イメージ1_祖国復帰大行進
イメージ2_祖国復帰大行進
イメージ3_ドル交換所
イメージ4_祖国復帰大行進
POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

少年の見た日本復帰

movie_play
  • 1949(昭和24)年生まれ
  • 大城 和喜さん(おおしろ かずき)

TIMELINE関連年表

1949
南風原町に生まれる
1959
小学校5年生の頃、那覇高校で開かれた演説集会に参加。
1960
アイゼンハワー大統領の来沖時に、那覇でパレードを見物する。
1965
知念高校へ入学
1966
生徒会の副会長を務め、全校生徒に抗議集会やデモへの参加を呼びかける。
全国高校生部落問題研究会に参加。沖縄の現状について発表。
1967
2月24日、教公二法阻止闘争の現場を近隣建物のベランダから見学。
11月、「日米両政府に対する抗議県民大会」で高校生代表として挨拶。
1972
5月15日、沖縄の施政権が返還される(日本復帰)
1976
南風原町の職員として勤務(~2010年)

STORY証言

証言者略歴

元南風原文化センター館長。幼少期より社会情勢や政治問題に関心があり、大人に混じって復帰運動の集会等に参加。高校時代は、生徒会役員として多くの生徒を動員して集会やデモに参加し、代表挨拶も務めた。復帰後は、南風原町の職員として文化行政や沖縄陸軍病院の文化財指定等に携わった。

少年が見た復帰前の演説集会

少年時代に演説集会へ

 いつ頃から始まったか分かりませんが、記憶にあるのは小学5年生の頃ですね。4.28だったか、何の集会だったか覚えていませんが。那覇高校で県民大会が、あの時は県民(大会)と呼べないだろうな。何かしらの大会があるということで、夕方の5時頃、私も那覇高校に行こうと沖縄バスの大里線に乗りました。バスに乗ったのは夕方ですから、出勤や帰宅の時間でもないけれど、バスは満員だったと思います。とにかく賑やかでした。私も席に座れずに立ったままでしたが、車内のいろんな会話が聞こえてきました。その会話の中から聞こえてきたのは、「瀬長亀次郎の話は沖縄芝居よりよく出来ている」、それに相づちを打つように「そう、とても上手だよね」「安里積千代も話が上手ですよ」「違う、演説は瀬長亀次郎が一番上手だよ」そういう会話が聞こえました。おばさんやおじさん達は既に、那覇高校の演説会場で瀬長亀次郎が何を語るのか、どうアメリカを批判するのか、期待している様子が少しずつ伝わってきました。それまでは、あまり瀬長さんたちの話を聞いたことがなかったけれども、私も興味が湧いてくるような(車内の)雰囲気でした。そのバスは与儀公園方面へ、沖縄大学の前から寄宮を通って、与儀十字路から神里原に向けて右に曲がります。その曲がったところに、南港なんこう食堂というのがありました。そこで(乗客は)次々と降りるわけです。おそらく、乗客の8~9割は降りたのではないでしょうか。バスを降りた人たちの行列が、開南に向けて坂を上って行きました。私もその後ろからついて行って、那覇高校のグラウンドまで行きました。那覇高校のグラウンドは当時、一番大きかったと思います。県の高校野球大会や職域野球大会もそこが常設会場でした。県民大会や抗議集会も、ほとんどが那覇高校で開催されました。那覇高校のグラウンドは政治集会の場所でもあり、スポーツの場所でもあったのです。会場に着くと、赤旗または各組織の旗を持った人たちが大勢いました。私はどの辺りにいたか覚えていませんが、組織でもなく5年生くらいだったので、おそらくどこか遠くのところ、スタンドの1塁側あたりに階段があったので、3段ぐらいのスタンドがあってそこに座ったのかもしれません。(私は)亀次郎の話が聞きたかったので、他の人の話はあまり覚えていません。瀬長亀次郎の番になると、みんな注目していました。(瀬長氏は演説で)「米帝国主義はすぐにアメリカへ帰れ」「ヤンキーゴーホーム」と言ってジェスチャーを交えながら体も揺らして、おそらく口角からは泡が出ていたかもしれません。(演説の)一言一句、会場にいる人々は聞き逃さないようにしていました。その一言一句に「シタイヒャー(あっぱれ)」「カメジロー」と声を上げていました。(会場は)そういう雰囲気でした。(詳しくは)覚えていませんが、私も気持ちが高まっていたのでしょう。「ああ、亀次郎という(素晴らしい)人がいるな」と。まだ5年生だったから沖縄の状況はよく分かっていなかったと思いますが、そういう雰囲気の中にいれば、何とか自分も社会の動きに少しは触れられると思っていたのかもしれません。

アイゼンハワー大統領沖縄訪問(1960年)

アメリカのアイゼンハワー大統領が(沖縄に)来たのです。1960年だと、(私が小学校)4年生か5年生の時です。母が「アメリカの大統領を見に行こう」と言ったのです。その時、私はアイゼンハワーという名前さえも知りませんでした。(当時)母は織物をしていて、毎日、那覇へ反物を売りに行きました。公設市場のところです。ちょうど、母と私が(見物のために)陣取った場所が開南でした。おそらく、開南琉映という映画館があった辺りです。(道路の)両側には二重三重と大勢の人が列をなしていて、大統領は見えませんでした。拍手があったか、「大統領帰れ」という言葉もあったのか、はっきり覚えていません。ただ、その渦の中にいて、大統領のパレードがあったことを覚えています。それで(小学校)5年生ごろから、復帰運動や政治への関心が少しずつ芽生えていった、もしくは芽生えさせられた感じでした。

当時の沖縄の雰囲気

 目の前の事しか分かりませんでした。沖縄全体は見えませんしね。那覇高校であった演説集会の雰囲気に浸ると、5年生ながらも正義感みたいなものが出てきたのだと思います。(沖縄側からみれば)悪ですよね。その頃のアメリカというのは。やはり沖縄が正しいのだ、沖縄から出て行け、悪者は出ていけという雰囲気でしたから。

知念高校の生徒会役員として

知念高校に入学

 1964年が東京オリンピック、(当時私は)中学校3年生でした。翌年の4月に、知念高校に入学しました。けいしゅんという先生がいらっしゃいました。儀部先生は生徒会の顧問ではなかったと思いますが、それなのに私に指示したのです。「あんたは生徒会の副会長をやりなさい。会長は新川朝清君だ」そう言ってすでに決めていました。儀部先生は非常にユニークな方でした。教卓があるでしょう。講義をするときのテーブル、その上にこうやって乗るのです。短靴(革靴)を外して、靴下のまま足をぶらぶらさせながら、儀部先生は授業をしていました。非常に面白いのです。これが。世界史の授業が。それが何となく、生徒と非常に近い存在のように感じられました。私は世界史も好きだったので、(儀部)先生も好きになりました。だから「(副会長を)やりなさい」と儀部先生から言われたら、即答ではなくても「やりましょう」と言うわけですね。

抗議大会への参加呼びかけ

 生徒会の仕事はいろいろありましたが、その中で一番重要な役割は、4月28日の集会参加です。4・28大会の時に、全校生徒に呼びかけて参加させたことがありました。私は生徒会ですから(4.28大会に向けて)「部活動は全部中止してください」「与儀公園に何時集合です」と呼びかけました。その頃から(集会場所は)与儀公園でした。当時の与儀公園は大きくて、今の何倍もありました。7~8万、10万人ぐらい入る広場だったのです。「そこに何時集合だ」と言って、全校生徒に参加を呼びかけました。(当日)与儀公園へ行ってみると、600名ぐらい参加していました。当時(の知念高校)は、普通科6クラス・商業科2クラス・家政科2クラス(合計で)10クラスありました。それが1年から3年まで30クラス、全校で1200~1300名ほどいたと思います。そのうちの半分、またはそれ以上が与儀公園に集まったのです。そこではみんな学校ごとに並び、糸満高校も同じぐらい来ていました。その他にも、首里高校・辺士名高校・コザ高校・前原高校からも来ていました。私たち生徒会の役員は、整列させたりしていました。

 大会の演説が終わると、与儀公園からひめゆり通りを通って、安里から国際通り琉球政府前までデモ行進をしました。(当時は)与儀公園での大会や集会が終わると、次はデモ行進に移ります。各組織・労働組合先生方のグループ、学校ごとに行くのです。私たちは、知念高校の先生たちの後について行きました。おそらく、高教組の知念高校分会があったのでしょう。儀部先生たちが先頭になっていました。私たちはついて行くという感覚ではなく、(先生たちの)後ろからだけれど、「自分たちが主役だ」という(思いは)ありました。600名というと相当長い列になりました。おそらく、横に4列か5列ぐらいになっていました。(道路は)もちろん通行止めです。私たち生徒会役員は、3~4名でマイクを持って「ワッショイ(かけ声)ワッショイ(応答)」「ワッショイ、ワッショイ」とやるのです。それが終わって疲れてくると、「はい、次はフランスデモ」と呼びかけます。フランスデモは、手を繋いで道幅いっぱいに広がりながら穏やかに優しく歩くのです。そしてシュプレヒコールと言って、私たちが「ヤンキーゴーホーム」と言うと、みんな一斉に同じように言いました。「ベトナム戦争反対」と言ったら、(一斉に)同じ言葉で返しました。

 国際通りまで来ると道路の週辺には通行人も大勢いて、みんな拍手をしてくれました。応援の拍手を受けて、(気持ちが)さらに燃えました。(その時は)何と言うか、生きがいを感じるような、自分たちの存在が認められているというか、自分たち自身が(主体的に)行動しているんだとそういう意識が次第に高揚していきました。集団とは(そのようにして)連帯していき、「(皆で)やっていこう」という思いが徐々に高まっていって充実感につながるのだと思います。

 翌日、学校に行くと(お互い)デモの日は何処にいたのかなど、そのような会話をしました。生徒会に言われただけでは誰も(集会やデモには)行きません。参加することで、やはり楽しいと言うと少し変だけれど、非常に燃えるものがあって充実感があるからだと思います。歌というのはすごい力を持っていますよ。「固き土を破りて…」(『沖縄を返せ』歌詞)や「頑張ろう…」(『がんばろう』歌詞)と歌うと、「みんなウチナーンチュは一緒なのだ」「これで事にあたっていこう」という(気持ちになりました)。そういう場にいると、高校生であっても非常に充実感があって生きているという実感がありました。

儀部先生について

 (儀部先生は)物の言い方が非常にストレートでした。だからこそ非常に愛着が湧くし、理解できるのです。自分たちと非常に近い存在(のように感じていました)。(儀部先生は)ぶっきらぼうだけれど、とても愛情が感じられる先生でした。(生徒に対して沖縄に対する思いとか)そういう講義はしませんでした。現場を見るよう参加するようにという感じでした。(儀部先生は)自分の理論は話しませんでした。話すと(生徒は)ついて行かなくなったかも知れません。とにかく儀部先生は現場に(生徒を)連れて行って、生徒自身に感じさせたり、学ばせる教育をしていた。(それは)人間教育で、政治教育だけではなくて、自分で感じ取りなさいというやり方だったと思います。

教公二法阻止闘争の現場を見て

教公二法闘争

 教公二法阻止闘争は(1967年の)2月でしたね。教公二法阻止闘争は、抗議集会のように夕方からの開始ではなく、立法院議会の開会は10時なので(立法院前に)朝早くから集まりました。だから、恐らく先生方も何割年休という(方針のもとで)行ったと思います。(知念高校からは)私一人指名され、そこへ参加しました。「あなたは見ておきなさい」という感じでした。見る必要がある、勉強にもなるという意味だったと思います。私も休みを取って、(立法院前へ行きました。)

 (当時の)立法院は今の県警本部がある辺りで、その向かいにはレインボーホテルがありました。そのホテルの3階あたりのベランダには、10名ほどの人がいました。そこは1番良く見える場所でした。機動隊と先生方がぶつかり合い、波のように揺れていました。何回か(こんな場面も見ました)。機動隊は立法院前にいて、後ろが立法院の建物で、教職員組合が入れないように機動隊は(建物前に)立っていました。群衆が雪崩のように機動隊に向かって押し寄せると、機動隊が一度引いてまた少し押し返す。その様子がよく見えました。そして何回か(見たのは)、先生方が機動隊をごぼう抜きにするところです。ごぼう抜きは(その名のとおり)ごぼうを抜くように、構えている機動隊を一人つかまえては5~6名で引っ張り出して、こっち側に寄せてくるのです。これがごぼう抜きです。それが一人成功すると、それを見ている私たちもホテルから「(もっと)やれ、やれ」と手拍子や歓声を上げていました。それが何回かありました。だから、絶対的にデモ隊の方が有利でした。機動隊は何百名かで、こっちは何万といるでしょう。数で圧倒していたので、先生方や労働組合などの阻止行動によって、(教公二法の法案)は廃案になりました。立法院の議会が開けないため、それで廃案になりました。教公二法というのは、二つの法律のことです。教育公務員特例法ともう一つ(地方教育区公務員法が)ありました。その中に、先生方の政治活動を制限する内容が含まれ、それに反対したわけです。あの頃は復帰運動も盛り上がっていたので、教公二法阻止闘争も同じようなものでした。復帰運動の一環みたいなもので、自治権改革拡大活動です。それで先生方が勝って、廃案に追い込んだという場面。その現場を見ておくようにということだったと思います。儀部先生は自ら理論理屈は仰らないけれど、「現場で学びなさい」という(考え)だったと思います。先生は何も言いません。終わった後も「見たでしょう」とも言わない。どうだったか何も聞かない。だけど、それが良かった。「感想文を書け」など言わない。儀部先生の人間性というか、そこに魅かれていきました。だから先生方が手を引っ張って、高校生たちを政治的なことにも関心のあるような沖縄の青年たちに育てようという、高教組(高等学校教職員組合)においてそういう方針があったのかも知れません。(それで)儀部先生には、あちこち連れて行かれました。

沖縄の高校生代表として

抗議集会での高校生代表挨拶

 1967年11月これはおそらく、佐藤総理が沖縄返還協定の取り決めに行くが、しかし(協定の)内容はほぼ明らかで、訪米を阻止する。(アメリカに)行かさないという抗議の集会だったと思います。「今度は与儀公園だからね」と儀部先生は言いました。「今度は与儀公園だからね」それだけで意味は通じました。与儀公園というのは、新聞などを見れば抗議大会があるということが分かる。佐藤首相訪米阻止の抗議大会があって、その会場は与儀公園でした。(先生に指名され)代表挨拶を考える必要がありましたが、先生は何も指導しません。(挨拶は全部自分で考えて)儀部先生は指導しませんでした。任されてというか、よく言えば信用されていたのかも知れませんが、先生はこういう指導はしない。原稿も見ない、(挨拶原稿の)チェックもしなかったと思います。とにかく、「何分程度だから」とそれだけ仰ったと思います。

 記憶は定かではないけれど、最初の言葉だけは覚えています。「私たちは戦争を知らない。私たちは戦後の生まれである。しかし、親や先輩、学校の先生達から戦後の沖縄の状況を学んできました。その中で私たちは、今の沖縄の現状を知るようになりました。だから、高校生の私たちもそういう関心を持って抗議集会に参加するようになりました」ということだったと思います。私だけでなく、他からも大勢の高校生が参加していたので、コザや普天間、糸満の学生たちもみんな先生方や親たちから習ってきている。これは私だけではなく、参加学生みんなの事を言っていたのです。(米軍がらみの)事件事故もあったでしょう。(沖縄の)そういう状況下で私も生きてきたので、高校生であっても、そういう思いを伝えたいと思うようになりました。(内容としては)そのようなことを言ったと思います。

 大型トラック3台分の荷台が演壇になっていたのを覚えています。(参加者の様子は)壇上に立った私の方からは見えませんでした。とにかく大勢の人でした。(その中で) 聞こえた言葉があります。座れないぐらいの人がいたので、司会が「どうぞ座ってください」と言うと、ある所から「土地がない」と返ってきました。(その返しは)見事だなと思いました。当時は土地収用の問題があったので、あちこち土地を取られているでしょう。昆布(現うるま市)とか。「座る土地がない。土地を返せ」と聞こえてきました。(会場では)拍手が湧き起こりました。それで、大会が非常に盛り上がっていきました。(私の場合は)演説というより、ただ話をしたという感じです。反応はよく分かりませんが、兄弟からは「よくやった」と言われました。人の前で話すのはそんなに苦ではなかったです。やはり、儀部先生が(私に)そのような経験をさせたのは、「君も将来は沖縄で頑張りなさい」という意味が込められていたのかもしれません。

同和問題の全国集会へ参加

 儀部先生が、「今度は京都だよ」と仰いました。京都に行くまでは、当時その問題は沖縄ではあまり知られず、私も分かりませんでした。部落問題というもので、非人ひにん、同和教育や同和部落などの問題があり、(京都で)その部落の人たちの高校生の全国集会がありました。「それに私と一緒に行こう」と(儀部先生に)誘われました。連れられて泊港へ行きました。(本土へ行くには)パスポートも持って、予防注射も必要でした。ひめゆり丸という船に乗って、17時間で鹿児島港に着きました。よく覚えています。(駅から)8時23分の霧島2号大阪行きに乗車しました。(全国大会には)14府県218校、およそ1590名が参加していました。これは部落問題の規模の大きさというか、深さをあらわしています。だから、どこでも部落問題があるということだと思います。

 1日目はその分科会、2日目に全体会があって、私はその全体会の中で沖縄からの報告というテーマで発表しました。私が話したのは、その頃の沖縄の現状や政治の状況です。その頃は確か、「友利裁判」というのがありました。「サンマ事件」もありましたが、友利裁判とサンマ事件は別です。「友利裁判」とは、立法院議員に当選した友利さんが無効にさせられて、それで訴えた裁判です。裁判直前になったら、米軍の裁判所に移送されるという裁判移送問題。サンマ事件も同じく、裁判が沖縄の裁判所から米国民政府の裁判所に移されたのです。その問題あったので、そういう話をしたり、高校生活でも(基地からの)爆音で授業が中断したり、色々な事件や事故が起こっていること、そういう話をしました。

 (同和問題を学ぶのは)初めてでした。やはり、これは差別の問題です。沖縄も日本政府から差別をされている。(同和問題と沖縄の問題)どこかでは繋がっているという認識を、儀部先生は私に学んで欲しかったのだと思う。差別の問題だから、本土にもそういう部落差別があり、沖縄に対する差別ともどこかで繋がっているはずだから、沖縄の高校生であっても日本の高校生の問題も学びなさいということです。私は京都の大会で、日本の高校生とは繋がり合えないと思っていました。距離も遠いし、交流する場もないので。ところが、(参加して)繋がると思いました。連帯感というような仲間意識が芽生えるのです。お互いの問題を共通理解するということ。現象は違うけれど、根っこはどこかで繋がっているということ。儀部先生もそのことを私に学び取ってほしかったと思います。それが分かる教育だよ。すごい教育者だよね。今考えると、「啐啄そったくの機」という言葉があります。鶏の卵から雛がかえるでしょう。雛が孵るのは、親鳥が外から温めて(殻をつつく)からだって。温めないと割れないらしいです。(殻の内側からも)雛がつついている。親鳥が温めて殻をつつく、殻の下から雛鳥がつつく。それが同時になると、卵から雛が孵る。それを「啐啄そったくの機」と言うそうです。今振り返ってみると、おそらく先生方は、私を雛から孵したいと思って優しく見守る、リードする。引っ張っていくから、あなたはあなた自身で学びなさい、自分で(殻を)叩きなさいと。先生方はそのようなことは全然言わないけれど、今から考えると、そのような先生方の接し方、これは教育の奥の深さだと思います。高校時代は、先生方が引っ張りながら(生徒は)勉強して少しずつ目覚めていく。先生方がそのリードをしてくれたという、そういう生徒と先生の信頼関係がありました。

若い世代へ伝えたいこと

若い世代へ伝えたいこと

 今は、(子どもたちは)新聞を読まないかも知れませんね。テレビのニュースもあまり見ない。スマホの暮らしになっているので、親子の話もあまりしない。ましてや親たちも、沖縄戦の体験者ではない。お祖父さんたちも、もう体験者ではない。私たちの世代も体験者ではないから、その中で、まず身近なものは、今も沖縄は変わっていない状況です。変わったようで変わっていないから、まず、身近なものに興味を持ってもらいたいです。まず、新聞ぐらいはちゃんと読むような家庭の雰囲気(を作って)、そこから入って行かないと、いきなり「勉強しなさい」ではなく、いきなり「映像を見なさい」ということでもなく。まず一番大事なことは、感性を育てることです。悪いのは悪い、良いのは良い。それは戦争だけではなく、感性豊かに育てれば戦後の状況や戦争の問題について、絶対感じ取れるように学べるようになると思います。だから、(沖縄の子どもたちには)感性豊かな子に育ってほしい。何でもいいから本を読んだり、感性を育てれば、沖縄戦とか(興味が)そこまで行く可能性が高いと思います。

RELATED関連記事

教育復興を目指した沖縄の教育者たち

  • 1938(昭和13)年生まれ
  • 石川 元平さん(いしかわ げんぺい)

戦後沖縄の美術教育

  • 1932(昭和7)年生まれ
  • 稲嶺 成祚さん(いなみね せいそ)