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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

米軍統治下の奄美人(あまみんちゅ)

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  • 1943(昭和18)年生まれ
  • 青山 惠昭さん(あおやま けいしょう)

TIMELINE関連年表

1943
台湾、基隆社寮島に生まれる。
1947
父が家族を迎えるため、台湾へ向かう。中国国民党政権による2・28事件に巻き込まれ、38歳で亡くなる。
1949
母親の出身地である国頭村辺士名に移住する。
1968
琉球立法院勤務。初の国政選挙に立候補した瀬長亀次郎氏の秘書を務める。
1972
日本復帰後、美術デザイン社を共同経営。以後、印刷、旅行業にも関わる。
1975
沖縄県立平和祈念資料館(旧館)設立時に「展示むすびのことば」をデザイン。
1995
李登輝総統、2・28事件の責任を認め、謝罪。(財団法人二二八事件記念基金会設立)
2016
台北高等行政法院(裁判所)惠先さんが2・28事件の犠牲者とする訴えを認め、台湾政府に損害賠償の支払い命令を行う。(外国人遺族初の補償判決)

STORY証言

証言者略歴

 台湾2・28事件真実を求める沖縄の会代表。㈶台湾協会、沖縄台湾会、日中友好協会等の会員。
辺士名高校卒業後1964年琉球大学美術工芸学科入学。1968年~72年琉球立法院勤務を経て、日本復帰後、美術デザイン社共同経営。印刷、旅行業に携わる傍ら美術教室主宰、平和美術展等で作品を発表。
元沖縄県平和祈念資料館運営協議会委員。

戦後、台湾から引き揚げ、辺士名へ

台湾 社寮島で生まれる

 1943年(昭和18年)5月27日台湾の基隆市社寮島(現 和平島)の生まれです。
 家族ですが、父親の惠先(えさき) 母親の美江(よしえ)と私の3名家族です。父親は鹿児島県与論島の生まれです。母親は国頭村字辺士名の生まれです。私の母は基隆の街中の裁縫店で働いていました。
私が生まれてからおよそ3~4ヵ月後に父親に2回目の徴兵令、赤札が来て、父親はベトナムへ派兵されました。

台湾からの引き揚げ

 基隆の社寮島も米軍の空襲を受けました。当時、沖縄の人たちは500人~600人住んでいましたが、何ヵ所かに疎開することになりました。そうこうするうちに日本の敗戦になり、私たち家族は引き揚げることになりました。父親はまだベトナムに居るものと思っていました。父親の生死は分かりませんでした。その後、引き揚げ船がなかなか来なくて沖縄諸島は米軍の占領支配下なので簡単には行けませんでした。ヤンバル(沖縄本島北部)出身の母親の祖父方は1946年8月か9月ごろ、引き揚げたのですけど、私と母親は待たされて、12月にようやく引き揚げました。その前に父親からハガキが来ました。ベトナムにいる父親から生存を知らせるハガキが来て、しばらく経つと、今度は鹿児島から「母と私に早く引き揚げてこい」と復員していた父親からハガキが来ました。私たちは鹿児島に行きたかったのですが、結局、長崎の佐世保浦頭の港に引き揚げました。佐世保から列車を乗り継いで、鹿児島まで辿り着いたものの父親は既に我々を迎えるため、台湾に向かっていました。当時は密輸船の往来で情報が入ってきていたので、「台湾で何か事件があったらしい」という噂を聞きましたが、私の母親と鹿児島の親戚は「もう少し待とうじゃないか」と言い、父が引き返してくるのを待ちましたが、結局、帰ってきませんでした。

 2ヵ年ちかく鹿児島で待ちました。当時 私は6歳で小学校に通う年齢になり、母親は私を小学校に入学させるために母親の実家がある沖縄に引き揚げることになりましたが、引き揚げようとしても当時は米軍によって北緯30度以南は行くことが出来ず、密航するほかありませんでした。トカラ列島の口之島までどうにか密航して、それから与論島まで船を乗り継いで、平安座島行きのポンポン船(小型船)でようやく密航することが出来て、国頭の東海岸の安田に辿りたどり着き、母親のふるさと辺士名にやっと辿り着きました。

父親の安否について

 小学校に入る直前、旧正月の頃、台湾の社寮島で暮らしていた山田のカミーおばさんが糸満から来ていました。当時、那覇から辺士名までのバスはないので、トラックやバスで乗り継いだのでしょう。父親の惠先がどうやら台湾で暴動事件に遭遇して、連行されて行方不明になり、殺された話が伝わってきている。「そのことを伝えに来た。」と祖父にカミーおばさんが話しました。

 翌朝、私は祖父の傍に座らされ、6歳だったので覚えています。最初、カミーおばさんは母親と面と向かい合って、笑顔で話していましたが、次第に表情が険しくなってきて、事件のあらましを母に話しました。母は呆気にとられた様子でした。ショックで泣きもせずに「ああ、そうね」と言い、とても信じられないようでした。そういう事があったのは今でも記憶に残っています。

 話があった翌日から母はずっと寝込んだままでした。親戚や同級生、友達が「どうやら美江の旦那は台湾でやられたらしいよ」「戦争で生きて帰ってきたのに可哀そうだね」と、続々見舞いに来ていました。その様子を見て、私は幼いながらも、大きな事件があったと感じたことを覚えています。私の同級生や友人たちはみんな父親を戦争に連れて行かれて、シベリア抑留から帰ってこないお父さんなどもいました。私だけが辛い思いをしているわけではなかったので、それほど大きな悲しみを感じてはいませんでした。

幼少期、辺士名での生活

辺士名での生活

 当時は大宜味村や東村、国頭村の3つの村を合わせて「辺土名市」。当時の国頭村辺士名は米軍の支配下で「辺土名市」でした。そして、名護には「田井等(たいら)市」があって、那覇の中心は基地になっていたので、住民の住む所は無く、那覇の住民はヤンバル等に住んでいました。当時、3つの村をあわせて3万人ほどいました。辺士名は名護の次に大きな街として栄えていました。例えば料亭は3、4軒あり、映画館も2軒ありました。3村から公務員や教師などが夜の遊び場に来ていました。映画や芝居が盛んで、沖縄芝居の有名な大宜見小太郎も来るほどの華やいだ街でした。鹿児島商人もいました。戦前の那覇は鹿児島の寄留商人によってだいぶ栄えていたようです。戦争中、辺士名に疎開する寄留商人もいました。

伯父のサバニに乗り 与論島へ

 小学校2年生の夏休みの話です。与論島から辺土名まで約50㎞離れています。与論島から辺戸岬間は25㎞、辺戸岬から辺士名間は25㎞ほど距離があり、与論島~辺士名間は合計50㎞ほど離れています。当時、サバニ(木造舟)は通常エンジン付きではありませんでした。父の兄である伯父は与論島で腕の立つ漁師だったらしく、与論島で初めてエンジン付きサバニを手に入れたそうです。あの当時は電話も何もないし、伯父は突然やって来ました。突然なので私の祖父も驚いていました。伯父さんは、あの頃はまだ若く、40歳を過ぎたくらいです。筋骨隆々で色が黒く、身体が大きい伯父さんでした。「僕のお父さんもこんな人だったのかな」と父を想像しながら伯父を見ていました。夏休みだから 1週間ほど与論で遊ぼうと伯父に誘われて、折角なので、祖父も一緒に行きました。祖父は当時63歳ぐらいでした。祖父も一緒にポンポン船(小型船)で、与論島まで行きました。与論島に行くのは初めてで、見るものや聞くもの全てが新鮮でした。与論島は空襲が少しあったくらいで、米軍が上陸していません。ただ、日本兵がスパイとして何名か潜んでいました。それらの被害があったようです。住民はほとんど殺されてはいません。被害にあったのは豚、鶏、ヤギ、牛、馬などの家畜でした。国頭は当時、牛や馬は日本兵に食べられて、鶏などもほとんどいませんでした。与論島に行くと鶏も豚もいるので、驚きました。与論島には1週間ぐらいいて、伯父から小豚2匹と小さい鶏を貰って帰りました。とても嬉しかったです。ところが、その後からはもう与論島には行けなくなりました。

在沖奄美出身者の苦難

奄美群島の日本復帰と在沖奄美出身者の苦難

 1953年8月にダレス国務長官は朝鮮に行った帰りにGHQ(連合国軍最高司令官総司部)に寄り、「奄美大島を返還することにしました。返還は半年後、12月25日です。」と発表しました。この発表はものすごいニュースになって、奄美では提灯行列するほどお祝いしました。「ダレス様、有難うございます」と大変なお祝いでした 。半年前の発表なので、その後、いろいろな準備がありました。

 ところが、返還後の12月29日、沖縄在住の奄美出身者7~8万人に対し、非琉球人の命令(正しくは15号)を発令しました。非琉球人は外国人登録をするように命令が出されて、それに従わない者は地元へ帰ること、奄美出身者は奄美へ帰るよう命令を出しました。当時、奄美は口之島から境界があり、日本本土には行けないので、奄美には約13万人いたようですが、仕事がありませんでした。

 奄美とは対照的に沖縄は米軍基地の建築ラッシュでした。大企業が一同に沖縄にやってきて、米軍基地建設を始めました。奄美は戦争中、地上戦が無かったので、奄美の人たちがみんな、基地建設作業に採用されました。それを請け負っていたのが、日本の大企業でした。その数万人の奄美出身者をタコ部屋同然の部屋に住まわせました。中心地は浦添の仲西、宮城、屋冨祖キャンプキンザー周辺と嘉手納でした。その中で、奄美の人たちは私の従兄弟、与論島の親戚も何名か来ていました。そういう状況で、奄美の人たちは沖縄に来ていましたが、「非琉球人」として差別されていました。与論のことを差別用語で「ユンヌー」と言いました。
 「アレ ユンヌーヤッサー 」(あの人は与論島の人だよ)子供ながらも差別用語だと感じていました。
奄美大島出身者は差別用語で「オオシマー」と言われました。「泥棒があると大島の人がやった」、「人殺しがあると大島の人だった」、「大島の女はみんなパンパンになっている」と言われました。「パンパン」とは売春婦のことです。沖縄市の吉原あたりで、非常に悪評がありました。とても差別の目で奄美の人は見られていました。「悲しいな」と私は子供ながらに思っていました。

奄美群島の日本復帰闘争から沖縄との関係

 奄美の人たちは 血のにじむような生死を彷徨う時代がありました。北緯30度線で本土との渡航を禁じられていて沖縄に行きたくてもなかなか行けない。基地建設の仕事で沖縄に行けたものの大変な目にあっていました。当時、米軍の命令で奄美の特産物である大島紬と黒糖が本土へ輸出できなくなっていました。がんじがらめ政策を米軍が行っていました。そのような時代で奄美の人たちは大変な目に追い込まれていました。
それで、奄美では激烈な復帰運動があり、日本復帰署名簿への中学生も含めた署名率が99.8%でした。

 また、中学生も含めて断食を行うなどちょっと考えられないような状況がありました。密航しないと東京まで伝わらないので密航者を各島から募って、およそ18名を出す方針で復帰協議会が出来ました。与論の人はサバニを漕いで、口之島まで行きました。口之島まで渡って、ここで全員集合するのは危険だと思い、鹿児島に集まることになりました。鹿児島で集まった11名の協議会の人たちは鹿児島の警察に捕まったのですが、この警察官のおばあちゃんが与論島の出身だという事で助けられました。奄美の復帰協議会のメンバーは東京で落ち合うことになって、GHQや様々な場所で奄美の日本復帰運動をしました。こういう熾烈な戦いをやったのが与論島の人々でした。

 ですから、アメリカと日本の権力者たちはこれが一番怖かったのです。奄美の復帰闘争が沖縄に飛び火しないかと暫くしてから日本にマッカーサーやアイゼンハワー政権の副大統領ニクソンも来ました。ロシア・中国・朝鮮など共産国家が迫るなか反共国家を作らないといけない。それが日本に復帰した第一の理由じゃないかと言われています。

 12月25日、奄美は日本復帰しました。今の平和通りの後ろの方に「那覇劇場」がありました。そこで、沖縄在住の奄美人たちが奄美の復帰祝勝会をやりました。ところが、「自分たちはどうなるのか」と心配で誰も嬉しく思っていません。退去命令で、強制送還されるのだろうかと心配で祝勝会のはずが、参加者とっては涙の集会になったそうです。

 奄美の復帰運動が飛び移らないように、米軍は沖縄を永久支配するための道具として考えていて、そのことは日本政府も了解していました。その延長線で、「沖縄人民党事件」があります。沖縄のストライキの中心人物奄美出身の林義巳さん。この人は米軍に捕まる前に密航して逃げたのです。基地建設の労働者がいた当時の1号線(今の国道58号線)でストライキを指導したのは奄美出身の林さんだでした。米軍はそれを知っていたのです。もう1人の中心人物、畠さんがいました。あちこちから隠れ廻っていました。暫くすると畠さんを瀬長亀次郎が匿っているらしいと噂されて瀬長さんを含めた沖縄人民党メンバーは逮捕投獄されました。

 奄美群島が日本復帰した12月25日からしばらくたって米軍は外国人登録命令を出し、従わない者を退島命令を出しました。強制送還された人全体で1,000名近くいました。その8割近くが奄美の人たち。750名ぐらいでしょうか。強制送還されました。奄美の人たちについてはさまざまな差別がありました。

 沖縄タイムスや琉球新報、沖縄市町村会長会などが声明まで出しました。新聞社は社説を出しました。

 米軍は組織的にも奄美人を追放したかった。アメリカの分断工作によって奄美と沖縄が分裂させられました。彼らの常套手段です。これまでの歴史について奄美の人たちは黙して語らず。沖縄から帰って行った奄美の人たちは黙して語らず。あまりにも酷い仕打ちを受けてきたので、子々孫々に知らせたくない。語ることはタブーでした。「そんな事があったんだ」と 沖縄の人たちは忘却しました。沖縄にいた奄美の人たちについての歴史的な文書は僅かしかありません。

 私は戦後80年に奄美大島に行きました。「おがみ山」という名瀬の町を見下ろす約100メートルの山があります。名瀬の港が全部見える「おがみ山」。そこが奄美の復帰闘争の拠点でした。5月15日に初めて登りました。1972年5月15日が沖縄の祖国復帰の日ですね。奄美の南海日日新聞の取材を受け、私はこう言いました。今年、沖縄は復帰53年。奄美は復帰72年になりますが、沖縄にいた数万の奄美人にとっては “解放の日”だでした。制度上の差別から解き放たれた日でもありました。沖縄にいた奄美の人にとっては“解放の日”でした。

 当時、沖縄では「核基地無条件返還せよ」と5.14復帰大会があり、私も参加しました。大雨の中で抗議した県民大会でした。それは当時、核基地つきでした。でも、奄美にとっては「くびき」からとき絶たれた「解放記念日」です。

在沖奄美出身者への制度的差別

 私が持っている外人登録証は1960年高校に入った時期のものです。非琉球人の扱いは納税以外は全て駄目です。税金だけ納めなさいということです。例えば高校生になると授業料免除などの貧困学生支援の制度があります。当時、生活保護は「救済」と言い、私の家も貧しかったので救済を受けようとしたのです。母親が倒れたので、働くために高校を退学しようと思って担任の先生に「高校どころじゃない」と相談しました。「家庭の事情で学校を辞める」と先生に言うと止められました。「区長さんには相談したのか?救済(生活保護)があるよ」と先生が言いました。私は先生に「ありがとうございます」と礼を言って、区長さんのところへ行き、救済を受けたいと相談しました。暫くして、区長から「お前は奄美人だから駄目らしいよ」と救済を断られ、高校の先生にも「ごめんね。君は資格ないよ」と言われました。奄美出身者は学校を卒業しても教員にもなれなかった。教員どころか公務員にもなれない。それから 大学1年生の時に日本の大学へ留学する国費受験を目指していました。国費留学の受験資格もなかったのです。

 融資が禁じられて、銀行からお金を借りることもできず、財産取得も出来なかったので、私の母はお金に苦しんだと思います。選挙権については本来、20歳からあるべきですが、25歳のときに選挙投票をしました。1968年、25歳のときに三大選挙がありました。三大選挙初の主席公選で屋良朝苗さんが当選してそれから立法院議員選挙。それから那覇市長選挙。その3つの選挙を三大選挙と言いました。奄美出身者に被選挙権は無く、立候補することができませんでした。

海上集会への参加

 1964年、東京オリンピックの年、琉球大学に入って間もない頃です。当時は学生運動がとても盛んで、安保闘争の影響が沖縄に及んで、沖縄の復帰、沖縄返還闘争がありました。東京も含めて全国的な沖縄返還運動ですよ。琉球大学も学生大会に1500人が集まるぐらいでした。4.28の祖国復帰大会与儀公園までデモ行進をしました。先頭が与儀公園で最後尾が首里の琉球大学です。それほどの長さでした。

 海上大会は沖縄本島の一番北の辺戸岬や宜名真や奥から船を出しました。これも米軍の圧力でほとんどの漁船を貸りることができませんでした。どうにか漁船を持つ漁師たちをかき集めてようやく乗れました。数少ない船でしたので乗れた人は僅かです。たき火を立てて与論島とたき火で呼応をしあう「かがり火大会」がありました。 27日の夜、これには150名が参加しました。

瀬長亀次郎の秘書時代

 1970年12月のころです。衆議院議員選挙のとき、初めて沖縄が国政選挙に参加できました。初めて瀬長亀次郎さんが立候補しました。12月まで立法院議員でしたが、亀次郎さんは立法議員を辞めて、立候補したので 私は秘書としてずっとついて回りました。亀次郎さんと一緒に飛行機に乗れたのです。宮古、八重山、奄美大島、東京にも行ったかな。一緒に飛行機に乗って行けたのが、良い思い出です。

平和祈念資料館「展示むすびのことば」に込めた思い

 私はよくデザインをやりました。文字のデザインもやりますが、文字のデザインにおいては通常、あれこれ検討したうえで書くのですが、この文字の場合、あれこれ検討して書いたものではありません。即興で、感情そのままに書きました。沖縄戦のことはいろいろ勉強していましたので、看板屋をやりながら、本土から来た方々の案内をしていたこともあります。ガラビ壕や轟の壕、喜屋武岬などを周って案内したこともあり、そのために、先生方から色々学んでいました。沖縄戦については勉強した経験があります。私の母方の親戚筋20名の名が平和の礎に刻印されています。
 そういった様々な沖縄戦のことを頭の中に色々蓄積されていたものを引き出して書こうと思いました。
 大きな模造紙に書きました。詩そのものは素晴らしく「これにふさわしく書けるのかな」と気持ちがちょっと焦っていました。何とか表現できないかなと思いつつ「そうだ」と閃いて、石川啄木を思い出しました。私は詩人ではないですが、啄木が好きでしたので、それを想起して、わざと段差をつけたのです。この面の段差によってそれぞれ一つの節ではなくて、あくまでも私なりの芸術的な感覚で書きました。真ん中に戦争を起こすのは云々。「あれが本筋かな」と思い、一番高いところに書いたのです。それでサーっと下がって、そこで、冷静に見つめ直して、最後はちょうど真ん中ぐらいで「これが戦争というものなんだ」と感じながら書きました。僕の個人的な考えでは沖縄が琉球王国の時代から日本(明治政府)に併合された以後の150年の歴史。「琉球処分」の発端は牡丹社事件ですよね。その辺、台湾のことも含めて、今日までの「アメリカ世からウチナー世」ということも少し考えました。ひとつの遊びというか、私なりの歴史が背景にありますから、そういった気持ちで「むすびのことば」を書きました。アメリカ世(アメリカの時代)でもない、ヤマト世(日本の時代)でもない「ウチナー世(沖縄の時代)」であってほしいです。

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