきておしゃべりをして、お茶を飲んで世の中が動き出す頃に帰っていきました。おそらく祖母が宮古中を歩いて神願いをしていたのでしょう。今で言えば「情報通」です。いろいろなところの話題を聞いて来ていたので祖母が話すその話題が楽しかったのかもしれません。

 戦前、平良の街に百貨店が 2つありました。「山田百貨店」と「やまこ百貨店」です。その「やまこ百貨店」の奥様(おばあちゃん)も来ていました。やまこのご主人は師範学校を出て教員もしていたそうですがおばあちゃんは明治の生まれで小学校も出ていませんでした。那覇の方言しか使わない人が毎朝、祖母の所へ遊びにいらっしゃる。「やまこ」のおばあちゃんは那覇の方言しか使わないし、うちの祖母は平良の方言しか使いません。それなのにお互い笑いながら喋っている。つまり、喋れないけれどもお互いの言葉を聞くことはできる。それだけに楽しかったと思います。

「国民学校」の教育

 私が6歳のころ「尋常小学校」が無くなって「国民学校」ができました。私どもは国民学校の最初の1年生で国民学校は6年間しか存在しませんでした。「尋常小学校」と「国民学校」との違い。これは大事なことです。正確には「尋常高等小学校」と言ってそれが昭和16年3月になくなって4月に「国民学校」に変わりました。

 明治以来の小学校は当時の「大日本帝国憲法」と「教育勅語」によって教育を進められていました。「教育勅語」によって進められるとは言っても「教育勅語」を式典の時に校長が読み上げるだけでした。ところが、国民学校の3年生になると教育勅語を暗記させられ、暗記していないと教壇の前に立たされました。これがごく当たり前でした。

 内容は変わらないのにどう違うのか?教育勅語には「夫婦仲良く」や「兄弟仲良く」など、確かにいい徳目もあります。ところが、最後のところにきて「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と書かれています。「一旦緩急あれば」というのは「いざという時には」という意味で「義勇公に奉ずる」は「公のために働け」という意味です。「公のために働け」というのは「“大きくなったら天皇のために命をかけて戦え”という意味です。」と教えるわけです。教育勅語の精神を徹底的に教え込む。これが国民学校の世界です。

 また、「分列行進」という集団で運動場を行き来する訓練があります。これがまさに尋常小学校時代にはなかった国民学校の世界です。つまり天皇のために命をかけて戦うであろう軍国少年を育てるための教育が国民学校だったわけです。これが全国的にありました。

疎開

縁故疎開で鹿児島へ

 昭和19年の夏、国民学校初等科4年生のころに学童疎開が始まりました。疎開には「学童疎開」「縁故疎開」「一般集団疎開」の3種類がありました。学童疎開は奄美諸島以南の全ての地域に昭和19年3月に閣議決定されました。「閣議決定」ですから「国の方針」です。沖縄県は10万人の県外疎開が決まったはずです。疎開先は九州と台湾でした。どこの学校も学童疎開することを希望しないので警察や学校は総力を挙げて強制しました。私達は学童疎開を希望したら、疎開先が宮崎だったので結局は鹿児島の叔母の家に縁故疎開しました。私と6年生の兄と叔母5名で鹿児島に疎開しました。

疎開先での生活

 鹿児島の国民学校は平一校(平良第一小学校)と変わりませんでした。それどころか平一校にはないものが1つありました。驚いたことに長さが30㎝ぐらいで幅が5㎝ぐらいの「方言札」という木の札がありました。赤色のペンキが塗ってあって墨で黒々と「方言札」と書いてありました。私は窓際に一つだけぶら下げられている方言札を見て、意味がわからなかったので「あれは何か?」と尋ねました。

 当時は全国的に「標準語励行運動」が行われていました。標準語励行運動は沖縄だけではなく鹿児島でも盛んでした。「方言札」を鹿児島で初めて知って驚きました。疎開先は鹿児島の加治木町でした。疎開先では宮古にいる時と基本的には同じでした。教育勅語を暗記させられ、何も見ないで言わないといけません。しくじると罰されることは変わりませんでした。

戦後の鹿児島での生活

叔父の突然の来訪

 鹿児島には12年いました。4年生の時に鹿児島に疎開して、5年生の時に戦争が終わりました。6年生を卒業したあと国民学校はなくなりました。5年生の時に戦争が終わって10月の末に戦争が8月で終わったので叔父が密航して訪ねてきました。叔父が漁船に乗って疎開先まで訪ねてきたことに僕らは驚きました。戦争が終わってまだ二ヶ月です。沖縄はアメリカの全面占領下にあったのでそんなに自由に渡航できるなんて誰も思っていませんでした。訪ねてきた叔父は結局、そのまま宮古へ帰りませんでした。「お前らだけ宮古に帰ってもしょうがないよ。平良の街は焼け野原になっているし、今から復興するのも大変だ。」と叔父が言いました。また、「ここで学校を卒業したらどうだ。」と言うので僕らは鹿児島に残ったわけです。

「世替わり」を実感する

 国民学校を卒業すると同時に新制中学の1年生になりました。2学期に初めて日本国憲法を習いました。1学期の終わり頃か2学期に入った頃だったと思います。国民学校の5、6年生の時は同じ担任の先生でした。ある日、教育勅語を暗記させられて毎日のように生徒を罰していた担任が中学校を訪ねてきました。教壇に立たずに教壇の前に立ち、僕らに最敬礼をして「諸君に戦争中に教えたことは全て間違っていました。誠に申し訳ないことをしました。」と深々と頭を下げたのです。

 あんなに厳しく罰していた先生が僕らに頭を下げました。「世の中が変わったんだ。」とその時、初めて思いました。それまでは「残念ながら戦争は負けたんだ。」と思うぐらいで負けたからどうということは感じませんでした。

 なぜかというと、国民学校の5年生の終わり頃か、6年の初め頃だったと思います。師範学校の生徒たちが国民学校を訪ねてきてアンケートをとりました。そのうちの一つだけいまだによく記憶しています。「世界で一番偉い人は誰だと思いますか?」という項目でした。生徒はみんな「いったい誰が一番偉いのだろうか?」とひそひそと話し始めました。

 あの頃、アメリカ大統領はルーズベルト。イギリスの首相はチャーチル。中国の一番偉い人は蒋介石。
 そして日本を占領した連合軍の最高司令官はマッカーサーでした。だから小声で生徒たちがみんな言うわけですよ。一番が偉いのはルーズベルトかチャーチルかマッカーサーか。私は「マッカーサー」と書きました。いまだによく覚えています。

 そうしたら、その次の週に全体集会がありました。狭い校庭に並ばされて、校長が目の色を変えて、顔色を真っ赤にして大声で怒りだしました。「諸君はいつから劣等国民になったか!」とこっぴどく叱られました。「日本は“時、利あらずして”戦争には負けてしまった。だからといって世の中が変わったわけではない。世界で一番偉い人は今も昔も変わらない天皇陛下さまだ。」僕らは戦後何ヶ月後かに校長先生に怒鳴られて、叱られて、聞かされて「やっぱり偉いのは天皇なのか。天皇のために命をかけて働き、戦え。とそう教えられたこと自体は間違っていなかったのか。」と思いました。

 それなのに中学に入るとすぐに昔の担任が訪ねてきて「みんな間違っていました。」と深々と頭を下げられたので「世の中は完全に変わった。」とその時に実感しました。

中学時代は新聞配達少年

 私は中学校に入学した時期に、兄は工業学校に通っていて新聞配達をしていました。僕はいつも兄の後をついて歩いていたので兄が忙しくなったので、僕一人で新聞配達をやることになりました。新聞が朝5時の一番列車で新聞が送られてくると販売店の親父さんが駅で新聞を配達担当の少年に配りました。私も50部ほど受け取って配達しながら家に帰り、朝食を食べてから学校に行きました。

 たしか週に一回、文芸欄がありました。短歌や俳句が毎週載りました。僕はそれを真面目に読みました。3年間、新聞を配りました。その間に軍国少年だった僕が「いつか大人になったら新聞記者になろう。」といつの間にか思うようになりました。

奄美の高校生との交流

 1951年9月、アメリカのサンフランシスコで対日講和条約が開かれました。講和発効の翌年でしたか1952年か1953年に奄美大島の高等学校の生徒が5名だったと覚えています。私の通っていた定時制の高校に奄美の高校生らが来て奄美返還運動を訴えました。本来、奄美大島は鹿児島県です。鹿児島県なのに沖縄県と一緒にアメリカの占領下に置かれていました。

 「母県(鹿児島県)の皆さんも一緒になって、奄美の返還運動をしてほしい。」と呼びかけがありました。僕らは「それは大変だ。」と同意して奄美の復帰運動に大いに協力しました。1960年に沖縄県祖国復帰協議会ができます。それ以前に奄美諸島は日本復帰しました。復帰と同時に奄美の高校生が私の通う定時制の高校に編入してきました。

鹿児島から故郷へ

12年ぶりに宮古へ帰郷

 1956年(昭和31年)4月に3ヶ月の予定で宮古に帰りました。「日本国民 仲宗根將二3ヶ月 南西諸島を旅行す」という証明書でした。その証明書が旅券(パスポート)でした。体調があまり良くなかったので保健所に行くと「何でもない。」と言われたけれど、奥平恵寛先生の所で精密検査を受けると「初期の結核だよ。」と言われました。当時は結核の特効薬が日本にはなくてアメリカから取り寄せるしかありませんでした。「ストレプトマイシン」略して「ストマイ」と言われる薬でした。それを1週間に1回のペースで3カ月間、ストマイをおしりに打って結核は治りました。「治ったからと言って安心しちゃだめだぞ。いつ、ぶり返すか分からんのだから。」と先生に言われて、1年間、宮古で療養することになりました。

宮古のことばを学びなおす

 親戚の家では療養のため寝たり起きたりしていました。私は宮古の方言を聞くことさえできなくなっていることに気づき、落ち込みました。宮古方言が聞きとれないことが一番つらかったので宮古の方言が知りたくなりました。北小学校の正門の左手に宮古図書館がありました。当時の館長が稲村賢敷先生でした。館長1人で職員1人。あわせて2人しか職員がいませんでした。図書館には焼け残った本が少しあるくらいでした。それでも宮古関係の本が結構あったので、方言をいかに覚えようかと方言ノートを5冊も作りました。とにかく、宮古を知るために相当苦労しました。

新聞記者の道へ

新聞記者になるきっかけ

 当時、宮古には新聞社が3社ありました。『宮古朝日新聞』『宮古毎日新聞』『南海タイムス』です。宮古毎日新聞に「記者採用 履歴書持参 面談」という小さな広告が出ているのを見て、午後に履歴書を持って行きました。そしたら、編集局長から「明日までに原稿用紙で3、4枚もの作文を書いてきなさい。」と言われました。私は図書館に通っていろいろと本などを読んでいたので「宮古は歌の国 八重山も歌の国」という題で作文を書きました。これまでなぜ、宮古が「武の国」と言われてきたかということも書きました。70年前です。

宮古毎日新聞記者時代

 編集局次長の瀬名波さんに連れられて今の旧平良市役所の前の通りに行きました。その通りは琉球政府の出先機関や官公庁が全て両側に並んでいました。その通りを瀬名波さんに1軒1軒挨拶回りをして、そこの「長」に紹介されたので驚きました。瀬名波さんは戦前から新聞記者だったそうです。市長や町長、警察署長など行く先々の長と対等に話をしていました。相手も丁寧に扱ってくれて僕はお茶を1杯ごちそうになりました。 

 警察の出先機関に「水上署」というのがあって那覇から船が入るたびに臨検(船舶の立ち入り検査)に行きました。臨検に行く時、水上署の警官から言われました。「船が入ると聞いたらまず水上署に行って、巡査と一緒に船に乗ると取材が楽だよ。」と言われました。

 1日目にぐるっと回って、最後は宮古琉米文化会館(後の宮古市立図書館)でした。そこの館長が後の宮古毎日新聞の社長になる山内朝保さんでした。その時、私が新聞記者の心得として最初に習ったことがあります。「歩いて取材をしなさい。電話で取材をしては失礼だぞ。」と山内さんに教えられました。

 新聞社に帰ったら瀬名波さんが夏でも冬でも同じステテコ一丁、上は丸首シャツ一つで原稿を書いていて驚きました。行く先々で僕を紹介して世間話ばかりしていると思っていましたが、それは全部取材でした。

 翌日には行く先々の記事が載っていました。その日のうちに校正の要領を教えられてその日から新聞記事の校正をしました。編集長の平良好児さんは記事の書き方を教えてくれなかったけれども「新聞取材は大きな記事は狙うな。宮古の読者は大きな記事を読まない。」と教えてくれました。1段見出しの小さな記事を新聞社では「ベタ記事」と言います。「そういうものだけ10も20も取ってきなさい。大きなものはいらない。」とおっしゃいました。

 宮古の人は新聞を3度読むということを編集局長に教わりました。記事の書き方を教わらなかったけれど校正で知りました。記事は修飾語が全部削られて骨ばかり。だけど、意味はちゃんと通じるわけですよ。記事としては役に立っている。だから修飾語は何もない「なるほど。これが新聞の書き方だ。」と思いました。そのようなわけで新聞社から新聞記者としては勿論、人としての生き方を学んだと思います。

教職員会時代と日本復帰運動

教職員会時代

 今の沖教組の宮古支部は当時、宮古教職員会といいました。宮古教職員会の情宣部委員会の責任者から「仲宗根君、教職員会の機関紙担当の後任に来てくれないか。」と誘われて、新聞記者を辞めて教職員会に移りました。

 機関紙の編集をしながら教職員会の情宣活動をしました。当時「教公二法」といって教職員の政治活動や選挙活動を取り締まる法律ができようとしていました。その政治活動には「祖国復帰運動」も含まれます。1964年の頃です。復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)ができたのが1960年です。教公二法は教職員会の復帰運動を禁止させるための米軍の布令でしたので「新しい法律が生まれようとしている。この法律がどんなに危険なものか。」という解説を作って全ての学校に配りました。

 教職員会の会員は宮古中の小学校、中学校、高等学校の職員が会員で約1000名いました。ですから、全ての学校を訪ねなければ機関紙の編集はできません。10年間、教職員会にいて、すべての学校に行きました。1000名の先生方とみんな顔見知りです。そういう先生方を訪ねて昔話を意識的に聞きました。『あの時はどうでしたか?」と徹頭徹尾、聞き歩きしました。

宮古での日本復帰運動

 1960年、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)ができます。1960年4月28日に宮古と八重山に復帰協の連合支部ができました。復帰協がスタートしました。宮古は北小学校で郡民総決起大会をして校庭でデモ行進をやりました。

 2年目の1961年から街頭デモに移るようになります。街頭デモだけでも終わらずに復帰行進もやりました。保良公民館を出発点に城辺小学校、西城小学校、鏡原小学校と3つの学校の近くの県道を通って、復帰行進をしました。その校区内を「網の目行進」と言って集落内の主な道路をデモ行進して回りました。そして、県道をずっと城辺街道から北小に向かって北小の郡民総決起大会が終わると街頭デモに出ます。それを復帰の年の1972年までやりました。1963年からは海上大会もやりました。

 沖縄が日本へ復帰した後に「復帰協をどうするか?」という問題が出てきました。復帰協を「続ける」か「続けない」かが話題になりました。「米軍基地がある限り復帰協を残すべきだ。」と私はそういう立場でした。宮古支部は大勢として復帰協を存続すべきだと考えていました。

 ところが、官公労宮古支部、全逓宮古支部、自治労宮古支部など大勢的には解散に賛成だったのです。復帰後、沖縄教職員会は沖教組の宮古支部となっていて、そういう状況だけに沖教組は解散には渋っていたようですけれども大勢的に解散だったのです。その影響を受けてしまい宮古での大勢は「存続」だったのに解散に踏み切らざるを得なかったのです。

 沖縄が日本国憲法の下に帰ることが復帰運動の大きな狙いでしたから日本国憲法はまさに「反戦平和」です。「二度と武器を持たない。戦争のための陸海空軍を保持しない。全て外交交渉によって解決する。」というのが日本国憲法です。そういう中で私は復帰運動の一環として「みやこ九条の会」をつくることに参加しました。そういう意味では復帰運動の延長線上に「みやこ九条の会」があると思っています。

市史編纂事業

教育委員会に移り市史編纂事業がスタート

 教職員会で全ての学校を訪ねていろいろと聞いて歩いていたので、それが評価されたらしくて今度は当時の教育長から「文化財行政を始めるから教育委員会に来て文化財を見てくれないか。」と言われました。この話は1974年1月のことです。全県的に全ての市町村が「文化財を何とかしよう。」と動き始めている頃です。平良市もその動きが始まっていました。

 辞令が出て1974年4月15日に教育委員会に採用されました。前年に予算が組まれていた文化財保護条例を軌道に乗せて、そして新たに市史編纂を軌道にのせること。この2つの担当のつもりでしたが、そのほかにも予算が組まれていました。市民総合文化祭がはじまり、この3つを担当しました。

 史跡という史跡をあちらこちら歩いて回りました。新聞社に入る前から宮古の歴史をかなり勉強していました。その上、先輩方に取材を兼ねていろいろと聞いていたものですから近代史に関してはいろいろと分かるようになりました。とりわけ関心があった民衆運動に関して最も詳しくなりました。

 文化財調査の時はいろいろな旧家へ古文書調査に行きました。現在の市史の史料室には当時の平良の街なかの家譜系図です。その史料のコピーが大方あると思います。
 それからもっと大事なものは各小学校の「沿革誌」です。
 学校沿革誌は永久保存で持ち出し禁止だけどそのコピーが資料室にあります。それだけに貴重品です。
 文化財調査をしている時に「市がしかるべき施設を持ったらぜひ、寄託か寄贈をしてください。」と言いました。その史料を管理して市民に公開していくときにどうしても施設を作らないといけません。
 「おそらく、公文書館などをつくることになると思うので、その時はぜひ、協力してください。」と言って歩きました。文化財保護審議会では将来的に民俗資料館を作ることやさらに総合博物館を作ることが決定していました。市史編纂委員会では「将来的に市史編纂が終わったときには公文書館のような施設を作って集めた史料を管理し、そして市民に公開していこう。」と言っていました。

これからの市史編纂について思う事

 「歴史」というのは人間が作るものです。歴史は人間とともに進歩するものだ。いいですか。途中で止まると歴史にはなりません。いずれにしろ50年の間宮古島市史は本当にすばらしい史料が集まっています。将来宮古の資料館、文書館ができれば沖縄県内でも良い資料館ができると思います。それほど 宮古島市編纂事業に寄せられた市民の協力は素晴らしいです。市民の協力なしでは市史はできません。宮古島史は市民の市史を作っています。市民の文化財を守っているので市民に知らせる必要があると思います。

見つめてきた戦後の宮古の姿

 いろんな調査をしました。文化財調査は宮古全域が調査の対象でした。宮古中を歩いて回りましたがその中でいろいろな民俗調査をやりました。例えば、「狩俣のウヤガン(ウヤーン)」「池間のユークイ」などですね。「島尻 大神のウヤガン」などに行きました。最初に調査へ行った時は1974年です。「カメラや録音機を持ち込まないでください。神事はそのまま見てください。」と言われました。狩俣では録音も取らないし、写真も撮りませんでした。そのくらい地域の人たちが自分たちの伝統的な行事を守っておられる。僕はそれを素晴らしいと思ったし、当然だと思ったから賛同しました。土地の大事な行事は土地の人が決めることであって、傍(第三者)があれこれ言うことではないと思います。土地の条件に従うべきだと思っていましたから地域の伝統的行事をどうするかは地域の人々が決めることです。

 「研究者のために伝統行事があるわけじゃないから記録を残さなくても構わない。」と私はそう思っています。地域の伝統行事も市史編纂や文化財保護行政の中でたくさん接触はしましたが、神事に関してはほとんど記録としては留めていません。ただし、その場の雰囲気はよく見てきました。 私は歴史や民俗を専門的に習ったことはありません。ですが、仕事としてやったことが人並みに身についたらしくそんなわけで自分を「典型的な門前の小僧だな。」と思っています。

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