
「流出文化財」のアーカイブを求めて
- 1943(昭和18)年生まれ
- 高安 藤さん(たかやす ふじ)
TIMELINE関連年表
| 1943 |
具志川村田場(現・うるま市)で生まれる。
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| 1962 |
前原高校卒業。
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| 1965 |
国際大学短大部夜間卒業 ガリオア奨学生として米国留学
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| 1968 |
アイオア州立大学で学士号を取得。英文学
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| 1969 |
琉球電力公社を経て外資系の保険会社で働く。
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| 1984 |
在沖米国総領事館に勤務。2009年定年退職。
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| 1999 |
広報文化担当補佐官としてG-8サミットのための流出文化財に関する企画を提案。
沖縄県の「FBI盗難美術品ファイル」登録と御後絵の発見・返還につながる。 |
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| 2001 |
琉球大学大学院に入学し、流出文化財について研究を行う。2004年修士号取得。
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| 2011 |
「株式会社ぬちまーす」に入社。
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| 2024 |
米国から御後絵4点を含む22点の文化財が沖縄に返還される。
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STORY証言
証言者略歴
株式会社ぬちまーす副社長。元在沖米国総領事館広報・文化担当補佐官。
在沖米国総領事館勤務時代にG-8沖縄サミットの際、流出文化財に関する企画を提案。その提案が沖縄県の「FBI盗難美術品ファイル」登録と御後絵の発見・返還につながる。琉球大学大学院で「米国の『沖縄コレクション』~収蔵品と移動の背景」を研究テーマに2000点近くの沖縄の文物の移動の背景を調査する。2016~2023沖縄科学技術大学院大学評議員を務める。
幼少から高校生時代
具志川田場での暮らし
戦争中、父はいなくて私は母と2人で母の実家にいました。私は7名きょうだいで長女である私は大変でした。父は出征してまだ訓練中だったようです。終戦になり父が沖縄に戻ってきて母と私を連れて住んでいた家に戻りました。当時、旧具志川村田場には沖縄文教学校がありました。その近くに私の実家がありました。覚えているのは文教学校の教員らが私たちの家に住んでいました。20坪ほどの小さな家だったことをなんとなく覚えています。
しばらくすると隣にコンセットの建物ができて先生方は引っ越しました。父は米軍基地、ホワイトビーチなどで仕事をしていました。畑をもっていたので仕事から帰るとサトウキビを植えたりトマトも植えたりしていました。父は朝から晩まで働いていました。うちの家族は子どもが多く、責任感が強かった私は弟や妹の面倒を見たり、中学生や高校生になると食事を作ったり、また、家族全員分の洗濯も私が引き受けていました。私は義務を果たしていたけれども「もっと時間が欲しい。遊びたい。友達と一緒にいたい」と思っていました。
父は晩酌が好きで話し相手が必要になると私と弟をそばに座らせてずっと酒を飲みながら私たちに話をしました。父はあまり教育を受けていませんが世界の偉人伝をよく覚えていて、偉人伝を話すことを何回も繰り返しました。小さい弟は一生懸命聞いていて、そのことが弟に良い影響を与え、その後、「発明家になりたい」とずっと言っていました。それが今の宮城島の製塩「ぬちまーす」に繋がったと思います。
読書に熱心だった高校生時代
前原高校は勝連から田場に移転して間もない時期でした。階段の踊り場の下のスペースが図書室でした。私はいつもそこに通って小説を読みあさっていました。ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などいろんな作品を読みました。あの時の読書が私にいろいろと影響を与えていたのだろうと思います。高校生の頃は読書に没頭していました。
前原高校からは私と男子生徒2人が奨学資金を貰って本土の大学に行くことになりました。琉球大学の入試が終わった後に私への奨学金が全額支給から半額支給に変わりました。父は「私がもし、男の子なら土地を売ってでも進学させたい」と言い、いつもは積極的な母は黙っていました。
それで、私は本土への進学を諦めました。当時、無料の職業訓練所がありました。そこで、私は英語と英文タイプを習って嘉手納基地での仕事が見つかりました。本土へ進学して薬剤師になる夢はありましたが行けないことが分かって諦めました。
英語を学ぶ
英語を学び、米留(米国留学)の道へ
嘉手納基地の人事部で働きました。上司はアメリカ人ですしやっぱり、英語の勉強が必要だと思いました。沖縄市にあった「国際大学」に夜間部に入学して英語の勉強をしました。卒業した翌年から修士課程だけでなく大学学士課程として米留で採用するという公募がありました。その新聞の記事を読んで米留に向けて 勉強しました。翌年、運よく米留の学士課程に合格してアメリカのアイオワ大学に留学しました。専攻は英文学でした。沖縄の米国民政府の給料はだいたい40、50ドルでした。米留の奨学資金が220、230ドルありました。学生寮は100ドルぐらいかかりました。アメリカへ行ってまとまったお金ができたので、家に送金して洗濯機を買ってもらいました。田場ではたぶん第1号の洗濯機だったと思います。
アメリカでの生活
アイオワ大学はわりと穏やかなところで抗議活動もなかったし、人種問題もあまりないわりと穏やかなところでした。
私も穏やかな雰囲気にどっぷり浸かっていて、あまり問題意識が出てこない状態でした。大学は1968年9月に卒業しました。
学んだ英語をいかした職業
琉球電力公社に勤め、日本復帰を経験
沖縄に戻ってきて「琉球電力公社」(現在の沖縄電力)に勤めました。そこは当時、米国民政府の下にあって、英語を使う仕事だったのでそこに入社しました。沖縄が日本に復帰することが1970年に決まって、復帰後は英語を使わなくなるので琉球電力公社を辞めて「アメリカンフィデリティ」という外資系の小さな保険会社で働きました。顧客は軍人や軍属でした。日本復帰で私は仕事を変えざるを得なかったと思います。復帰しても父は基地内での仕事を続けていました。
ある日、アメリカの裁判所に出す書類の日本語を英語に直す翻訳の仕事が入ってきました。公的な書類になるので「米国総領事館の認証が必要です。」と言われて、総領事館に行くとそこの受付の方が「今、人員を募集しているがなかなか決まらない。あなたがこの書類を翻訳したのであれば募集を受けてみたらどう?」と声をかけてくれました。翌日、筆記テストを受けて僅か4〜5日で総領事館での仕事が決まりました。
米国総領事館で仕事をはじめる
総領事館の仕事に就いたのは1985年です。最初の仕事は「業務領事」です。例えば、外国人にビザの発給、ビザの申請等があります。アメリカ人のパスポートや出生届け、死亡届け、ソーシャルセキュリティー(社会保障)などそういった諸々の手続きです。
例えば、日本でいえば市町村の「市民課」で行う仕事。総領事館による沖縄在住のアメリカ人のための仕事です。4部門ぐらいに分かれています。ビザの申請、永住ビザや結婚している方も多かったし、アメリカ国籍の子どもたちもたくさん生まれるからそういった手続きです。
広報文化担当補佐官になり「流出文化財」を知る
「広報文化担当補佐官」という仕事をしていました。担当の領事がいて、私は沖縄側のいろいろな情報を与える補佐をしていました。私は沖縄の文化や工芸品にはあまり関心がなかったけれども必要に迫られて勉強するようになりました。1998年だと思います。コンベンションセンターで「流出文化財」に関するシンポジウムが開催され、私はそれを聞きに行きました。好奇心半分、仕事半分という感じでした。
そのシンポジウムで真栄平房敬先生が「戦時中、中城御殿にあった沖縄の宝物がごっそり盗まれた。見つかったのは『おもさそうし』や『混効験集(こんこうけんしゅう)』などで『王冠』や『御後絵(おごえ)』などまだ多くのものが見つかっていない。どうにかして見つけ出したい。」とお話がありました。
沖縄県教育庁文化課の園原謙さんたちがアメリカにある沖縄の文化財の所在を5年かけて確認をしました。見つかったのは1041点。私はその話を聞いて本当にショックを受けました。多くのものが盗まれて、いまだに見つかってない。それをきっかけにいろいろと自分で調べるようになりました。
「流出文化財」返還に向けた活動
2000年 沖縄サミット
翌年 2000年G8サミットが沖縄で開かれる時にクリントン大統領が沖縄へ来ることになりました。クリントン大統領から「沖縄の人との交流ができる企画を提案するように」と大使館から領事館に連絡がありました。私はその担当でしたので御後絵など貴重な文化財を1点でも見つけ出してクリントン大統領から返還していただく企画を考えました。1953年、米国大統領の名前で「おもろさうし」が返還されたことを私は調べて知っていたので妥当なことだと思っていました。
もう一つは、流出文化財は何十年も見つかっていないので沖縄県が確認した漆器や陶器のコレクションがあるから「それらを沖縄へ里帰りさせるのはどうだろう」と提案し、採用されました。領事と私が博物館に行き、収集した様々な情報は大使館と国務省にも送られていました。
「FBI盗難美術品ファイル」への登録
サミットが終わった直後、国務省から総領事館にメールが来ました。「目玉の企画が実現しなかったことは残念である。そこで、沖縄県から3名の専門家をアメリカに招いて長期的な視点で盗まれた文化財を探す手だてを調べてみてはどうですか」とそのようなメールが届きました。領事を含め、私たちは手をたたいて喜びました。それから、沖縄県の文化課に行って萩尾さんたちが調査の為にアメリカに行くことになりました。滞在は2週間ほどの短い期間でしたが、それから帰ってきて「FBI盗難美術品ファイル」に登録することができました。それが2001年です
私もアメリカへ出張したときに沖縄の総領事館から「国務省の担当官から直接話を聞くように」と言われてアポをとってもらいました。国務省としてもボストン美術館やボストンの日本総領事館、ピーボディ市など様々な場所で調査をしたようです。ボストンにある漆器類は戦前に京都や奈良で収集されたものだ。色々とリストを調べましたが文物を沖縄から持ち帰ったスタンフェルトの名前は出てきませんでした。「だから戦利品ではないだろう」という判断になり、沖縄サミットがもう、間近に迫っていたので「時間切れで実現しなかった」と説明を受けました。私は領事に対して沖縄の立場を説明する立場でもあったのに大事なことを知らなかったという衝撃が大きかったです。それから一気にいろいろと勉強し始めました。
「流出文化財」のシンポジウムでその3名の中に真栄平房敬先生がいらして、証言で私に衝撃を与えた方がいらっしゃるということが嬉しいというか感慨がありました。真栄平房敬先生は 80歳でしたがとてもお元気でした。私は先生のご自宅に行き、いろいろお話も伺いました。
「先生、シンポジウムでクライン弁護士が文化財を見つけ出すためにはアメリカのFBI盗難美術品ファイルやインターポール、NGOなどに盗まれた文物のリストを資料と一緒に登録すべきだとおしゃってましたよね。」と言うと先生は喜んで「そうだよ。そうだよ。」とおっしゃっていました。「そういう場所に真栄平先生や皆さんが行くのですよ。」と言うととっても喜んでくださっていつも穏やかで優しい先生が「良かった」と言って興奮していた事を覚えています。
自分で調べたい気持ちもありまして沖縄県が出した報告書には米国所在の沖縄の文物。それに、マサチューセッツ州セイラムのピーボディ・エセックス博物館に200点近くの沖縄の民俗資料があることが分かりました。園原謙さんに電話をして、どうして沖縄の物が遠く離れている所にあるのかを尋ねました。
「沖縄県はどこに何があるのかまでは調査しました。高安さんは総領事館に所属しているからそこにある理由を調べたらみてはいかかですか。」と言われました。流出文化財について調べようにも自分では見当がつかなかったので専門の教授のもとで行った方がいいと考え、琉球大学の大学院に受験することを決めました。
琉球大学大学院で学ぶ
指導教官は琉球史研究者の高良倉吉先生です。大学院の修士論文のタイトルは「米国の『沖縄コレクション』~収蔵品の移動の背景~」でProvenance(来歴)の調査だったのです。「そうすれば、盗難品も見つかるかもしれない」と思いました。
「1041点の文物は見つけました」という沖縄県の報告だけだったので、その中に盗難品がなかったことは想像がつきましたが、まずは「何故そこにあるのか?」ということを調べないと前に進まない気がして、それらの来歴を調査しました。当時は2001年サミットの翌年です。
調査に関する印象的なエピソード
領事館は私の調査に理解を示してくれて2週間の休暇を年に3回もとらしてくれました。ワシントンなどへの出張が終わると4、5日ほど休みをもらって調査しました。広報文化担当領事が大変理解がある方でしたので休暇申請もすぐに認められました。調査した博物館は15館でした。所蔵品のリストが多い博物館を中心に回りました。37館の博物館の資料を取り寄せたけれどもそのうちの10件ぐらいは1点しかありませんでした。ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館。そこには終戦直後にウィラード・ハンナ博士が送った民俗資料がありその往復書簡が10通ほど残っています。
ボストン美術館の琉球漆器は1880年代にビゲロー博士が京都や奈良で購入した琉球王朝時代の漆器類だと分かったことやその移動の背景には面白いエピソードがありました。スミソニアン博物館では沖縄の工芸品の展示会をするときに沖縄県から色々と送ってもらっています。稲嶺惠一さんのお父さん(稲嶺一郎氏)や沖縄県、琉球政府、そしてハンナさんも含めて沖縄の工芸品や沖縄の文化、文明を知らせるために多くの方がアメリカに工芸品などを寄贈されていました。「沖縄にはこのような文明や文化がありますよ」と知らせるために収集や寄贈がされていたという感激するような話がいっぱいありました。
展示はされてないけれど沖縄の文物が大事にされて収蔵されている。「アメリカにあるものは戦利品だ」と沖縄ではそう言われますけど、そうではなくて「戦利品」と「合法的に持って行かれたもの」その違いをまず確認する。まずは「戦利品ではない」との確認が必要かと考え、私はその調査を行ったと思っています。
御後絵(おごえ)の返還
御後絵の返還後、しばらく経って領事館から「当時の状況を報告するように」と依頼がありました。御後絵は梅雨時の沖縄の屋外に2ヵ月ほど置かれていたので、「劣化があるのは不思議ではない。」と思いました。これまで白黒の写真を見ていただけなのでこの色彩には感動しました。「違いも明らかじゃないですか?」あれは最初の頃。これは最後です。私たちでも「香炉がある。香炉がない。」とかは一目見て分かりますよね。もっと御後絵が見つかれば、比較研究ができると思います。
これはアメリカ側からの情報ですが、寄贈した方は考古学者だったそうです。考古学者でそういうことに関心のある方だったようです。だから、見つけることができたわけです。御後絵を持ってきてくれた大佐がいて私は彼と一緒に昼食をとったことがあります。彼が言うには「こういうものがゴミ箱のそばに捨てられていた。それで家に持ち帰った」という話のようですが、その方もそれは信じられないようでした。
この御後絵が見つかった時に一緒にメモも見つかっています。御後絵を発見した状況をそのメモが描いていて「瓦礫に覆われた盛り上がりを見つけて瓦礫を取り除くと、その下には驚くような珍しい美術品があった。」と書いていました。それは匿名でしたが、私はスタンフェルトだと思います。その証言が真栄平房敬先生の証言と一致します。ということは真栄平房敬先生の証言の裏付けにもなるとともにこのメモの裏付けも取れました。沖縄に関する限り、このメモに書かれていることは真実だろうと分かりました。この御後絵が戻ってきて、いろいろ調べているとアメリカの公文書館に「おもろさうし」が戻ってきた時の国務省と財務省の調査があり、そのおかげで戻ってきたという報告書が見つかりました。それには「スタンフェルトが王冠を持っているのを見たと証言する人がいる」とそのように書かれているのを見て、私は「王冠もボストンにあるに違いない」と思いました。
そしてもう一つ、いろいろ推論していくと「おもろさうし」とか多くの書類を持ち出すことができたわけです。「どうしてあんなに多くのものを持ち出すことができたのだろう?」とそんな疑問が出て来ますよね?個人でなく、機関や部隊として持ち出した可能性が見えてきて、御後絵など大きなものを何点も持ち出せたという情報がいろいろと出てきました。御後絵が見つかったことによって、もっと見つかる可能性が出てきたと思います。
若い人たちへのメッセージ
沖縄の文化、文明を表現する文化財にはそういう力があります。そういったものを見ることによって御後絵一枚だけでもいろんな歴史が分かってきます。専門的でなくても関心を持ってほしいです。今を一生懸命生きていれば御後絵とは関係なくても何か必要に迫られた時に一生懸命にできる。
例えば、懸命に勉強をすることでいろいろな知識は得られる。それも力だけれど知識だけではなくて「一生懸命やったことが力になる。」そのようなことを若い人には言っています。必要な時にその力が出てくると「いつも真面目に頑張る」ということではなくて人生は楽しみも、幸せも、面白いことがいっぱいあるからそれを体験しながら、ときどき一生懸命になる。「一生懸命になることが、次の一生懸命」に繋がります。文化財に関心を持つ、持たないは別にして歴史や文化財などのそういった力。私たちの根本のものは知っておくべきだと思います。
このたび御後絵がボストンで見つかりました。御後絵は定型化された王様の肖像画です。おそらくあと13点ほどボストンにあると思います。1点でも多く見つけ出したいです。この鐘も持ち出した方が返還してくれたものです。残りの御後絵をぜひ見つけ出したいので見つけた際にはご連絡いただけますようお願いいたします。





