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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

戦後のコザの食とくらし

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  • 1944(昭和19)年生まれ
  • 徳富 清次さん(とくとみ せいじ)

TIMELINE関連年表

1944
鹿児島県の喜界島に生まれる
1949
越来村長が米軍と交渉し、米軍人・軍属を対象にした商業地のビジネスセンター構想を推進。
1951
越来村照屋(現・沖縄市照屋)に「ニューヨークレストラン」が開店
のれん分けにより父がコザのセンター通りに同名のレストランを開店
1953
米軍公認の飲食店などに与えられた営業許可証「Aサイン」の制度が発足
1964
ニューヨークレストランのメニューにAランチが加わる
1970
コザ騒動(暴動)の現場を目撃する
1972
沖縄の施政権が日本に返還される(日本復帰)
1972
センター通りのニューヨークレストランのオーナーを務める(~2008年)
1982
商店街の名称が「センター通り商店街」から「沖縄市中央パークアベニュー」に変更される。

STORY証言

証言者略歴

叔父が創業した戦後のコザを象徴する店「ニューヨークレストラン」で米国の食文化に出会う。センター通りにあった同名レストランのオーナーを1972年~2008年まで務めた。基地のある街の様子、商店街やそこで働く人々の生活、時代による米軍人の変化、Aサイン制度、コザの食文化などコザの街の変遷を見続けてきた。

喜界島からコザへ

島の子どもの生活

 僕は奄美大島で生まれて、小学3年生の頃に沖縄に来ました。僕が子どもの頃は、貧しい時代でした。学校までは4キロありましたが、歩いて行きました、朝6時頃に集落を出て、裸足で学校に行っていました。

喜界島からコザへ

 安謝港に着きました。当時は桟橋がなかったので、沖に停泊している大きな船から小舟に乗り移って、それで上陸しました。上陸する時にはもう、足の膝くらいの高さまで海水に浸かる状態でした。それから安謝の商店街を通って、1号線(現・58号線)にあるトンネルをくぐって、上にあがった所からバスに乗って、コザ(現・沖縄市)へ行くという時代でした。その頃、父親は家族よりも先にコザに出てきていました。うちの家族は子ども6名でしたが、僕と妹2人と母で来ました。(最初のコザの印象は)怖かったですよ。大柄な米軍兵士がたくさんいたので、怖い街でした。

創業時の「ニューヨークレストラン」

ニューヨークレストラン創業者元山嘉志富さん

 (伯父の元山もとやまとみさん)あの方は紳士でしたね。(伯父は)子どもたちにアメリカ的な教育をしていましたので、僕らも教えられたようにしないと親に怒られました。(伯父は)街へ出るときには、きちんとした格好で帽子を被り、マントも身に着け、ステッキを持って街を歩いていました。

 最初のころのメインメニューは、サンドイッチでした。というのは、輸入業者の関係もあって、ステーキ肉が大量に入る時代ではありませんでした。ハンバーグの場合は挽肉を使っていたので、自分たちでミンチ機を回して挽肉を作っていました。だから、それには不自由しませんでした。

父のレストランと、通りの風景

 (店の手伝いは)皿洗いをしたり、やんばるからトラック1台分の薪を買っていたので、その薪割りをしました。手伝いは、薪割りと皿洗いくらいです。あの頃の米兵は紳士でした。沖縄戦が終わった後の米兵は、街を歩くときには綺麗な格好をして、シャツのボタンもきちんと閉めて、靴も綺麗に磨いていました。当時は床屋が多かったです。オーナーだけが免許を持つ店もあったと思いますが、とにかく(床屋は)いっぱいありました。米兵たちは、まず床屋に行ってから街に遊びに行っていました。(僕らが)街で米兵に手を差し出すと、彼らはチョコレートをくれたり、時にはお金をくれたりすることもありました。また、映画を見たいと思って映画館の前に立っていると、(米兵は)手を繋いで一緒に映画館に入れてくれました。クリスマス前になると、教会に行きました。(僕は)別にクリスチャンではないけれど、目的はチョコレートやお菓子を貰いに行くことでした。その時に、アメリカの人たちからたくさんお菓子を貰いました。

当時のレストランのメニューについて

 牛肉は、わりとスムーズに手に入りましたが、ステーキに使う肉は枝肉で来ていました。現在のように、リブやテンダーと部位ごとに来ればいいけれど、(枝肉のかたちで)輸入されていました。それほど不自由はしなかったと思います。ところが、豚肉の場合はなかなか手に入りませんでした。ハワイから送られた豚のおかげで(養豚が復興)、ランチメニューできました、最初はCランチからです。Cランチにもカツを付けないといけなかったので、僕は土曜や日曜になると、肉屋を何軒も回りました。そのくらい(豚肉は)手に入らなかったのです。(豚肉が)スムーズに手に入るようになって、ランチはCの次にAができて、BからCまでの種類になりました。Cランチを食べて育った人は、たくさんいると思います。今の50代、60代の人たちは、ほとんどがCランチを食べたことがあると思います。レストランがあった商店街の人たちは、いわゆるセンター通りは儲かっていたので、親たちは商売で忙しいから「ニューヨークレストランに行って、Cランチでも食べておいで」と、(そのように言われて)育った人たちが多いと思います。

 その頃、Cランチは35セントくらいで、沖縄そばが25セントの時代でした。だから高級でもあったのです。Bランチは50セントくらい。Aランチは、いわゆる公務員のボーナスが出たときの忘年会用のメインメニューでした。それくらい高価でした。60セントか65セントぐらいでした。ステーキは高くても300グラムで90セントほど、そのほか高価だったのはチキンですよ。チキンが80セントほどで出していましたから。75セントから80セント、70セントだったかもしれません。それぐらい高かったのです。沖縄の人たちにとってチキンは、なかなか食べられないものでした。(そのチキンとは)フライドチキンのことです。(フライドチキンは)ものすごく売れました。ホステスさんへのお土産やプレゼントとして売れました。沖縄の人で(米兵相手のバーなど)、そういった店で働いている人たちは、例えばホステスさんの家族は、お土産としてもらったチキンをよく食べていたと思います。だから50代や60代の人たちは、当時チキンを結構食べたはずです。(レストランに来る)アメリカ人の朝食のメインは、卵3個でした。ベーコンエッグスやハムエッグスの場合は、卵が最低3個、客の中には5個とかダブルを希望する人もいたので、卵も足りませんでした。

Aサインの制度下で

野菜の調達とAサイン

 軍から(の指定)は、やはり厳しかったですよ。当時、野菜を売るところは沖縄物産といって、中城村役場を越えた高台に沖縄物産というのがありました。そこは野菜の輸入元でした。Aサインの許可を取っていたので、そこの野菜でなければなりませんでした。(証明するものとして)そこの領収書をもらっていました。沖縄県内の調達先としては、指定された場所がありました。そこの野菜であれば使ってよいとされた場所は、豊見城の名嘉地でした。あの一帯の野菜は、米軍が許可していました。今考えると、新鮮な野菜は米軍でもなかなか手に入らなかったと思います。

Aサインの種類

(Aサインの色は)職種によって異なりました。飲食店は赤ですね。食料品店の肉屋やパン屋が黒だったと思います。Aサインバーなどが青でしたかね。もちろん大事なのは、玄関前の表示です。それを見て(お客は)入りますからね。道から(Aサインが)見えたら、米兵たちは入ってくるのです。(Aサインの表示場所は)玄関前と中に1つの2か所です。(米軍の抜き打ち検査が)1か所にでも入ると、「検査官が来たよ」と言って、みんなに合図しました。特に飲食店は、もう大変でした。きれいに掃除しなければなりませんでした。

Aサイン認定と店の人々

 例えば、Aサインを貰って商売をしている人は、まず、琉球政府の保健所の許可証を取らないといけません。それも1級を取らないといけないのです。今度は米軍の保健所が検査をして、(基準を満たしていると米軍公認の店舗として)営業が許可されました。(米軍の抜き打ち検査は)突然、週2回来ますからね。検査の基準を満たさないといけませんでした。その面では、食品衛生や公衆衛生についてアメリカに教わることができて、良かったと思っています。(検査は)厳しかったけれど。昔はテーゲー(いい加減)な制度しかなく、我々、地元の商売人たちもみんなテーゲーでしたから、(Aサインの制度下では)それでは済まされなかったのです。厳しかったです。

アメリカの食文化

 洋食の始まりはコザ(沖縄市)です。ハンバーグやピザ、アップルパイ、それからタコスやタコライスといったものは、父親の時代の1950年代にはすでにありました。ただ、コザ周辺の人たちしかそういった物は食べていない。それ以外の地域の人は、食べていないのです。その時代に、アメリカの人たちは食べていました。ステーキ用肉はニュージーランドとオーストラリア。それを輸入したのは、ハワイから来た沖縄系の2世たちでした。ハワイの人が経営するイバノミートという会社でした。日本復帰後は、県外大手の丸紅だとか日本の会社と直接契約されているから、沖縄の人は直接、輸入できませんでした。それで、初代のイバノの人たちはハワイに行きました。

コザの街と人々の生活

コザの街とセンター通り

 (当時の商店街には)組合があり、組合はわりと活発でした。例えば、アメリカ人が持ってきたドルと、B円(米軍票)を交換するところも組合で運営していました。その頃、沖縄の人はドルを持ってはいけませんでした。僕の父親は、店で米兵がB円を持っていないときには、ドルを受け取っていました。そのドルは、見つからないように隠していました。

 なぜ、コザのセンター通りができたのかということ。なぜあのような商店街が必要だったのか。それには理由がありました。(沖縄)市民会館の後ろの方に、かつて八重島という飲み屋街があり、(長さは)300メートルくらいで、そこはもの凄く繁盛していました、夜は毎日、歩行者天国でした。そこは、飲み屋だけではない商売もありました。アメリカの国会議員が来たときに、「こういう商売は駄目だと」ということになって、その街全体がオフリミッツ(立ち入り禁止)になりました。それで、米兵たちが遊べる場所を何処にするかということになり、今のセンター通りやゲート通り、中の町一帯は全部基地だったので、当時の村長さんは、その地域を解放してほしいと依頼しました。その土地で何をするのかと(米軍から)問われたので、ビジネスセンターを作るということになり、映画館やローラースケート場、お土産品店もあったり、そのような所を作っていったのです。それが(センター通りの)始まりなのです。その後、八重島で外国人相手の飲み屋をやっていた人たちが、センター通りやゲート通り、(那覇の)波の上に移りました。

 その頃、テーラー(服の仕立屋)はセンター通りにはまだなく、(テーラーが)あったのは照屋です。黒人向けのテーラーでした。(宜野湾の)普天間や伊佐から南の方には、台湾や香港系の人たちがテーラーをしていました。そこは、白人や沖縄の金持ち向けでした。縫子さんには、台湾系の人や沖縄の人もいました。(縫子さんたちは)すごく忙しく、早く仕上げないといけないので、3日〜4日間でスーツを仕上げていました。黒人街というのは、最初は城前にありましたが、城前から照屋に移りました。なぜ、照屋に移ったのかというと、センター通りができたからです。白人たちが照屋からセンター通りに移ったので、そこに今度は黒人たちが移ってきました。それで飲み屋もできるし、テーラーもできました。バーバー(床屋も)すごく多かったです。昔のアメリカ映画などを見ても、男性はすぐに床屋へ行きますよね。西部劇でも山から帰ると、すぐ床屋や風呂に行きますよね。やはり、アメリカの人は習慣的に、遊びに行くときには(身を綺麗にする)、そのような習慣があったのでしょうね。

 当時は、時計やカメラが爆発的に売れていました。お金を持っている(米軍人たちは)、日本製のいいものを買ったり、時計はオメガやロレックスなどを買っていました。ベトナム戦争の頃、(米兵たちは) 派遣までの限られた期間にお金を使い果たすと、(所持品を)全部質屋に入れていました。だから、パウンショップ(質屋)がたくさんできたのです。

基地のまちと人々の生活

ナンミン(波の上)や普天間、コザ(沖縄市)や嘉手納などの(米軍基地がある街では)そういった人たちがいたことで、お金を儲けることができ生活が成り立ったわけです。それで子どもを教育して、一人前にすることができた。それはやっぱり、米兵がいたからなのです。その辺(基地の街)の人たちにとってはね。那覇の人たちでもコザの方に来て、那覇の問屋などはコザの街でかなり消費をしていました。また、私たちコザの人はコザの店にはないものを、那覇の公設市場や問屋に行き買ってきました。それで、コザの街には多くのドルが落ちました。その金で那覇で買い物をして、那覇もそれで潤った。そういう流れですね。だから今でも、コザでは米国製品が好まれます。例えば、マヨネーズはEGGOというマヨネーズ、それからケチャップはHEINZ、歯磨きはColgate。そのような商品は、コザではまだ売れています。米国製はコザでは抵抗がないです。

1960年代のセンター通り

(僕が)高校を卒業した昭和38年当時は、国家公務員や県の職員の(月給)は35ドル以下でした。軍雇用員の場合は、40ドル以上、45ドルくらいありました。だから10ドルの差です。その差は大きかったです。沖縄そばが25セントで(食べられました)。結婚披露宴に招かれた時、当時は公民館とかで披露宴をやっていましたが、3ドル持っていたらお祝儀になりました。その頃の10ドルの差は大きかったです。だから、役所で働こうとする人は、ほとんどいませんでした。私の父親の店では、1ドルで300gステーキが食べられて、しかも、お釣りが出る時代でした。一番のピーク時では、一晩で2000ドル(稼ぎました)。Aサインの大きいバーだと、5000ドルくらい儲けたそうです。その頃、沖縄の人たちが3000ドルも出せば、家を建てることができる時代でした。昔のセンター通りのネオンを見てみてください。素晴らしいネオンで、東京の銀座なみでした。(通りの店は)ネオンで勝負をしていました。通り以外の人たちはセンター通りの繁栄ぶりを、金庫に金が入らずドラム缶に入れたと噂するくらい、店は儲かっていました。もちろん、レジには入りきらないですよ。1ドルから大きいお金までさまざまだから、レジに(店のお金が)入りきらないのは事実でした。ドラム缶に入れたという話は大げさではありますが、(店には)それほどのお金が落ちたということですね。

ベトナム戦争の影響

ベトナム戦争と街の変化

 沖縄戦が終わった後は、とても親切な米兵がいて、わりと商売もしやすかったけれど、1960年代に入りベトナム戦争が始まると、(米兵たちの)様子が大きく変化してきました。もう、野蛮というか(驚くほどの変化で)、やはり戦争は人を狂わせるという印象を受けました。センター通りの外国人相手の店では、最初の頃、みんな社交ダンスを楽しんでいました。きれいな格好をして飲み屋に行って、ジュークボックスをかけて社交ダンスをする。それを見ると、我々沖縄の人もあのようにしたいと思って、コザにはダンスホールがたくさんできました。(外国人は)夜になると、女性も男性もダンスホールへ行って踊り、それから飲み屋に行っていました。我々沖縄の人も外国人の飲み方をまねて、ジュークボックスをかけてダンスをして飲んでいました。今の70代以上の人は、男女問わず社交ダンスがとても上手だと思います。だって、ダンスができなければ男性はもてなかったのです。

 そのような時代のあと、1960年代にベトナム戦争が始まると、米兵たちは沖縄にたくさんのお金を落としました。那覇の波の上も含めて、基地のある街はみんなそうでしたが、特にセンター通りにはたくさんの人が来ました。いわゆる、芋を洗うような混雑ぶりでしたね。事件も多かったので、MP(米軍憲兵)が2人組で巡回していました。なぜかというと、ケンカやトラブルが多かったからです。そして、街の音楽はジュークボックスから生演奏に変わりました。沖縄市がコザだった時代は、ジャズの歌や演奏が多かったです。ジャズが流行ったあと、今度は裸の女性(の踊り)ですね。まあ、女性には失礼ですけど、東京や大阪から踊り子が大勢来ました。その頃は、(沖縄に来るには)パスポートが必要だったので、彼女たち踊り子は3か月間しか沖縄にいられませんでした。それら踊り子専門のプロダクションが、波の上にありました。その頃は、外国人(米兵)の中には、おかしくなってしまう人もいて、薬物をやったり、いろんなことをしていました。その時期が終わると、今度はロックが演奏されるようになりました。次の変化は、フィリピン女性の踊り子が来るようになり、それが終わると、今度はフィリピンのバンドが来ていました。そのようにして徐々に、通りの様子は変わっていきました。

ベトナム派遣の米兵を見送る

 僕は3名ほど、嘉手納基地からベトナムへ見送った人がいます。僕の父親の店は8時オープンで、毎日、店を開けた途端すぐに(お客で)いっぱいになりました。米兵相手のレストランには、中にカウンターバーがありました。そこで朝からお酒が飲める。カウンターでご飯も食べる。(彼らも)毎日来ていたので、僕と父親、ウエイトレスもみんな一緒に、彼らがベトナムに行く時には見送りに行きました。3名ほどベトナムに行きました。その人たちがその後どうなったかは、分かりません。可哀想でしたね。(お店に)来た時は、もう嬉しそうで、わいわい騒いで金も気前よく使って、とても楽しそうでした。(ベトナムに)行くとなると、しょんぼりしていてとても可哀想でした。もう、あんな姿は見たくない。(見送った兵士たちは)20代です。僕も20代でした。いやあ、戦争はもう、人種差別もよくないけれど、戦争だけは絶対にやっちゃいかんです。酷いですよ、戦争は人間がダメになる。まともな人でさえも(戦争では)人を殺すでしょう。まともな状態では、人を殺すことはできないですよ。

コザ騒動と米兵による事件・事故

コザ騒動(1970年)と米兵による事件・事故

 (群衆は)「燃やせ、燃やせ」の大騒ぎでしたね。(車から)出ようと思っても間に合あわなくて、あれだけの群集でしたから。あれはリーダーがいなかったから、(コザ騒動は)すぐに終わったのです。そうでなければ、(被害が)もっと出たかもしれません。市街地をパトロールするMP(米軍憲兵)の車の後ろには、警察官が乗っていました。その沖縄の警察官たちは、英語が使えませんでした。だから事件があっても、ただ現場に来るだけで、MP(米軍憲兵)が全部処理をしていました。だから、アメリカの方法で事件が処理されるのです。我々の商店街であった小さな事件の時には、警察官は(英語が話せる)ホステスさんに「アメリカ側は何て言っているの」と聞いていました。当時は、そのような時代でした。(沖縄の警察には)何の権限もないわけです。その状況に、みんな苛立っていました。その外国人は悪いことをしているが、警察官も英語が分からない。我々もそれほど(英語が)分からない。(事件が)悪いことだと思っていても、何もできないままの状況をとても腹立たしく思いました。

帰前のストライキ

 復帰前には、全軍労や沖教組、バスの労働組合などは頻繁にストライキを起こしていました。バスや教員がストライキだと、学校も休みになりました。全軍労も解雇の動きがあれば、頻繁にストライキを起こす。そうすると米兵たちは街に出てこない。そうなると、我々は商売になりませんでした。どうしたかというと、全軍労を何とかしなければいけないと活動しました。商店街では夜12時に店を閉めて、各店舗から一人ずつ集めていました。映画館の中に集まり、そこには指導する人がいて、「全軍労と闘わなければならない。彼らをやっつけて外国人を街に出すようにすべきだ」と言っていました。では、どうやって全軍労と闘うかということでした。(今の)沖縄市陸上競技場の所へ行くと、そこには50名くらいいたと思いますが、そこで全軍労との闘い方の練習をしました。実際にそのように闘うかは分からないけれど、とにかく参加しないといけませんでした。組合の若い連中もやらないといけないということで、そのようなこともやりました。そして実行したのです。復帰前には、そのようなこともやっていました。

若い世代に伝えたいこと

 まずは、絶対に戦争をやってはいけないということ。米兵たちが戦争から帰ってきた時の、あの喜びと、(派遣が決まり)店から帰る時のあの悲しそうな顔、僕は見たくもない。だから、戦争だけは絶対やってはいかん。僕はそれを強く言いたい。それと、戦争ではいろいろな人が犠牲になり、亡くなっていますよ。その後、沖縄の人たちはいろんな苦労をしてきました。(僕たちは)飲食店をやっていたから、アメリカ人のおかげで沖縄の食文化は随分変わりました。いいか悪いかは別にして、アメリカ文化の影響を受けて、沖縄の人々の生活はいろんな面で豊かになってきたと思います。高等弁務官という偉い人もいたけれど、それによって(沖縄の人は)いろいろと嫌な思いもしたけれど、しかし、いい事もしているわけよね。例えば、道路を舗装したり橋を作ってくれたり、いろいろやったけど、そういうことはあまり表に出ないんだよね。

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