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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

教育復興を目指した沖縄の教育者たち

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  • 1938(昭和13)年生まれ
  • 石川 元平さん(いしかわ げんぺい)

TIMELINE関連年表

1938
東村字有銘に生まれる。
1957
辺士名高校を卒業後、代用教員として有銘小学校などに勤務。
1960
沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成される。
1960
沖縄教職員会に採用され、総務部付けで屋良朝苗氏の秘書を兼務。
1967
2月24日、教公二法阻止闘争に参加。
1968
初の行政主席選挙が実施され屋良朝苗氏が当選。
1971
沖縄教職員会が解散。沖縄県教職員組合が結成され、総務部長となる。
1972
5月15日、沖縄の施政権が返還される(日本復帰)
1983
沖縄県教職員組合中央執行委員、原水協常任理事などを務める。
1991
沖縄県教職員組合執行委員長となる(~99年)

STORY証言

証言者略歴

元沖縄県教職員組合執行委員長。沖縄教職員会や沖縄県教職員組合の職員として多くの役職を歴任し、長年、戦後沖縄の教育復興や社会問題の解決に尽力してきた。初の公選主席となった屋良朝苗氏の秘書も務め、屋良氏の人物像やその理念を良く知る人物である。

沖縄教職員会の活動

沖縄教職員会とは

 沖縄教職員会は、アメリカの占領支配下で、戦災に遭った沖縄の教育復興と教育復興のために、幼稚園から小学、中学、高校、それから大学、公私立を含めた(教職員や関係者の)網羅組織でした。屋良(朝苗)先生は、これを一番大事にしたのです。これが、今のオール沖縄に繋がるようなお考えを持って、組織化された教職員会でした。戦後の沖縄では、政党や労働組合等、民主団体含めてまだ力が弱かった時代でした。加えて沖縄教職員会は、教育復興を目指して非常に活気があって、また、戦災校舎復興運動等を担い、頑張った(組織)という印象でした。そこに屋良ちょうびょうという、優れた指導者がおられたことも、この組織や県民、子どもたちにとっては、非常にありがたい存在だったと思います。1947年に、沖縄教育連合会という沖縄教職員会の前身にあたる組織が、(この場所にあった)教室二棟ほどのコンセットに教育会館をおいて、そこから出発したあと、沖縄教職員会が結成されたのは1952年4月1日、この場です。1954年の暮れに教育会館が久茂地に移って、アメリカ側からのいろいろな妨害を受けながらも落成したあと、本格的な教育復興運動等に取り組み始めた、という話を聞いて参りました。

教職員たちの活動

 (当時は)アメリカの占領支配下ですから、教育復興、子どもたちのことが最優先ではありましたが、いわゆる沖縄の基地問題も、基地(軍用地)の囲い込みから始まり、特に1956年をピークに、島ぐるみの土地闘争に発展しました。これにも、教職員は深く関わっていました。(全沖縄土地を守る協議会)この結成は、教育会館のホールで行われました。そして、(全沖縄土地を守る協議会の)屋良朝苗が会長となり、伊江島の阿波根(昌鴻)さんが事務局長でした。こういうことなどを含めて、若い教職員は、(地域の)青年団にも入っていました。私も、小さな村の青年団会長を務めた経験があります。1951年9月8日、(講和条約の調印)に向けて、日本復帰を求める署名を国連に届けた。この運動の中心なども、青年団が担ったということも聞いてきました。また、そういう記録を(私は)学んできました。

戦後沖縄の教育課題への取り組み

教育四法民立法運動

 戦後、日本本土においては憲法ができて、沖縄の我々は(米国統治下にあり)参加できなかったけれど、教育基本法(制定の要旨)には「憲法の理想の実現は、根本において、教育の力にまつべきものである」とあり、非常に納得がいくような(制定の理念でした)。(それが適用される)体制の中に、沖縄はおかれていませんでした。これに抵抗するかたちで、教育基本法をはじめとする学校教育法、社会教育法、教育委員会法、この四つを指して教育四法と言われておりますが、わけても、占領体制のアメリカにとっては、(沖縄の)日本との接触を非常に嫌いました。ましてや、日本教育を行うことは、好ましく思っていませんでした。ところが、学校で使っている教科書も教職員が中心になり、(本土から)輸入して、琉球文教図書株式会社を1950年に作ったのです。商売人ではなく、学校の教員や教職員会(を主体に)、それから共済会が大株主、個々の教員が株主になって、琉球文教図書株式会社を設立し、教科書を輸入していました。その取り組みにもみられるように、日本本土の教育基本法に見合うようなことを、何としても、アメリカが支配している沖縄でも実施しようということでした。当時の中央教育委員会は、今の沖縄県教育委員会にあたり、今の県議会に匹敵するものとして、立法院がありました。いずれも全会一致で教育四法を通したいということでしたが、ところが、これは拒否されました。その理由を言いますと、教育基本法の中に、「日本国民として」という7文字を前文に入れたのです。これを、アメリカは気に食わなかったわけです。二度にわたって拒否されました。普通は立法院で通ったものは、当時の比嘉秀平行政主席が署名すれば、法律になっているのです。ところが、(比嘉主席は)署名できなかった。それで、二度にわたって廃案になる。これが三度目で実現したのは、1958年1月10日です。その前日に、屋良朝苗教職員会長のもとに、高等弁務官の使者が来ました。「教育四法の立法が、三度拒否されたらどうなるか」ということで、屋良朝苗会長の意思を確認したそうです。「これ(教育四法)が拒否された場合は、徹底的に闘う」ということ。これが立法化されたら、学校現場はとても落ち着くとの説明を受け、使いの者が屋良会長の意見を高等弁務官に報告をしました。(教育四法の立法化は)その翌日だと言われています。これが1958年1月10日に公布されました。アメリカが施政権を持つ沖縄で、日本人としての教育が行える法律ができました。

義務教育費獲得に向けて

 (1965年)日本の総理大臣として初めて、佐藤総理が沖縄に来ました。その前年には、義務教育費獲得期成会が組織されました。日本国憲法で、義務教育は無償とするという規定があるのですが、沖縄の子どもたちや教員は、全くその恩恵に浴していない状況でした。当然 (日本)政府の方にも要請していたと思いますが、義務教育費の国庫負担、そして教員給与の半額負担、これが一番大きかったのですが、一番に目立った内容は教科書の無償配布です。これらを、佐藤総理が来られた時に、義務教育費獲得期成会長として屋良朝苗が陳情しました。屋良朝苗教職員会長及び期成会会長(の陳情)に対しては、「イエス」というサインが出たので、翌年からこれが予算化されて(教科書無償配布等が)結実しました。

戦災校舎復興募金運動と「愛の教具」

 (1952年教職員会が中心となり)、沖縄戦災校舎復興促進期成会を結成しました。そして、構想を全国にアピールして、膨大な募金を集めようとしていました。東京を中心とした(沖縄)県人会、それから、沖縄と縁のある多くの一流の学者たちと屋良先生は繋がりをもっておられました。吉田えんさんという南方同胞援護会の事務局長を務めた方や、(早稲田大学総長を務めた)大濱のぶもと先生はもちろん、そういう方々とも連携をとって、本土の方にもそれを受け入れる態勢を作りました。それで、北海道から鹿児島まで、6か月間を要する(募金活動で)、「全国行脚」という言葉が、当時はよく使われましたが、それが約7000万円近く(集まりました)。沖縄県内でも、募金が進められたようです。本土から連絡が来て、(募金を)いざ受け取りに行くという時、受け取りに行けなかったのです。それは何故かというと、アメリカ(琉球列島米国民政府)は、気に食わなかったわけです。ご本人からもお聞きしましたが、屋良朝苗の訴えたことの一つは、沖縄戦で灰燼に帰した学校の教育条件整備の中で、一番大事な校舎が馬小屋校舎(という状態)。(写真を収めた)アルバムを作製して本土へ持っていったのですが、(戦災校舎が)こういう状態であるという訴えのほかに、即時の日本復帰を希望しているということを訴えたのです。これがアメリカを刺激するということに繋がって、屋良を沖縄から出さないようにと、税関などに強い達しが出た。(渡航が不許可となり)受け取りに行けなかったのです。(備品調達は許可されたので)それで、いろいろな知恵を出して、そういう状況になったので(沖縄教職員会が)各学校へ、(教育用具は)何が欲しいのかを聞き取りました。(学校からの要望は)まず、図書でした。それからオルガンやピアノ、それから跳び箱などの体育用具。それから理科実験器具などでした。一部では、真鍮で作られた鐘もありました。(募金の使い道が)このような教具に変更され、戦災校舎復興運動から「愛の教具」になりました。写真としても、記録が残っています。

教育会館の設立理念と役割

教育会館の変遷と慰霊について

 久茂地の教育会館が解体という憂き目に遭いましたが、教育会館は、戦後のあらゆる民主運動の歴史が詰まったような(建物でした)。1954年からよく持ちこたえて、取り壊しが一昨年(2021年)でした。(教育会館の)設立理念とは、「教え子を戦場に送るな」という昔と同じ決意なのです。そして、多くの遺族戦争体験者や団体が、(糸満の)摩文仁にたくさんの石碑を建てています。教育関係者の(戦没者)についても、石碑にするという話があったようです。戦後の早い時期に、この慰霊塔や石碑の話も出たものですから、実際にこれらの話を進める段階で、旧市町村別に(調査が行われました)。沖縄には12地区の教職員会があったので、その12地区の教職員会から、直接調査に行くのは各学校を通じて(教育関係戦没者の)調査をしています、その記録はちゃんと残っています。(教育関係戦没者の)慰霊祭は、1952年に大道小学校のグラウンドで行われた慰霊祭から始まりました。

久茂地の教育会館と慰霊室の設置

 沖縄的な祀り方といえば、やはり仏壇です。国民学校の1年生から師範学校の校長に至るまで、(多くの戦没者を)どのような祀り方をしようかと(考えた)場合に、(相応しいのは)教育会館を建て、そこに慰霊室を作ることでした。(慰霊碑を)外につくった場合、日々、行くことはできません。しかし、沖縄の仏壇ならば、朝夕に接することができます。(建設の目的の一つは)誓いです。反戦平和の拠点として、世界に発信するという強い思いがあったようです。もう一つは、アメリカが(教職員会の)活動に対して妨害をしていたので、(そのために)教職員が結集する拠点として、久茂地の教育会館は建設されたのです。あの会館は、教職員会だけが使ったのではなく、1956年の島ぐるみ闘争の時は、準備から結成大会までホールでやっているのです。当時は、会館などの施設が少なかったということもあるのでしょうが、いわゆる教育や子ども、県民課題実現のために(沖縄教職員会が)果たした役割は、あまりにも大きすぎた。そのようなこともあって、沖縄教職員会の歴史や足跡は、沖縄の歴史そのものだと言われるほどの会館でもありました。

過去の反省と誓いの場として

 (沖縄戦に動員された)21校の「全学徒の碑」も、摩文仁に建立されました。この一つの反省としては、教え子を戦場に送り出したことです。(ひめゆり学徒隊として)この場所からも、教え子を送り出したのです。だから、ひめゆり学舎の跡なのです。ここは、その一角なのです。教え子たちを戦場に送り出した過去の反省と、現在は「教え子を戦場に送らない」という誓いの場としてふさわしい場所です。時代が移りましたけれども、新たな決意で、そしてこの場で、反戦平和教育において我々ができなかったことそれを担って、子どもたちの命、また県民の命を(守るための)意思を引き継いで、頑張ってほしいという思いです。

教公二法阻止闘争の現場で

教公二法阻止闘争

教公二法というのは2つの法律のことで、1つは地方教育区公務員法、そして教育公務員特例法。この2つを指して 「教公二法」と呼んでいます。私の記憶では、本土では勤評闘争(勤務評定反対闘争)がマスコミ等に取り上げられて、(世間の)関心を呼んでいました。そこで全国的に問題になったのは、1つめは、ストライキなどの争議行為を禁止するということ。2つめは、勤評です。勤務評定をするということ。3つめは、政治行為を制限するということでした。沖縄では、その中でも政治闘争禁止で、最初は(禁止ではなく)「制限」だったのですが、これが最終的には「政治行為を禁止」ということになったのです。数年がかりの闘いの中で、一時期は「民主的な教公二法ならいいだろう」と、そのような話も内部でありました。ところが、アメリカの意を体しての立法化ですから、当時は松岡(行政主席)で、与党は自民党ではなく、民主党でした。そこで、アメリカの要請に応えて、これを強行しようとしたのです。

 1967年2月1日、立法院開会の冒頭に、高等弁務官が来て(演説する予定でした)。アメリカでは大統領教書というのがありますが、それを受けて、琉球におけるアメリカの施政方針演説、ゼネラルメッセージと記憶していますが、これができなかったのです。2万余りの人々が、立法院の建物を取り巻いていていました。おそらく当時、アンガー高等弁務官は(米国民政府庁舎に)来たと思います。そこから(立法院前の)その状況を見ているのです。これが、非常によかったと思っています。後のアンガー高等弁務官の判断に、影響を及ぼす事態だったからです。こういうことで(教公二法阻止闘争が)高揚していき、最終的に2月24日。僕らが覚えている2・24は、1967年のことです。教公二法案の採決阻止をして、廃案協定を勝ち取った日です。

立法院前での抗議活動(1967年2月24日)

 当時、全琉から集めたおよそ900名の警察官がいました。全員集めても1000名に足らなかったでしょうが、(デモ隊が)立ちはだかって確保したら強行できそうですが、ところが、その前段の未明には、特に女性教師などは(機動隊に)蹴散らされたそうです。その中には、実は夫が警官で妻が教師だとか、または師弟関係もあるわけです。それは後で、様々な問題が出てきますが、(立法院前の)ラジオの実況放送はまるで野球の実況放送のようでした。また、それを聞きつけた多くの一般人も参加して、最終的に2万5000人です。本島周辺の教員を集めても9000名ぐらいしかいないなかで、2万5000名の人が集まったのです。県労働組合協議会はじめ、民主団体や政党関係者もたくさん来ていました。いろいろ伝え聞くところによると、一般の人たちにも「僕も行ったよ」と言う人が大勢いました。(抗議する)万余の人たちに対して、警官隊が立ちはだかっている状況で、「ワッショイ ワッショイ」と押し合うと、波打つように揺れていました。そして、(デモ隊側が)引き返す力で、警官隊をごぼう抜きにしていました。(ごぼう抜きにされて)1人、2人と、前線の警官隊はみんないなくなりました。それで、勝負は立法院外で決まったようなものでした。このような駆け引きが続いて、夕方になっても皆帰りませんでした。「廃案を勝ち取るまでは帰らない」という、強い思いを持っていましたから。(この阻止闘争の結果)文書にしての廃案協定、何月何日まで歩み寄りできなければこれは廃案にするという、このような協定を勝ち取ることができたのです。それは、復帰運動に対して教職員会を抑え込もうとした、いわゆる(アメリカの)狙いは外れてしまったということです。当時の沖縄の状況下における、歴史的な意義は大きいです。「教公二法闘争の阻止なかりせば、どうなっていたか」というように、教公二法阻止闘争が、1972年の沖縄の日本復帰において、最大の原動力になったという評価を、(『教公二法闘争史』に)僕は書いています。アンガー高等弁務官は、1968年2月1日の弁務官演説で、(行政主席の)公選を認めることを表明しました。(それまで)主席公選任命阻止闘争という、血を流すような大変な争議がありました。だから、そのような闘争なく、戦後初めて、県民に対して(主席公選の)直接的な選挙が実施される。それが、教公二法阻止闘争の翌年の出来事です。

教職員組織が果たした役割

 (教職員の取り組みは)県民や子どもたちの人権を擁護する。そして、土地闘争もあるけれども、県民課題を(解決することでした)。貧乏で財政力もない琉球政府が、教員の待遇改善どころではないのです。(改善したいと)思っても、できませんでした。米国民政府側は、「民政第一」としていました。民政が第一と言っても、(実際は)軍事優先です。軍用道路1号線(現在の58号線)に象徴されるように、軍事優先でした。民政第一といっても不十分なまま、教育はなお見捨てられていました。(日本国)憲法で義務教育無償としているが、沖縄に全く施しがない状態の下で、直接、義務教育費獲得のため、教科書無償配布だとか教員給与の半額負担だとか、具体的な(要望が)出されたので、(日本政府では)翌年から予算化されていくのです。教科書の無償配布を、一般県民や教職員も一番喜んでいました、復帰前の1965年です。アメリカ支配下の27年の中で、(実現できたこと)それを考えたら、いかに前進をしていたのか。そして、結集すればこのようなことが勝ち取れるのだということ。(教職員組織で)このような金字塔を、いくつも打ち立てて来ました。とにかく、アメリカの占領支配下にあって、それに抵抗するような運動をしてきた団体でありましたから、非常に厳しい時代もあったけれど、それを乗り越えて、また、県民、世論が支えてくれたことが一番大きかったと思います。

屋良朝苗氏の人物像と沖縄への思い

屋良朝苗氏について

 屋良先生は、県民に対しては「二度と国家権力の手段として利用され、犠牲を被ってはならない」という(考えでした)。そして、教職員会を作って(教職員会の)会長に納まり、(行政)主席や沖縄県知事になっていきました。この過程で、僕は後援会の事務局長も兼ねて務めました。屋良先生が晩年、私にも託したものは、「復帰の中身を勝ち取るのは、君たちの大切な責務だよ」ということでした。復帰の中身は何かと言うと、核も基地もない沖縄です。屋良朝苗という人のことを、話す機会は滅多にないのですが、この機会に申し上げておくと、(屋良は)物理の先生です。沖縄でも戦前は、県立第二中学校などで教えていました。そして、当時の植民地、台湾の台南二中(でも教鞭をとり)、実績が評価されて、台南二中の教員から台北師範学校の教授になりました。差別されないような人間教育を、(屋良先生は)戦前の沖縄でも、青年の教育にあたった台湾でもやってきました。そして行政主席になり、沖縄県知事になって、屋良に仕えた我々との対話でも濁りがないのです。

 四六時中、沖縄のことや子どものことを(考えておられました)。復帰に向けて、平和憲法、教育基本法をもとに、それに向けて(取り組まれました)。(それらは)ただ、屋良先生ひとりの思いだけではなく、共通する思いを持っていた人たちがいたのです。ひめゆり学徒引率教師の仲宗根政善先生をはじめ、たしか5~6名の教育界代表が、本土の教育視察に行きました。教育視察に行って、その報告会として(教職員会結成前の)1952年1月に、第3回校長会を開きました。仲宗根政善先生をはじめ、他のみなさんが異口同音に、戦後の民主教育体制の中で学ぶ本土の子どもたちの状況を、全島第3回校長会の中で報告するのです。(その時)屋良朝苗が火を吐くような演説したということが、文章に残っています。屋宜という校長先生が、この熱気に包まれた状況を琉歌に詠んだそうです。屋良先生が、これ(琉歌)をものすごく大事にしました。主席公選の時にも、このように口ずさみました。「もし、アメリカが(我々の要望を)聞かないならば、沖縄をすべて担いで祖国(日本)へ渡ろう」、それぐらいの気概を持っていたのです。あの復帰への思いが実は、沖縄教職員会に私は1960年から入って屋良先生に仕えましたが、(思いは)引き継がれているのです。

若い世代に伝えたいこと

自分の原点にあるもの

 これは、私なりの一つの原点。そして、沖縄戦の体験者たちが、辺野古で頑張っておられるのはなぜか。やはり、沖縄戦だと思います。沖縄戦体験です。(戦争体験者は)次第に少なくなり、1割を切ったと言われています。「戦世ヌアワリ、ワシテワシラリミ(戦世の哀れ、忘れようとしても忘れられるものではない)」「イチヌユニナティン命ドゥ宝(いつの世であっても命こそ宝)」。これは、世紀を越えて普遍的な価値を持つものです。ウチナー的な平和思想だと、私は思っています。(私の活動の)原点はそれです。

体験者から学び思いをつなぐ

 数は少なくなったけれど、沖縄戦の体験者がまだ健在ですから、その人たちの思いを是非たくさん聞いてほしい。民衆の目線でつくられたのが、現在の(県平和祈念)資料館ですから。そういうことを含めて、ひめゆり(平和祈念資料館)も、その他にもありますね。そういう多くの人間や施設で頑張ってこられた人たちの思いを、学ぶ場所がたくさんあります。たくさん学んで、我々の思いと繋げてほしいと思います。そういうことを含めて、沖縄の子どもたちにとって、近現代史の沖縄の視点からの見直し。これも大事だと思っています。

後世へ引き継ぐにあたって

 (戦後続く沖縄の課題について)まずは、諦めないことです。これは静かな時期もあるし、沖縄では「ウチリ」と言いますが、燃え尽きない火種、これは消しちゃいけない。決して諦めない、屈しない。「屈辱の日」というのは、僕の考えからすると、(沖縄が日本から切り離された)1952年4月28日は、全国民が「屈辱」という意識を持たないとダメなのです。この国は、(戦争の)概括や総括ぐらい行って、後世に引き継がないといけないのではないか。そうすると、アメリカとの関係が出てくるはずなのです。沖縄との関係も出てくるはずなのです。(当時の自民党)野中官房長官は、「政府の責任において、沖縄戦の調査をする」と言っていました。やらなかった、やれなかったということを含めて、思いつくことがまだたくさんあります。総括という言葉を、頭に入れておいてください。この国(日本)は、まだ総括をしていません。

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