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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

生きて生きて 生き抜く力

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  • 1931(昭和6)年生まれ
  • 伊狩 典子さん(いかり ふみこ)

TIMELINE関連年表

1931
首里市(現・那覇市)に生まれる。
1945
疎開先の熊本から、兄とともに故郷の首里に戻る。
1948
沖縄青年連合会(沖青連)が組織される。
1951
恩師の勧めにより琉球大学事務局に勤務し、学長の秘書を務める。
沖縄青年連合会の副会長を務める。(~1954年)
1954
日本青年団協議会に研修職員として派遣される。(約5年ほど勤務)
1957
日本青年団協議会の海外派遣に応募し、中国の14都市を視察。
1973
婦人指導者海外研修(全国婦人の翼)に参加し、カナダ・アメリカ・メキシコを視察。
1982
ラジオ沖縄の「方言ニュース」のキャスターとなる。
2017
35年間務めた「方言ニュース」のキャスターを引退。

STORY証言

証言者略歴

戦後、地域の青年団活動に参加して戦後の復興に携わり、沖縄青年連合会の役員も務めた。
また、全国組織の日本青年団協議会にも勤務し、海外研修などにも参加。
長年、ラジオ番組の「方言ニュース」キャスターを務め、「しまくとぅば」の普及に尽力した。

ウチナーグチで自己紹介

 みなさん、こんにちは。私は伊狩典子と申します。生まれは首里儀保町、現在の首里儀保町。生まれも育ちも首里の儀保でございます。それから縁があって、(奄美)大島の生まれの伊狩昇さん。伊狩昇さんと出会い、これも二人の縁ですから、お互いに思い合い、私は伊狩という名前に変わりました。どうか、お見知りおきください。

疎開先からの帰郷と青年団活動

熊本への疎開

 私の友達や同級生、上級生もみんな、ひめゆり部隊として(戦場へ)行っているのに、私の場合は兄が教員だったために、しかも一人娘だったので、家ではとても可愛いがられていました。(母は)一人娘の私に対して、「今すぐここから逃げなさい」と怖い顔でそう言ったのです。それがとても印象に残っています。「娘を生かしたい」という気持ちだったと思います。父は、固い表情のまま黙っていました。私は、みんなの後押しがあって疎開船に乗れたのです。兄が教員でしたので私はその補助役として、まだ教員の資格はありませんでしたが、学童疎開船に乗りました。(撃沈された)対馬丸とは別の船だったので、それで命拾いしました。その体験があるからこそ、「絶対に戦争反対を訴える」「どんな時代が来ても私は訴え続けていくのだ」そのような反骨精神を持つようになりました。「もう絶対に戦争を起こさない生き方を、沖縄中で教えなければいけない」その強い思いを抱いて、私は疎開先から帰ってきました。私一人で取り組むには荷が重いから、同じ気持ちの人と一緒になれば心強い。1人より2人、2人よりは3名という感じでね。それが、団体に入り集団で行動する原動力になりました。(青年団活動を通して)この大切さに気づかされました。

青年団で遺骨収集

 青年団活動をしている間に、遺骨収集がありました。ただ「生きていて良かった」それだけでは済まされない。実際に行動しようということで、(遺骨収集のため)南部に青年団でカマジイ(農耕用の麻袋)を持って行きました。それは野菜や芋などを入れる袋で、私は持ったことも無かったけれど、青年団が集めて来たので、私もこんな風にカマジイを担いで

 歩き回りました。遺骨を見つけると、足の部分から拾いました。脛までの部分が分かるので、次に太腿のところ、そして胸のあばら骨。最後はその上に、頭蓋骨を置きました。ミンタマー(目玉)部分が怖くて、今は頭蓋骨を持ちきれません。当時は怖くもなく、「寒かったでしょうね」と頭蓋骨を抱きかかえました。今考えると、あの時の強さは自分でも不思議に思います。もし、今からチブル(頭蓋骨)を持たされたら、震えて持てません。当時は、「私たちの犠牲になってくれたんだね」という思いでした。男性か女性か、年寄か若者かも分かりませんでした。それが人間の死んだ姿だったのです。

 (戦争時の南部について)うちの両親から聞いた話ですが、(首里から)南部に行く時にはもう食べ物も無く、平和であれば食料を見つけて食べることができるけれど、何も無かったそうです。水ばかり飲んで、水といっても死骸がある所の水を飲んでいました。「ありがとう」も言い切れず、ただ生きるために飲んでいたそうです。これは(戦争当時の)実際の話なのです。そして道を歩く時、乗り物なんて無いので、南部まで歩いて行く時には、ポッコイ・ポッコイと遺体に足を沈み込ませながら、自分が生きるために「ごめん」とも何の感情もなく踏んづけて歩き回ったそうです。恐ろしい話ですよね。私はこのような話を聞かされているので、これはどんなことがあっても戦争反対を唱えなければならない。(どんなレッテルを貼られても)「私は負けない」私の胸の奥にはいつもこの思いがあるのです。

青年団活動への思い

 当時は「イキガのナイヤンジャー(男の出来損ない)」といって、女性が青年団活動をすると、このように言われました。それでも「やるしかない」と思って活動してきました。その頃に、友人の葉子ちゃんが弁論大会で(代表に)選ばれました。それで「ああ、仲間がいるじゃないか」と思いました。それが、私の気持ちを後押ししてくれました。今考えると、人間は(自分を)後押ししてくれる人がいたら、勇気が湧きますよね。それで私はあの頃、飛行機に乗るお金も無かったけれど、船で(本土へ向かい)日青協(日本青年団協議会)の本部に行きました。

日本青年団協議会で様々な体験

日本青年団協議会に派遣される

 東京に日青協(日本青年団協議会)の本部がありました。当時は、二宮尊徳という方が会長でした。本土にまで行って、しかもまだ青年団活動が知られていない頃に、私が日青協本部に行くことができたのは、二宮尊徳さんという偉い先生がわざわざ沖縄へおいでになって、「お宅のお嬢さんは、僕が会長としてお預かりしますから。どうか行かせてください」と両親に頼んでくださいました。私は「先生、私は勉強したいのです」「沖縄で言えないことも向こうでは(自由に)言えるのですよね。私は行きたいのです」と二宮会長にお願いしました。会長は「可愛いくて意地らしい熱意に感動した」と後で仰っていました。それで、私は両親を説き伏せて本土へ行けたのです。

琉球人と言われて

(当時の体験で)今でも忘れられないのは、私の原点である日青協という青年団の大元締めの組織には、各県の青年団から選ばれて来ている男性や女性が活動していました。でも、女性は僅かで、ほとんど男性でした。その中で、私が派遣された時(沖縄は)、パスポートが必要な時代でした。沖縄では「何で女性が」と言われるから、本土に行ったら「伸び伸びとやろう」という気持ちで、半分は(この機会に)甘えていたと思います。(ところが)どこの県とは今は申し上げませんが、とにかくある県の人が、しかも県の代表として来ている方でしたが、「おい新垣、お前はなぜ琉球人のくせに日本語がわかるのか」と言うのです。その一言が、私を奮い立たせてくれたのです。嘘みたいな本当の話です。まあ、若い皆さん方には想像もつかないような時代でした。東京では、いろいろな県の人たちとお話することができるでしょう。私は物怖じしないで、何でも率直に言うので「おい新垣、お前は琉球人のくせに」とその時に言われたのです。「何を言っているのだ」と腹が立って、「日本人に変わりはないだろう。誰が私たちを琉球人と侮辱するのか」「琉球は元々、国王(御主加那ウシュガナ志前シーメー)もいらっしゃった独立した国で、そして、今でいう留学は中国に行ったのだ」「あなた方は、そのような琉球の歴史を分かっているのか。分かりもしないのに、人を馬鹿にするな」と、私は本土の男性とも喧嘩をしていました。

海外の活動にも積極的に参加

 そもそもの私の原動力は、沖縄での(仲間たちと)交流のおかげです。私は勇気が湧きました。そして海外に飛んで、今考えるとその意地に驚きますが、お金も無い何も無いのに、結局は、皆さん方が出してくださった税金を先借りして、各地を歩き回ったわけです。そうなると、私は皆さんの代表だから、ただ漫然と過ごしていてはダメですよ。あれも勉強しなくちゃいかん、これもしなくちゃいかん。もう隅々までしっかりと、私は各地を見て回りました。

海外の視察と女性の活躍

 中国語も何も分からないのに、すぐ海外に目を向けて、まず近くの台湾に行って台北・台中・台南を回って、中国本土は14都市を巡りましたよ。外国を見て来ようということです。外国では女性差別は無く、女性の校長もいました。校長先生の話も聞いて、もう胸さわぎが止まりませんでした。「私も頑張ろう」と思いました。みんなのおかげで、私は若い頃の苦労といえばちょっと大げさですが、お金も何にも無いのにレポートなどを書いて、しかも時代が時代、その中で女性が海外へ出るという事はなかなか出来ない時代に、私はあちこち行ってきました。このような事もあって、だから青年団活動では「仲間づくりをやらんといかん」そう思ってやりましたよ。

 沖縄のことばを受け継ぎ伝える

黄金言葉(クガニコトバ)

 ウチナーンチュは「イチャリバチョーデーヌーヒダテノアガタ」、この意味はわかりますか?「会えばみな兄弟姉妹のようなもの」(という意味です)これなんです。これは、沖縄のご先祖が遺した黄金の言葉(クガニコトバ)。すごいですよ。ウチナーンチュはとても意地があり、心が優しい。この教えを私たちは受け継いでいこう、それが青年団活動のはじまりです。

ラジオ局の方言キャスターに

 (ラジオ沖縄初代の)新垣社長が「お前はウチナーグチがわかるから、方言キャスターにしよう」と言ったので、船越義彰先生がすぐに私をその会議に呼びました。そして、ラジオ沖縄の会議中にニュースや新聞の情報を見て、自分で原稿も書きました。そして「どうですか。この内容で」と原稿を確認してもらい、その原稿を、私が全部ウチナーグチに訳していました。今では考えられないけれど、あの時分は、私はウチナーグチが分かるので人の話を聞いてそれを訳することもできた。放送局は組織ですから、一応、上司に確認してもらいました。「今、皆さんがお話されたことをこういう風に書きました」と見せて、方言のものを見せても分からないから、後で全部ウチナーグチに訳しました。だから、当時は常に新聞に目を通し、その人たちが話す様子を見て、書き留めるのが習慣でした。だいぶ長い間、こんな風にして放送を担当していました。

若い世代に伝えたいこと

 生きるということは、ただ生きるんじゃない。空気を吸って生きるだけじゃない。生き抜くということです。生き抜くためには、ひもじいを思いをしてはいけない。いっぱい食べながら力をつけて、そして歩き続ける。生き続ける、「続ける」ということなのです。「生き抜く力」、私はこれがないと駄目じゃないかと思います。それには勇気が要ります。これを実践する能力。そして、今置かれている自分の立場を理解する。現状を理解する。そのためには、ボーっとしないこと。前頭葉も側頭葉も全部フル回転させて、「なぜこの人はこのように言うのだろう」と考え、「そうか」と納得したら行動するのです。(納得しなければ)私は相手がどんな偉い人の場合でも、賛成はできません。なぜか意地っ張りお婆さんのようになっているわけですが、それで何事も良い事と捉える人と、これでは駄目だと捉える人、2通りの生き方があると思います。何をするにも、何を買うにしてもお金が要ります。だから、「命の次はお金だ」とそこまでは理解したとしても、ただがむしゃらに(自分だけで)食べるのではなく、みんなで1つでも半分ずつでも分け合いながら食べる。そのような沖縄の人たちのご先祖の残した優しさ、私はこれをとても誇りに思います。チムは心です。チムフクイは、誇りに思う心。明日はどうなるかは分かりません。私は、もう1世紀近く生きてきました。それでも(私は)意地っ張りだから、200歳まで目指そうと思います。(友人たちは)志半ばに倒れてしまいました。葉子ちゃんも含めて仲間が一人減り、二人減り、私はどんなことがあっても、みんなの分まで生き抜きます。生きて、生きて生きまくります。ただ、生きるんじゃない。私は若い人に(伝えたい事は)、生き抜く力、判断する能力。ただ烏合の衆に入るのではなく、「この方はこう言った。この方はこう話された」と、なぜそのように言うのかを考えて、自分が納得できたらついて行きます。そうでない限り、反対します。私のことを「頑固な年寄だ」と、家族もうるさがっていると思いますが、ご飯を作ってくれるのは有難いし、それには感謝しています。だけど、他の問題に対しては、私は黙っていられません。「今でさえ、これだけ大きくなっているのだから、もっと大きくなりますよ、私は」と言って、聞き入れません。それほど頑固者なのです。それをするためには、生きまくることです。生きて、生きて、生きまくる「生き抜く力」。これを繋げていくことを、若い人には申し上げたいのです。

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