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POSTWOR OKINAWA
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okinawa1945

復帰運動世代の『琉球処分論』

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  • 1935(昭和10)年生まれ
  • 金城 正篤さん(きんじょう せいとく)

TIMELINE関連年表

1935
旧兼城村潮平(現糸満市)に生まれる。
1945
3月、米軍の攻撃が始まり潮平住民の多くが潮平権現壕に避難し、旧暦5月5日に米軍の捕虜になる。
1945
11月、各地の収容所にいた兼城村民の帰村が許可される。
1950
糸満高校に入学。台風のたびに校舎の屋根が吹き飛ばされカヤ刈に従事。
1955
国費留学生として千葉大学へ入学。日本史を専攻。
1962
再び国費生として京都大学大学院で学ぶ。学業の傍ら『沖縄県史』の編纂事業に関わる。(〜1967年)
1967
琉球大学で「東洋史学」専攻の教員となる。(~2000年3月)
1978
『琉球処分論』(沖縄タイムス社)発表
1989
『歴代宝案』編集事業始まる。 (2025年現在、琉球大学名誉教授 歴代宝案編集委員)
2000
沖縄大学の特任教授となり、「中琉交流史」の講義を開設。(~2007年3月)

STORY証言

証言者略歴

 琉球大学名誉教授。
 千葉大学、京都大学大学院を経て琉球大学の教員となり、研究者・教育者の道を歩む。著書に『琉球処分論』、『「沖縄学」の父 伊波普猷』(共著)、『牧志恩河一件 琉球王国末期の疑獄事件』等。
1978年伊波普猷賞、2013年東恩納寛惇賞受賞。現在、地元潮平の字誌を執筆中。

幼少の暮らしと戦争体験

幼少期 潮平での暮らし

 少年時代はほとんど潮平にある母の実家で過ごしました。幼少期はトンボ釣りやセミ取りが唯一の楽しみでした。ゴザや畳に使われる「ムシロ」、その原料になるものを「イグサ」と言っていましたけど、潮平の田んぼにはイグサや稲や米畑では色々な野菜を作ったり、イモも栽培したり、子ども時代は畑仕事で一生懸命働きました。

沖縄戦の記憶

 1941年(昭和16年)、私は兼城尋常小学校(国民学校)に入学しました。太平洋戦争が始まり、初戦の勝利で子どもたちも提灯行列に参加して、歓声を上げた記憶があります。沖縄守備軍第32軍が編成、配置され、僕らの小学校も軍の兵舎として接収されて、それ以後、学校での勉強はできなくなりました。阿波根にある昔は「ムラヤー(村屋)」と言っていた公民館で授業を受けました。

 現在の潮平中学校がある場所は小高い丘で沖縄の方言で「クチャ」と言われる土でできた森でした。そこに日本軍が海に向けて米軍の軍艦を狙う軍事施設防空壕を作りました。その後、壕掘りに潮平の子どもたちも強制動員され、掘った土を外へ運び出しました。それから、壕が崩壊しないように防護柵を作るために近所の森にある松の木を日本軍が切り取った後、私たちは工事しやすいように一生懸命、鎌で松の木の皮を剥ぎました。皮剥ぎ作業に動員されました。

住民を救った潮平権現壕

 戦時中、日本兵の加藤軍曹が2、3人の部下を連れ、住民がいる避難壕にやって来て、「この壕は日本軍が使うから出ていけ」と私たちに命令しました。その当時、私の父親が区長をやっていました。父親が日本軍と交渉を重ねましたが、許してもらえなくて壕の中の住民は日本軍によって強制的に壕から追い出されました。住民の数はおよそ500人でした。数日後、追い出された潮平の区民は全員、壕へ戻ってきました。壕へ戻ってくると日本軍はいませんでした。おそらく日本軍は 避難壕にいた住民の食料品等を持って行ったのではないでしょうか。というのは、これまで空襲警報が鳴ると潮平の住民は壕へ逃げました。空襲警報が解除されて家に戻ってくると家畜のヤギがいない。鶏がいない。僕の母方のおじいさんが飼っていた馬もいませんでした。空襲警報を口実に日本軍が食料を調達していたのではと僕は推測しています。しかし、幸いなことに日本軍がいなかったので戦闘行為はありませんでした。

 糸満ハーレーの翌日5月5日に潮平の住民は米軍の捕虜になりました。犠牲者も出さず、数百人の潮平区民が助かった壕を「潮平権現壕」と名付けました。権現様というのは人を救う神様、仏様のことです。潮平区民は壕で助かったので、村の先輩たちが「権現壕」と名付けて鳥居を建てて、そこに碑文を作って、戦争の経緯を記しました。数百人もの潮平区民が助かったという石碑を建て、現在では旧暦の5月5日に毎年、村の行事として供物を供えて祀っています。他の地域の南部の壕では「慰霊祭」として行われていますが、潮平の権現祭は「感謝祭」と言われています。

戦後の学校生活 

 私が小学校7年生の時に6・3・3制の学制になって、私たち7年生は兼城中学校の1年生ではなく、2年生になりました。
 高校は糸満高校に入学しました。教室の床も板張りではなくむき出しの地面を均した程度で一応、机も用意されていました。窓は米軍のテントを使っていました。台風の度にテントが吹き飛ばされていたので、高校時代は年中行事のように台風が来ると全校生徒で萱刈をやりました。3年生になると校舎をコンクリートで作るために山から持ってきた石をハンマーで砕きました。コンクリートの材料になるバラス(小石)を作る作業をやりました。高校時代も落ち着いて勉強できる状況ではありませんでした。

二度の国費留学

琉球大学進学を経て国費留学へ 

 1953年に糸満高校を卒業して琉球大学に入学しました。琉球大学の文理学部に合格して琉球大学に2年間在学しました。あの頃、文部省が国費留学生を30名以上募集して、沖縄全体で試験が実施されました。琉球大学2年次の時に国費留学生に合格しました。留学というのは当時、沖縄はまだ米軍支配下なので、日本本土と沖縄の往来はパスポートが必要な時代でした。千葉大学に4カ年在学しました。千葉大学では日本史を専攻しました。大学時代は一生懸命に本を読んでいました。というのは、僕は高校まで家の中ではシマクトゥバ(琉球語)です。祖父、祖母、母親、兄弟とは高校までは家族との会話はシマクトゥバです。学校へ行くと先生はヤマトグチ(標準語)で授業をします。ところが、僕は言葉が出ません。ヤマトグチが使えないからつい黙ってしまうのです。それを克服するために本を読まないといけないと思い、僕は夢中になって本を読みました。学部学生の時代は小説を読んでいました。

 東京には沖縄出身者の学生寮「沖映寮」がありました。大学4年次の時に沖映寮で暮らしました。沖映寮生活で名嘉正八郎さんと出会いました。後に、沖縄の歴史編纂の事業で大きな足跡を残した方です。

沖縄へ戻り定時制高校の教員へ 

 千葉大学を卒業し、沖縄に帰ってきてから首里高校の夜間定時制の教員に就職しました。夜学なので、軍作業をして働いている生徒もいました。教員よりも高い給料をもらっている生徒もいました。生徒の年齢もまちまちです。
3年間ほどそこで勤めた後、私はもう一度、国費生に受験しました。当時、歴史分野の大学院国費制を文部省が募集していました。私は再び国費留学生に受験して合格しました。その頃、私は結婚して子供がいて、息子はひっくり返えることやハイハイが出来るようになっていた時期でした。国費受験に合格はしたけどもこのような状況で「妻子を置いて本土へ行けない」と悩みましたが、むしろ、妻が積極的に後押ししてくれて京都大学大学院に進学しました。

2度目の国費留学と『沖縄県史』の編集 

 1962年から67年までの5年間は国費留学生として京都大学で博士課程まで進みました。京都大学在学中に東京の沖映寮で同部屋だった名嘉正八郎さんが『沖縄県史』編集の最中でした。私に『沖縄県史』を手伝うようにと言われたので、京都での5年間は春休みと夏休みは沖縄に帰ってきて『沖縄県史』の編集に従事しました。あの頃の沖縄は「沖縄県」じゃなくて「琉球政府」と言っていました。名嘉さんが『沖縄県史』の編集をスタートしようとすると米軍からクレームがつきました。「琉球なのに“沖縄県”史じゃ困る」と言われたそうですが、名嘉さんが強引に推し進めて沖縄県史編纂がスタートしました。そういうことも含めて1960年代僕の大学院時代は名嘉さんと一緒に『沖縄県史』の編集を進めました。1か月あるいはそれ以上の夏休みを『沖縄県史』の編集に携わり、編集の給料は妻子の生活費にしました。そのような生活が5年間続きました。

 大学院で夏休みや春休みで沖縄に帰ってくると妻と息子が港まで僕を迎えに来ます。息子が産まれて6カ月のころから僕は沖縄を離れていたので、息子は父親の顔を忘れていて、僕が帰ってくると母親を守るようにして母親の前に立って警戒するのです。そういう子でした。家族に対し、大学院時代の5年間を感謝しています。

 京都では中国近代史を専攻にしていました。しかし、頭の片隅の一方では沖縄のことでいっぱいでした。県史の手伝いをしたり沖縄関係の資料を探したり結局、沖縄から片時も離れられないような状況でした。近代史は沖縄だけを研究するだけでは分かりません。日本も明治維新後の歴史は沖縄や日本本土、中国との関係も視野に入れながら考えていかないと沖縄の歴史には見えない部分があるので、沖縄県史の編集作業は私の研究に役に立ったと思います。そういう形で『沖縄県史』の資料の収集、資料編の編集、各論編の執筆、辞典の項目の手伝いなど名嘉さんが進めた『沖縄県史』 24巻の編集は大学時代を含め、私の人生に密接に重なり合っています。

それぞれの学生運動

大学院在学中の復帰運動との関わり 

 京都にいても、郷里の動向に絶えず目を向けていました。京都在住の沖縄出身学生十数名と一緒に定期的に月に2、3回学習会をやったり、議論しあったりしました。1964年、僕が大学院在学時代に琉球大学からの招聘で神戸大学の永積安明教授が米軍当局によって沖縄への渡航が拒否されました。その時、関西沖縄県学生会京都支部の名義で「本土沖縄間の渡航の自由を勝ち取ろう」というチラシを出しました。
この文章を僕が書いて、そしてガリ版で200枚作って学生集会で配りました。「琉球大学学生の闘争を熱烈に支持しよう」「学問の自由を勝ち取ろう」「本土沖縄からの渡航の自由を勝ち取ろう」と最後に書きました。

沖縄での学生運動

 1962年から1967年5年間の大学院を経て、僕は法文学部の教員として琉球大学に就職しました。1967年に文理学部が分かれて法文学部と理学部が出来ました。1960年代は復帰運動が高揚した時期です。そして、学生運動もすごく高揚した時期です。「革マル」と「中核」の争いが大学内に持ち込まれました。中核系の学生はより左翼的で沖縄大学が拠点でした。琉球大学は革マル派のアジトでした。両派の主導権争いで学生運動は混沌としていました。
それから1972年に沖縄が復帰するまでは琉球大学の職員も全員、沖縄出身者で占められて、学生も沖縄出身でないと受験できない時代でした。復帰以後は教員も全国から募集され、本土の大学からも入ってきました。学生も他府県から受験することができるようになりました。

復帰後の沖縄歴史研究

戦後の沖縄歴史編纂 

 沖縄における戦後の歴史編纂に関しては早稲田大学院を卒業した名嘉正八郎さんが『沖縄県史』を完成させました。「資料編」「各論編」「論文編」「事典」24巻を見事に完成させました。『沖縄県史』の編纂は米軍統治下の琉球政府時代です。米軍から「沖縄県」との表現は駄目だと言われながらも名嘉さんが強引に推し進めて『沖縄県史』がスタートしました。
 その後、並行して『歴代宝案』の編集事業を始めたのも名嘉さんです。那覇市が『歴代宝案』の編集事業を既にスタートしていました。『沖縄県史』の編集は 大田政作行政主席の時代です。西銘順治県知事時代に『歴代宝案』の編集が始まり、そして、大田昌秀県知事時代に『新沖縄県史』の編集が始まりました。

「中琉交流史」を開講

 2000年3月に琉球大学を定年退職した後、沖縄大学の特任教授として7年間、東洋史の講義を持ちました。近代になると、中国なら中国だけを見ても分からない。日本も日本だけを見ても分からない。琉球だって、琉球だけを見ても分からない。近代は世界的にも一つになってきているから私は沖縄大学で中国と琉球の交流史についての「中琉交流史」という授業を開始しました。主に『歴代宝案』を使った授業でした。

これまでの研究と現在の取り組み 

 沖縄タイムス社から出した本 「琉球処分論」が評価され、「伊波普猷賞」を貰いました。「東恩納寛惇賞」を頂いたのは琉球新報社からです。これは特定の本ではなく、選出者の業績全体が沖縄の研究に寄与したことで東恩納寛惇賞をいただいたと思います。いずれにしても身に余る受賞でした。現在 「潮平字史」を編纂中です。20年ほどかかっていますが、まだ完成していません。若者2人に参加してもらい進行中です。この「潮平字史」が最後の著述になると思います。

復帰後、改めて考える「琉球処分論」

 僕の研究は「琉球処分」がテーマです。「琉球処分」は僕らの復帰運動世代の「琉球処分論」です。復帰運動は沖縄がヤマト(日本本土)へ復帰するために沖縄全島を挙げて復帰協を中心になって進めました。僕らの時代の「琉球処分論」でした。今で言えば「併合」です。明治政府(日本)が沖縄を「併合・侵略」しました。今では、それが通念になっています。しかし、当時、「侵略・併合」と言えば袋叩きに遭ったと思います。当時は沖縄県民の大半がヤマト(日本本土)に帰ろうと復帰を叫び、望んでいました。その中でヤマトのことを「侵略・併合」と言うと「ヤマトに行くな」と言う事になります。

 「侵略・併合」という言葉は僕らの時代はタブーだったので言い換えて「侵略的統一」とか「非民主的統一」という表現にしました。「日本との統一」を「民族的な統一」という方向で1960年代の復帰運動世代にとっては「処分論」だったと思います。

 今、ある意味では「復帰論」自体が批判されています。されているというよりも「日本は侵略者であり琉球を併合した」と、そのように言う人たちがいれば、ある意味では沖縄がヤマトからの自立論、独立論でもあるわけです。そういう意味では僕が若い頃、必死になって民族統一や「復帰」の視点から考えました。琉球処分の問題は明治政府が首里(琉球国)を併合した事を伊波普猷は「奴隷解放」と言っていますが僕はそこまでは言わなかったし「統一」の過程として考えていました。今は「統一」と言うと逆に袋叩きに遭います。「統一」でもある意味では「分離」です。

 「琉球処分」が「併合・侵略」というのであれば復帰運動をして、その後どうなったか。今の研究者に問いたいです。「復帰協」ができ、屋良朝苗も含め、先輩たちが必死に日本復帰を叫んできました。もちろん、結果としてはまったく沖縄県民の要求に沿いませんでした。核抜き返還はできなかったけれど、しかし「処分論」を「併合・侵略」と言うならば、非民主的であれ、何であれ、僕は統一的視点で考えようとしました。民族的に納得する統一ではなかったけれども、ともかく統一に向かいました。歴史的な行動だったと僕は思っています。つまり、「琉球処分論」の研究はそこまで来ています。今後、どのように評価されるかはある意味 「琉球独立論」まで来るかもしれません。

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