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POSTWOR OKINAWA
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okinawa1945

しまくとぅばで語る沖縄芝居の話

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  • 1933(昭和8)年生まれ
  • 瀬名波 孝子さん(せなは たかこ)

TIMELINE関連年表

1933
那覇市久茂地に生まれる。
1942
玉城盛義を座長とする真楽座に入団し、初舞台を踏む。
1944
十・十空襲に遭い、家族とともに那覇から今帰仁の山中まで避難。
1947
島袋光裕主宰の「松劇団」に入団。「奥山の牡丹」主演出演。
1948
伊良波尹吉主宰の「梅劇団」に入団
1953
玉城盛義顧問、真喜志康忠主宰の「ときわ座」に入団
1954
夫・松茂良興栄と劇団「みつわ座」を結成
1960
映画やテレビの普及により各劇団が興行不振となり、「みつわ座」も解散となる。
1966
沖映本館の演劇にレギュラー女優として契約、連日舞台出演。
1999
沖縄県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者として認定を受ける。

STORY証言

証言者略歴

沖縄芝居役者。沖縄戦前、那覇の真楽座で初舞台を踏む。戦後、さまざまな劇団で経験を積み、役者として第一線で活躍し、多くの観客を魅了してきた。歌劇をはじめ沖縄芝居の魅力を託そうと、後輩とともに舞台に立ち指導にもあたる。沖縄県文化功労賞、沖縄芸能連盟功労賞など多くの賞を受賞。

戦時中の沖縄芝居と戦争体験

みなさんこんにちは。瀬名波孝子です。昭和8年1月16日生まれ、90歳になるお婆さんです。戦前の久茂地に生まれて、兄妹は男三人に私一人が女で、私の母は一人で私たちを育てました

戦時中における沖縄芝居の状況

私が幼い頃(しん楽座らくざの稽古で)大正劇場に通っていたころは、ちょうど戦争が始まっていて、(役者は)60才以上の先輩方だけが残り、若者たちはみんな戦争に行かされ、いませんでした。だから、残っている人たちでは動きのある芝居はできないので、戦争物をやるといって、私は子役に選ばれました。ちょうど戦争物だから兵隊さんを励ますために、頑張れよという内容の歌だったと思います。私は一節だけしか覚えていませんが、「♪昭和17・18年は、大東亜戦争の決戦の時が来た」「♪あら、決戦だ決戦だ」と、赤い衣装とブルマーで歌いました。そして、「一個の缶詰」とか「親子の別れ」とか、それは全部は覚えていないけど、主役の役が始まりました。それから、兵隊さんたちは寝る所が無かったので、芝居小屋に寝泊まりすることになりました。兵隊たちが入ってくると、芝居はできなくなりました。それでは軍の慰問に行こうということになり、そうして「南嶽なんだきぶし」を覚えて昼に練習をして、明日は慰問に行くと言っていた時に十・十空襲がありました。

十・十空襲を体験、北部へ逃れる

それからは戦争に追われ、十・十空襲で家はみんな焼けて無くなってしまったので、泊にはいられなくなりました。久茂地から泊に移ってきて、泊で十・十空襲に遭い、それから逃げてきたのが宜野湾でした。宜野湾に移っても学校には行けず、(やがて)宜野湾が激戦地になり、日本軍から今度は今帰仁に行くように言われました。宜野湾を朝8時に出てから、夜の8時まで歩き通しでした。金武の小学校だったか分からないが、軍からと言っておにぎり1つとたくあん1つが与えられ、ずっと歩き通しでした。こうして戦争をしのぎました。戦中の苦労といえば、山にいる時はどんなものでも、草なら何でも海苔のようなモーアーサ(イシクラゲ)も取って食べ、ネズミやカエルも食べました。食べられるものがあれば、何でも食べました。火を燃やす時、煙を出してはいけないと言われ、煙に気づかれると弾が飛んでくるので、腐れた木は燃やしても煙が出ないため、それでご飯を炊きました。お母さんたちは知恵があって、米を懐に入れて持ち歩いていました。山で友軍(日本軍)の兵隊たちに出会った時に、靴下に入れた米を「炊いてください」と持って来ました。山には水があっても溜められなかったので、兄さんたちは山の木をくくって、水道のように水が溜まるようにしました。そうやってご飯を炊いていました。それを見た兵隊たちは「いい考えだ、俺たちの分も頼む」と言うので、兵隊たちの分も炊いてあげました。

 それからの戦況は、艦砲射撃の音が激しくなって、沖縄を真っ黒く取り囲むように(米軍の)軍艦がきていて、動くこともできませんでした。「山から下りなさい」「兵隊であっても山から下りて生き延びなさい」「山にいたら艦砲の犠牲になるから早く下りなさい」と、米軍が(投降をよびかける)ビラをまいていました。それを信じた人たちは私たちも含め、山から下りました。信じない人は、そのまま山にいました。山から下りると、米兵たちに捕まえられて今帰仁のあちこちの家に配置されましたが、そこにも居られなくなりました。男性が多く収容されていたのは、羽地カンパン(収容所)でした。羽地カンパンには兄さんたちがいたので、私たちも羽地近くの我部祖河に移動しました。そこからカンパン(収容所)にいる兄さんたちに会いにいきました。私の母は、親戚のおばさんの子が山で亡くなったので、(おばさんを)手助けしようと母はそこへ行きました。夜、歩いて戻るときに米兵に日本兵と間違われて、母は米兵に足を撃たれました。それで(病院に)入院して、しばらく帰って来ませんでした。私と弟の二人だけになり、孤児院に入れられました。(食事は)お粥と梅干し一個だけで、お腹がすいてしょうがなかったです。今帰仁にいた時は、米軍から缶詰などの食料をもらって不自由しなかったですが、(その食料の)残りがまだあったけれど、大変なことになったと思い、お兄さんたちが軍の作業を終えてGMC(米軍のトラック)からお菓子や食べ物を投げてくれるのを、道で待って手に入れて暮らしていました。

戦後の復興と劇団

芸能の復興と劇団の結成

 その後は、那覇、金武湾と石川の収容所に分けられ配置されました。私たちは金武湾の収容所に行き、残りの人たちは石川でした。(島袋しまぶくろこうゆう先生が、石川にいらっしゃいました。私たちが金武湾にいる時に、光裕先生が戦後の俳優協会を発足させました。私は今でも、その時のパスポート(協会会員証)を持っています。「松」「竹」「梅」と劇団ができて、私は松劇団に入ることになりました。そこに、私が小さい頃に教えてくれた(親泊)元清さんがいました。(元清さんは)「生きていたんだね」と声をかけてくれました。やっと勉強ができると思ったらすぐ芝居に連れて行かれ、金武湾の上の具志川で松劇団が旗揚げしました。私は松劇団に入って、幕引きの仕事やちょっとした舞踊をしていました。そのとき先輩方が演じていたのが「奥山の牡丹」でした。先輩たちが大勢いる中に入って、ちょうど離島公演も行われていたので、伊江島とか伊平屋、久米島、全部移動公演で回りました。私は子どもの時から、親元を離れての生活には慣れていました。その頃はまだお金などは全然なかったので、大人は一升、子どもは五合のお米を報酬として貰いました。

若手の役者としてあらゆる芝居に挑戦

 他の姉さんたちは「奥山の牡丹」の話の内容を知っていたから、怖くて誰も(大役を)やりたがらず、私はよく分からなかったので、ただ無鉄砲に「歌を覚えている人」と言われたから手をあげただけで、それなら「この娘にさせてみろ」という話になり、比嘉ひが正義せいぎ先生から「この娘はおてんばだからできるよ」と言われました。私はおかっぱ頭だったからカツラをかぶって、(大人の女性のように)腰まわりや胸も作りました。そして、なぎなたを持つ場面も昼に習って、夜は(芝居)本番でそれをすると、とても人気が出ました。それからはいろんな役も務め、比嘉先生のジュリ(遊郭の女性)役とか、酔っ払いなどの役も演じて、(私は)人気が出てきました。

 そのうち、梅劇団にいらっしゃった私の師匠でもある玉城たまぐすくせい先生から「私の弟子だから、うちに来なさい」と言われ、私は梅劇団に移りました。平安山へんざん英太郎えいたろう先生 伊良波いらはいんきち)先生、偉い役者の先輩方がいらっしゃる中で、平安山英太郎先生とちょうど共演することになって、私は16歳でしたが「桃売モモウイ乙女アングヮー」のサンラーグヮーをやりました。南月なんげつ舞劇団という劇団がありました。平安山英太郎先生は米兵の部隊に(劇団で)慰問に行き、音楽や歌・ダンスなどを披露して客をたくさん呼ぼうとしました。平安山英太郎先生の奥さんがサーカス出身で、「支那の夜」の歌やダンスとか、いろいろと披露するために、「このように歩きなさい」と歩き方も教えられました。「芝居をするのに、何故こんなふうに歩く必要があるのか」と思っていましたが、先生が教えるのでやらないといけませんでした。その当時、私は15、6歳で陸上部やバレーの選手だったので運動はとても好きだったけれど、体を後ろに反ったり、足を伸ばしたりしないといけなかった。私は主役の立場だったので、平安山先生の奥さんと共演して、それからだんだんと仕事するようになりました。

 その頃、玉城盛義先生は(琉球)舞踊に打ち込むといって、(南月歌劇団を)辞める前に「ときわ座」を立ち上げました。その前には、那覇劇場で(各劇団)松竹梅が一緒になって合併して、常打ちの大きな芝居を作るという先生方の構想がありました。そうそうたる先生方がいらっしゃいました。しまぶくろこうゆう先生・じきゆうこう先生・玉城たまぐすくせい先生・宮城みやぎ能造のうぞう先生・平良たいらりょうしょう先生などの大物の役者がいらして、その方々が幹部になり、常打ちの交代で芝居をして、客入れ勝負をしようと始めました。しかし、儲けは先輩方が全部取って、下っ端はお金がもらえないので、若手の役者はみんな逃げていきました。その時に習ったのが、「はや口説くどぅち」でした。当時の若手には八木はちき政男まさおさん、宇根うねしん三郎ざぶろうさんたちがいて、先生から「お前も習っておけ」と言われて、私も習いました。

沖縄芝居の興隆と変遷

劇団の増加と競争の時代へ

 その頃から、みんな別れて競い合うように劇団が作られました。上間うえましょうせい先生などが結成した新沖縄座もその1つです。その当時の「ときわ座」には、のちの夫(まつこうえい)もいました。(そこには玉城盛義)先生もいらっしゃったので、私も先生を追って「ときわ座」に入りました。ちょっと事情があって、(ときわ座は)解散して別れました。その後、各地で30もの劇団ができて、それぞれで芝居を競い合いました。(各劇団は)お金は無いのに、お芝居で勝負しました。いろいろなお芝居があって、「ミシン幽霊」とか幽霊劇など出てきて、その当時は(幽霊劇を)安和あわ(守信)さんたちが手がけていました。これがもの凄く儲かったというので、今度は幽霊(芝居)勝負になりました。まるで戦いのようになっていて、30ほどの劇団がありましたが、今度は琉球新報社がコンクールを主催して芝居の勝負をさせることになったので、それからは(各劇団は)汗水流しながら(他の劇団には)「負けてはいけない」と勝負をしていました。

 自分たちの劇団はというと、あの頃は役者が10名いれば大きな劇団でした。(普通は)多くても7名ぐらいでした。劇団をもっていても小さな劇団だったので、芝居をするのにも一人で何役も掛け持ちしなければなりませんでした。男役やお婆さん役をしたり、主役交代でチャンバラをやったり何役もこなしたこと、それが勉強になったと思います。ずっと、そのようにしながら私たちは劇団「みつわ座」を作り、何でもやってきました。それから次第にテレビが出てきて、(当時は)白黒テレビでしたけれど、そして今度は、沖映本館(沖映演劇)が始まりました。それで、あちこちで劇団が解散して劇団も無くなっていきました。

お芝居用の化粧事情

 当時、化粧といえば亜鉛華あえんかを使っていました。私が覚えているのは、チハラ先生という病院の先生がいて(チハラ先生が)白い粉なら良いだろうと言って、(皮膚薬の)亜鉛華あえんかの粉があったので、それを先生から貰って来ました。それを白粉おしろいとして顔につけて、当時は眉を書く(道具)がないので、使用済みのマッチを使ってそれで眉を書きました。それからは知恵もついて、鍋のすすがあるでしょう。それを取って豚の脂と少し混ぜると、ちょうど眉墨になりました。だけど泣いてしまうと、顔が真っ黒になりました。(このやり方を)誰が考えたか知らないけれど、口紅は米国人家庭でハウスメイド(家政婦)をしている人とか、米国人の奥さんになった人から口紅を1つもらって、皆で使いました。頬紅は、壊れた赤瓦を石で削ると粉になります。この粉を頬紅にしていたこともありました。戦前から戦後にかけて、化粧は白化粧、眉、口紅さえあれば大丈夫でした。

沖映本館での大規模なお芝居

 このような化粧だったけれど、沖映本館での沖映演劇に入ると、川路かわじ竜子りゅうこさんが宝塚からいらして三隅みすみはる)さんが演技指導をするといって、「泊阿とぅまいあーかー」のお母さん役を募集していました。このお母さん役の(候補が)何名かいました。糸数カメさん、おやとまり元清げんせいさんの奥さん、5名ほどいました。その中で私が一番若く、29か30歳になったばかりでした。「若い母親はこの人がいい」ということになり、私が選ばれました。これはチャンスだと思い、その役を務めました。その頃から沖縄では、(役者は)給料制でお金が貰える時代になりました。それまでの芝居では、5景ぐらいしか幕がなかったのに、沖映本館の演劇は24景もあって幕の切り替えがあったので、「沖縄の芝居は映画みたいな芝居になったなぁ」と思いました。沖映本館の劇団に入る前は、ラジオ沖縄の「郷土劇」にも出ていました。それが週1回で収入が少なく、困っていたときに沖映から(話が)ありました。今までの芝居とは違って暗転で(場面が)24景もあり、これを覚えるのが大変で、脚本もこんなに分厚かったです。脚本を覚えるための期間は1週間でした。当時、舞台装置を新城さんたちが作っている間、私たちは休みなので、その1週間のうちに脚本を覚えないといけませんでした。家で米を研いでいる時に歌を歌っていると、「何しているの、お母ちゃん」と子どもたちに言われたりしました。(気が)おかしくなるほど家で歌っても覚えきれない。これの繰り返しでした。1カ月間のロングラン公演で「泊阿とぅまいあーかー」は大盛況でしたが、カラーテレビの放送が始まると、(沖映本館の)お客が急に減ってしまいました。沖映の社長は怒って「テレビがあるから客が入らない。テレビのためには絶対撮影させない」と絶対に(芝居を)撮影させなかった。「記録として残すために撮った方が良い」とみんなが話をすると、(社長は)「そうするか」と言って撮影したら客が激減したので、社長は「絶対に撮影させない」と言って、テレビの収録は一切なくなりました。(私が)市場に買い物に行くと、お店の人たちから「今回のもの(芝居)は良かったよ」などと言われました。やはり芝居は、役者とお客が一体にならないといけません。戦後まで那覇劇場では「三月遊び」というのがあって、「那覇劇場で3月公演をやらないと儲けは無いよ」と言われていたくらいです。なぜかというと、ファンの人たちが反物や差し入れに名前を書いて、それを花(ご祝儀)として舞台に投げ入れていました。芝居もできないくらいに、(物で)舞台がいっぱいになりました。そのようなことが、沖映では無くなりました。沖映では幽霊物を演じたこと、それが一番思い出に残っています。一番印象に残っているのが「真玉橋まだんばし(由来記)」。(芝居のために)舞台の上に何十トンもの水を置いて、本物の水を流して村の家々(模型)が崩れていく様子の演出があって、まるで映画のようでした。「沖縄の劇場でもこんな芝居ができるのか」と感動しました。本土でいう檜舞台のような立派な舞台に立つことができて、(私は)幸せだと思いました。宮城みやぎきち社長は(私に)「俺は宮城嗣吉として名を残すと人に言われるが、私ではなく孝子、お前こそ名を残すぞ。頑張ってくれよ」と仰いました。(観客が)一番多かったのは「真玉橋(由来記)」でしたが、特に「奥山の牡丹」は(思い入れがあります。)私は15歳で出演したけれど、当時はただ歌を歌っただけで、この芝居の中身が分かるようになったのは、自分が子どもを産んで初めて別れる辛さや親心も理解できてからです。これが本当の芝居なのだと(そう実感しました。)それがロングラン公演になって、その間1カ月と何十日くらいで、40日くらいだったと思うけれど、公演は大入り満員でした。(私にとって)芝居というものは、やる分だけ自分の得になりました。どんな役であっても、 「私はやらない」と言ったことはありません。幽霊物の公演では、「あそこは水浸しでお化けが出るよ」という話があったので、伊良波いらは冴子さえこさん・かねしろ道子みちこさんなど主役級の人たちは大勢いたけれど、「誰もいないなら私がやるよ」「生きている人が幽霊に負けてたまるか」と言って、「大島オオシマ今門イマジョーグヮー」「大島カンツミー物語」「逆立ち幽霊」「十貫ジッカンの七ツ墓」それから「識名坂シチナンダの遺念火」幽霊物は全部やりました。私が街を歩いていると「あんたはいつも幽霊物ばかり演じて、もう、幽霊孝子という名前にしなさい」と街の人たちはみんな笑って、次の公演は何かと私に聞いてきました。こんなふうに(芝居を)見る側と談笑するのが楽しかったです。

舞踊の師匠からの教え

 (舞踊には)「3つの教え方がある。素人に教える時、舞台人に教える時、辻のジュリ(遊郭の女性)に教える時、3つの教え方があるけれど、それを混同してはいけない」「お前のように舞台の人は、このように大きく踊りなさい。辻の(ジュリの)踊りは、3尺(約90㎝)の広さで踊れるようなものだ。それから、素人の一般の人には簡単に踊れるようにする。お前は舞台人だから大きく踊りなさい」踊りの先生から言われたその教えを、今でも覚えています。

沖縄芝居への思い

ウチナーグチと沖縄芝居

 沖縄芝居の中には、ウチナーンチュの肝心チムグクルが入っています。組踊などは昔の作品だから全部がウチナーグチだけど、私が「ウチナーグチを使いなさい」と言うのは、沖縄の文化を残さないといけないからです。世界中にウチナーグチを残さないといけない。今の若者がウチナーグチを「しまくとぅば」として残そうとしていることは、私は素晴らしい事だと手を叩いて感心しています。ウチナーグチを皆が分かるようになると、(沖縄)芝居も面白くなる。まずは言葉が分からないと、何の意味も分からず、(沖縄芝居をみるとき)何の楽しみもありません。沖縄の人がウチナーグチを勉強して世界中に広めていって、世界のウチナーンチュ大会がありますよね。そこで是非ウチナーグチを使って、何でもいいから話してほしいです。ブラジルでは (母親に)「アンマー」(父親には)「スー」と言っていたそうで、(ウチナーグチが)一番残っているのはあそこかもしれません。芝居をしていると、ウチナーグチの中でもいろいろと違いがあります。山原ことばで「あら大変、うちのマサルが転んだ」という言葉を私たちは覚えています。山原ことば、那覇ことば、そして芝居の中には首里ことばがあります。(当時)首里劇場で史劇をした時、「あら、そうなんですね。こんな心配事があったんですね」というように、(首里ことばは)口調が異なりイントネーションが全然違いました。「首里城明け渡し」の史劇を首里でやると、首里のお婆さんたちが楽屋にいらして「あなたたちの言葉は違うよ」「ああですよ、こうですよ」そういって教えてくれたことも1つの勉強でした。小禄には小禄ことばもあり、糸満には糸満ことばがあります。沖縄芝居を見ていくと、いろいろな地域の言葉(しまくとぅば)を学ぶことができます。

沖縄歌劇の一場面

沖縄歌劇の一場面「伊江島ハンドーグヮー」実演

【船頭主】 (ハンドー小ではないか)

【ハンドー小】 (私はどうすればよいの。死ぬに死ねない)

【船頭主】 (男に逢って、これ迄の思いを語ってくると言って家を出たのに、どうしたというのだ。男に逢ったのか。何と言ったのか。)

【ハンドー小】 (逢って睦まじく語ることが出来ると思っていたのに。恨めしいことに私に言った言葉は、「縁も愛情も何もかも散ってしまって、前に語ったことは真実と思ってくれるな。あれはちょっとの間の旅の淋しさに、仮に並べた手枕である。今から後は、縁も愛情もない。愛情の無かった時の縁だと諦めて忘れてくれ。お前の事はどうなろうと知るものか」と言って、私を振り捨てて逃げて行ってしまった。)

役者としての経験から

舞台役者としての人生を歩んで

 人間というものは、やる気があれば何でもできる。舞台に出る人がおどおどしては、何もできない。だから、舞台に出るためには、真剣になってぶつかっていきなさい。おどおどしていては演技はできない。これも私が伝えていることの1つ。他人ができることを、できないと言うことは通らない。何でもやってみて、やってみせよう。どんなことでも恐ろしいことはない。私は、何でも「はい」と言ってやります。他の人が「声が出なくなった。誰か代わりはいないか」と代役を探していたら、「はい、私が出ます」と言って引き受けます。遠慮もしないで、余計なお世話かと思うけど、(私は)芝居バカなのよ。はい、瀬名波孝子の話は以上です。

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  • 1942(昭和17)年生まれ
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戦後沖縄の美術教育

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