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POSTWOR OKINAWA
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okinawa1945

佐良浜漁師(インシャ)のアギヤー漁

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  • 1951(昭和26)年生まれ
  • 国吉正雄さん(くによし まさお)

TIMELINE関連年表

1951
旧伊良部村佐良浜(現宮古島市)に生まれる。
1958
佐良浜小学校に入学。
1964
佐良浜中学校に入学。
1967
中学校卒業後にアギヤー漁師になる。
1969
静岡県焼津で漁師をする。
1972
伊良部島に戻り、南方方面での漁業に従事。
1975
アギヤー漁師になる。
2005
伊良部町と宮古島の4市町村と合併し宮古島市が誕生。
2005
自分の船を購入する。
2015
伊良部大橋が完成し、宮古島と伊良部島が橋でつながる。

STORY証言

証言者略歴

 伝統的なアギヤー漁を行う国吉組のもぐり長。中学卒業後に佐良浜で漁師となり、アギヤー漁を始める。静岡やパラオ、ニューギニアなどの南洋で漁業を行い漁師の技術を磨く。年々、アギヤー漁師が減少する中、後継者問題を抱えながらも先輩から受け継いだ佐良浜のアギヤー漁を守り続けている。

幼少時代と漁師(インシャ)人生のはじまり

幼少時代の家族について

 きょうだいは7名で父と母 9名家族です。兄と姉がいて私は3番目です。物心ついたときから両親は農業をしていました。父は漁師ではありません。夏場は父と母は鰹節工場で働いていました。これが終わると農業に戻りました。当時、鰹節工場での仕事は3、4ヵ月間ほどだったと思います。カツオを船の横に積んで戻ってくるので、それを降ろして工場まで運んできていました。カツオの頭は船の中で切って持って来ていました。時間を置かないと鰹節にはできないので時間を置いて、魚の鮮度を落とさないと鰹節が作れないようです。当時は今みたいにそれほど多くはカツオを取れませんでした。

 僕らが小学生や中学生の頃は学校から帰ってくると海へ遊びに行きました。いろんな海のものを取ってきて焼いて食べていました。子供時代は毎日、海に行っていました。中学校を卒業してアギヤー漁師になりました。

漁師(インシャ)人生のはじまり

 中学を卒業して漁師を始めてから魚のいる場所をいろいろ習いました。だけど、どの先輩方も魚の住む場所をあまり教えなかったです。たまにサンゴ礁の「瀬」の名前などを教えてくれました。どの先輩も「ここは何々のサンゴ礁だよ」とは教えてくれませんでした。瀬の名前などは自分から聞いたりしないと教えてくれませんでした。サンゴ礁はこの宮古島周辺に何万か所もあります。だから、これを自分で把握しないといけません。海をやっている人ならばサンゴ礁を見て「ここはどこどこだね」とだいたいみんな分かります。

 そして、追い込み漁をやっているサンゴ礁について網を仕掛ける所やどういう形状をしているかはだいたい皆、分かっています。遠い漁場には「的」を当てて行きます。「的」とは分かりますか?「島」と「島」を重ね合わせるかまたは「島」と「テレビ塔」など色んなものを重ね合わせることを「的」と言います。あっちもこっちも2つ重ね合わせて的と的の中央あたりに船を持ってきたらそこにサンゴ礁の瀬があることが分かります。この柱が船を走らせたら動いてくるので動いてくる目標物を一つに重ね合わせることを「的」といいます。だから、目標物が一つに重なった場合に「漁をするポイントに来ている」ということになります。今は衛星があるので衛星を見て、船を走らせていますが、昔は衛星が無かったので青森県の大間のマグロを釣っている人も昔はだいたい山と山を合わせてマグロを釣っていたはずです。

 海が時化てくると漁には出ません。漁師は船を出すか出さないかは自分の勘で分かっているので一番上の人の判断となります。漁の仕事に使われている方は分かっているけれどあまり口は出さすことはなく、現場の一番上の人が判断します。昔は「台湾坊主」と呼ばれる気象の変化が一番怖かった。台湾坊主は急に風速何十メートルの風が吹くので一番怖かったです。

 2年ぐらいアギヤー漁をやって3年目ぐらいに 内地(日本本土)で船に乗らないかと誘われて内地に 5、6年ほど居ました。行った先は静岡県焼津です。焼津は遠洋漁業の基地になっていて水揚げは鹿児島から東北まで各地でやっていました。日本復帰のころは二十歳ぐらいでした。

 私の兄も漁師をやっていました。中学を卒業してアギヤー漁師を始めました。当時、アギヤー漁師は結構いました。何百名くらいはいたと思います。漁師を始めた時代はアギヤー漁をやっているグループが3、4組ぐらいあったと思います。1グループに30名ほどいたと思います。

佐良浜の漁師(インシャ)について

漁師の収入

 漁師の稼ぎは水揚げによって決まります。その日の水揚げの売れ高を夕方、みんなに分配しました。その時の水揚げで変わってきます。ドル時代は分からないけど通貨が円になり、私は内地に行って、南方から帰ってきたくらいの時期にアギヤー漁でだいぶ儲かりました。稼ぎは一日に何万かな?10万円ほどあった時もあります。潜り漁師の取り分は潜らない方の取り分を「1」として酸素ボンベを背負って潜る潜り漁師は「2」になりました。船主で潜り漁師をやっている場合、大体「5」は取っていたと思います。

 沖縄の海洋博時代も景気は良かったと思います。ドル当時も円に切り替えの時代も景気は良かったです。南方に行っていた時期に銀行から貯金をするように勧められていました。昔は「歩金(分配金)」というものを現金でもらっていました。ドルから円に切り替わる前の年に兄弟二人で内地へ一本釣り漁に行って今の家屋を1年で2人で建てました。

1960~1970年代のアギヤー漁

 昔の追い込み漁は宮古島の周辺全域で追い込み漁をやっていました。一番遠くで八重干瀬や東平安名崎まで行っていましたが、現在はカツオの餌は近いところでしか取れません。アギヤー漁は復帰前も盛んだったと思います。アギヤー漁のグループも3、4グループいたはずです。私が漁師の仕事を始めた時期には大きな船になっていたのでこの船が1グループで5、6隻いたと思います。このグループの船団はみんな一緒に朝早く港を出港して防波堤の手前でグループが集まります。一番上の責任者「潜り長」という方がいます。この船に別の船の船長とかいろんな方が集まってきて船をくっつけて「今日は何処の瀬がいい」などと相談します。「大潮の時は流れが速いので、小潮の時は流れが少ないから」と風向きや潮の流れもいろいろと計算しながら「今日はあっちの瀬がいいはずよ」などと相談をして出港するのが漁の始まりです。ですから、漁場は前日の夕方ではなく当日の朝、決めます。港を出港して防波堤の近くで相談して決めます。

 どこの漁師も旧暦を使います。ひと月は30日だけど、漁師は15日で計算します。そうしないと潮の流れが計算できません。この15日計算で潮の流れが無くなる時期と潮の流れがある時期を漁師は計算しています。潜り漁師は特に計算します。

佐良浜の南方出漁

 南方漁は4、5年ぐらいやりました。一番遠い漁場でソロモン諸島あたりです。行った先は4か所で、パラオ、ニューギニア、カビエン、ソロモンです。当時は佐良浜からは南方への出稼ぎに何百名も行っていたと思います。何年か経つと船に現地の人を多く乗せるようになり、宮古からは船長や機関長、「メガネ」とよばれる鳥山(魚に群れる鳥)を見つける役割の4,5名が行くようになりました。1隻に宮古の人は4、5名くらい乗って残りは現地に行ってから現地の人を20名ほど乗せて漁をやっていました。
 南方へ行くのにはおよそ15日~20日かかりました。向こう(南方)ではカツオの一本釣りしかできません。南方でも瀬に多くの珊瑚礁の魚が居ました。グルクンなどもいっぱいいました。

アギヤー漁の仕組みと漁師町の移り変わり

アギヤー漁の仕組み

 アギヤー漁は沖縄本島の糸満からの流れだそうです。当初は糸満から母船を持ってきて糸満の方がここ(佐良浜)の人たちを雇っていたようです。話を聞くところによると糸満の漁のやり方を島の先輩たちが習ったそうです。魚は追い込まれると隠れる場所がないから袋網の方へ逃げて行くけれどこの袋網の下が穴(隙間)だらけで隙間が多いので、仕掛けた網をすり抜けて逃げてしまいます。魚のスピードに追いつけなかったときも逃げられます。だから、魚を取るためにはここが一番重要なところです。

 もし、このサンゴ礁が大きなサンゴ礁でこうであったらここも「かさいめ(瀬の縁)」になるのでここも「かさいめ」、ここも「かさいめ」になる。潮は上げ潮(海面が上がる)と引き潮(海面が下がる)があります。そして、ここにいた魚がこの潮の流れの向きが変わる手前にはこの魚は皆ここにはいない。みんな反対側に来ています。魚は潮の流れに向かって必ず泳ぎます。みんな潮が動かない時点から移動しています。アギヤー漁の仕掛けをしないとグルクンは取れません。グルクンは瀬にいる魚だからカツオのようには移動しません。
 例えば上げ潮であればグルクンは潮に向かって泳ぐので瀬のこの位置にいます。潮が変われば瀬の反対側に行きますが、潮の流れと瀬の形でグルクンの位置は決まってきます。グルクンは逃げては行きません。

 昔、この紐はアダン葉でした。この紐はアダン葉の根っこを使っていました。この紐も根っこではなくてアダンの葉っぱの先を抜いてきて係の人は毎日これをこれぐらいの束でアダンの葉の先を毎日採って来て網元に置いていきます。それを毎日朝早く網元から取ってきて毎回交換しました。毎日交換しないと 2日も使うと枯れてダメになるので交換すると白い部分がいっぱいありました。白い部分で魚をおどかして追い込みました。

漁師町の移り変わり

 伊良部大橋ができてから10年だよね?それでは後継者がいなくなってから15年以上は経っています。後継者が減ったのは金儲けにならないからかな。20、30年前と比べて、グルクンの漁獲量がとても減っています。以前はグルクンの1日の水揚げ量は何トン単位で揚がっていましたが、今は大人数で漁をしてもグルクンはそんなに取れません。魚がだいぶ減って10分の1ぐらいになっています。佐良浜漁協はもう大変だと思います。あと何年か経つと漁師がいなくなるかもしれません。僕らがやっている仕事もあと5、6年持つかどうか。

 漁師は今はもう2グループしかいないので、僕らの所はあと5年くらい。残りの連中はあと何年やりますかね。僕らが辞めればもうカツオ漁も終わるかもしれません。そうすると「漁師が無くなる」かもしれません。漁をやっている人たちは2、3隻のグループしかいません。残りはみんな漁師を辞めています。

 今は外国船の密漁などの監視の仕事を受けているだけでこれしかやっていません。漁師を辞めているものと同然です。昔は魚を買う仲買人がいっぱいいました。いわば、バイヤーたちです。今はもうそんなにいません。観光客だけはいっぱい入っていますけどね。

 「佐良浜は 漁師の町」という感覚がなくなります。今もアギヤー漁しているのは2グループです。佐良浜にハーリーはあるけれど昔とは違います。昔は漁師たちが元気でやっていたけれども今の漁師はサバニをあまり漕ぎません。ハーリーはやるけれどサバニは漕ぎません。

 自分の船を持つまでに30年以上かかったと思います。私が購入したのは10、15年くらい前で50才を越したころだったと思います。また、私のグループの平均年齢は70才くらいです。現在の乗組員は6名です。後継者がいなくなっています。後継者がいなくなっているからアギヤー漁ができなくなっています。いまはカツオの餌取りを専門にやっています。佐良浜の漁はやはり島の人たちが一緒になってやらないと内地の人たちが来たとしても一緒にやらないと駄目です。内地の人たちだけではできません。僕らが辞めたら漁はできないから僕らが引退すると後輩の漁師らは自分たちだけではできないと思います。

漁師(インシャ)人生を振り返って

 息子が高校生の頃に「海の仕事だけはやるなよ」と話しました。自分が海の仕事で内地に行ってその1年間がきつかったので「船乗りだけはやるなよ」と息子に言いました。だけど、息子は中学生時代から学校から帰ってきては魚釣りばかりしていていたので、海に興味があったようです。私が言っても聞かなかったです。今、息子は琉球海運の船に乗っていて船長をしているそうです。

 私はインシャ(漁師)になってよかったと思っています。子供時代、貧しかったので子供だけは人一倍、育ててあげようと思いました。漁師を続けたいと思っています。今も仕事を頑張っているのは子供たちは育ってきたのでこれからは孫たちがいっぱい生まれます。孫たちに儲けをいっぱいあげて育てたほうがいいと思います。これからも頑張ります。

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