イメージ1_祖国復帰大行進
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POSTWOR OKINAWA
POSTWOR OKINAWA
okinawa1945

北緯27度線を越えて

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  • 1940(昭和15)年生まれ
  • 嬉野 京子さん(うれしの きょうこ)

TIMELINE関連年表

1940
東京の蒲田に生まれる。
1959
桑沢デザイン研究所の夜間部で学ぶ。
1960
デザイン学校の授業の一環として、安保反対運動の国会包囲行動に連日参加する。
1962
桑沢デザイン研究所夜間部を卒業し、フリーの報道写真家となる。
1963
沖縄の祖国復帰を求める第1回海上大会を終えて鹿児島から東京に戻る行進団に、大井川から東京まで同行取材を行う。
1964
沖縄の祖国復帰を求める行進団(東京~与論)に参加。北緯27度線上で行われた海上大会も取材した。
1965
沖縄の祖国復帰協議会が主催する「第1回祖国復帰行進」に参加。途中、宜野座村漢那で米軍の少女轢殺事件をカメラに収める。
1967
12月、伊江島の団結道場起工式を取材中に米軍に住民とともに基地内へ連行される。その後、憲兵大佐の尋問を受ける。
1968
写真集『沖縄100万の叫び』を出版
2015
著書『戦場が見える島 沖縄―50年の取材から』を出版

STORY証言

証言者略歴

報道写真家・ディレクター。米国統治下におかれ、本土からの渡航が厳しかった頃に来沖し、沖縄の現状を写真を通して本土側へ伝えた。
沖縄の祖国復帰を求める行進や海上大会に本土側と沖縄側から参加し、多くの写真を記録として残している。復帰前の沖縄から現在に至るまで50年以上取材を続け、沖縄を見つめ続けている。

安保闘争時代に沖縄を知る

安保闘争の時代沖縄を知る

 1960年前後、日米安保条約の改定問題がありました。その頃は、日本全国から毎日のように国会議事堂周辺に人が集まってきました。だから、国会議事堂に行けば一番の勉強になるという事で、(デザイン学校の)授業で国会議事堂へ行きました。沖縄という所があることを、その時に知りましたが、まだ詳しくは知りませんでした。(1954年米国による)ビキニ環礁での水爆実験があって、(被爆した第五福龍丸の)無線技師の久保山愛吉さんが、被爆で亡くなったというニュースがありました。私は、久保山愛吉さんのお墓参りに行きたいと思っていました。

 1963年5月初頭の記事だったと思いますが、1963年4月28日、沖縄が分断された北緯27度線の洋上で、本土側と沖縄側から船を出し合って海上大会が開かれました。そこで、沖縄側から預かったいろいろな物を持って、東京に向かう行進が始まったというニュースが新聞に出ていました。鹿児島から出て何日には福岡に着いて、大阪には何日に着いて名古屋や静岡に入って、その行進団が、焼津の久保山愛吉さんのお墓に立ち寄ると書かれていました。それで、焼津の先の大井川の橋のたもとで待っていれば、その行進団に着いて行けば、久保山愛吉の墓に行けると思いました。大井川の橋のたもとで待っていると、その行進団が来たのです。それで、私は自己紹介をして「写真撮らせてください」とお願いし、(私も)行進団と一緒に歩くことになりました。その行進団は、1日に多いところでは10カ所ほど、辻々で説法しながら歩いていました。「沖縄はこんな状況なのです」と各地で演説をしていました。沖縄から青年が2人参加していて、交代で色んな話をしていました。その話は、思わず「嘘でしょ」と驚いてしまうような内容でした。

行進団に加わり海上大会へ

 1964年に東京を出発し、日本海側を南下して沖縄へ向かう行進が予定され、前の年に行進団の団長をしていた人(中澤ひろや中野区議員)から、「僕はその団長として行くけれど君も来るかい」と電話があったので、私は「同行させてください」とお願いし、行進に参加することになりました。4月28日に東京を出発して110日間かかりましたが、ずっと日本海側を南下して九州に入り、太平洋側から行進してきた人たちと福岡で一度合流しましたが、九州の中は西海岸と東海岸に分かれて歩いて、鹿児島で合流して一緒に船に乗り、奄美大島へ渡りました。奄美大島の中も行進して、徳之島でも行進して、沖永良部島でも(行進しました)。そして与論島に着くと、そこでも行進しました。その後は、(海上大会の)前夜祭に参加しました。そこで、本土側の与論島からかがり火を焚いて、沖縄側は辺戸岬でかがり火を焚いて、翌日の大会に向けて合図を送っていました。

 翌日の8月15日は、船に乗って北緯27度線の海上に行き、北緯27度線で(沖縄が)分断されているというのでロープか金網があるのかと思っていましたが、実際は何にもなくて、双方の船は波にもまれながら往来していました。海上大会は本当に凄かったです。(北緯27度線は)地図上に引かれた分断線だと分かったので、できれば沖縄に行きたいと、その時に考えていました。

沖縄で祖国復帰行進に参加

米国統治下の沖縄へ渡る

 翌年の1965年、今度は4月28日に海上大会を行うことが決まって、本土側では第3回目の行進になりますが、沖縄側としては第1回目でした。前の2回は、祖国復帰協議会としても本土に呼応して実施したかったけれど、祖国復帰協議会は緩やかな団体で、いろんな考えの人がいたので「そんなことをすると米民政府に弾圧される」とか、いろんな意見があってできなかったのです。第3回目となる1965年の行進は、祖国復帰協議会としてやるべきだということになり、祖国復帰協議会として初めての行進がありました。

 その1965年は、米軍による北ベトナムへの攻撃(北爆)が始まり、要するに沖縄がベトナム戦争の完全な前線基地になっていました。その沖縄を取材しようと、各社が渡航の申請をしていました。入域許可証という海外旅行時のビザのようなもので、その申請をいろんな人たちが行っていました。当時の私からすると大先輩のカメラマンたちで、月刊誌のグラビア担当カメラマンや新聞社の報道カメラマンなど、私の知る人だけでも15〜16人は申請しても許可が出ませんでした。その中の一人がデザイン学校時代の先生で、(彼は)1ヵ月待たされたままだったので、確認に行く際に私もついて行きました。彼が受付の方に、1ヵ月以上も待たされている理由を尋ねると、受付の方は、「失礼ですが、牧師さんでいらっしゃいますか」と聞いてきました。「もし牧師だとしたら、何でしょうか」と私は聞き返しました。今の時代、お坊さんも含めたあらゆる宗派や宗教の聖職者、それから教職者、報道関係者、この3つの職種の人は、申請受付の段階から審査せずにカウンター下の箱に入れるので、待っていても許可は出ないという話を、私は受付の方から聞き出しました。その情報をもとに、私は職業をグラフィックデザイナーとして申請し、そうしたら申請が通りました。どうせ沖縄に行くのなら、祖国復帰行進と一緒に歩けば沖縄の隅々まで見て歩けるので、それに合わせて行こうと、行進団の出発する2日前に沖縄に着きました。鹿児島から出る沖縄行きの船は、大体夕方に出ていました。翌日の朝、沖縄が見えてくると、沖縄出身たちがはしゃいでいました。

 到着後、イミグレーション(入国審査)は通過できたけれど、税関の方が私のカメラバッグの中を見るなり勢いよく閉めて、その人は真っ青な顔で震えていました。「こんなにカメラを持ちこんで、沖縄に上陸できると思ったのですか」と言われたので、私はどうにか思いつくまま言い訳をまくし立てました。「話は分かったが、これを通すわけにはいかないよ」と言われました。私は「参ったな」と思いながら、また同じ言葉を最初から繰り返しました。税関の方は「君の言うことは分かった、目をつぶって通してあげるけれど、このバック開けてカメラを出す時は周りをよく見なさい。アメリカ人、米軍関係者がいないか、よく注意して見なさいね。カメラを出して撮りたいものを撮ったら、すぐに仕舞いなさい」と、税関の方はそう言って私を通してくれました。

行進団と一緒に南部から北部へ

 沖縄に着いた2日後には、行進団に参加しました。行進団と一緒なら安心だと思いました。糸満の摩文仁を出発して、2日か3日目には那覇に入り、4日目に那覇を出発しました。今の国道58号線は、当時は軍用道路1号線といって、中央分離帯もなく真っ平らな道でした。驚くほど広い道路でした。(何故かというと)基地の滑走路が使えなくなった時に、非常事態時の滑走路として使えるように造られた道路でした。その日の出発時に、行進団の方から「嬉野さん、今日はカメラを預からせてください」そう言われて、カメラを取り上げられました。カメラは、宣伝カーに乗せておくことになりました。そして行進団が歩き始めると、真っ昼間からライトを点け、サイレンを鳴らしながら、米軍トラックの車列が通って行きました。私がすれ違いざまに米軍トラックを覗き込むと、トラックの荷台には武装した米兵が大勢座っていました。「カメラがあったら撮れたのに」と私が悔しがっていると、一緒にいた行進団の方が「あれは那覇軍港に向かっています。軍港から船に乗ってベトナムに向かうのですよ」と教えてくれました。カメラを取り上げられたその日は、「今日はずっと、道の両サイドは基地が続きます。基地だらけで危ないから、カメラはダメです」そう言われて、私はカメラを取り上げられました。「ああ、カメラがあったら」と地団駄を踏んで、悔しい思いをしました。

米軍の少女轢殺事件をカメラに収める

 (行進団は)宜野座村漢那区の漢那小学校に来ていました。ちょうど、お昼休憩でお弁当を食べていたと思います。行進団はその時、30人ほどでした。外が急に騒がしくなって、先生たちが「何があったのでしょう。何か騒いでいますね」と話していました。そのうち、「嬉野さん何処にいますか」という声が聞こえたので、私は「ここですよ」と返事をしました。「事故です。女の子が即死です」と(その場所に)呼ばれました。私は呼ばれて(その場所に)走って行ったものだから、現場に着くと写真を撮ろうとしました。そうすると、「ダメです」と行進団の人に止められました。私は、写真を撮るために呼ばれたと思ったのですが、「嬉野さん、ダメですよ」そう言われて止められました。「どうしてダメなの」と私が尋ねると、「それはまずいです。こんな現場の写真を撮ったら、嬉野さんの命がありませんよ」と言われました。(轢かれた女の子は)少しも動きませんでした。その当時、沖縄の警察には捜査権さえ無いということを、前の年に沖縄の人から聞いて知っていましたが、だから、そのような現場の写真が無いのだと(理解できました)。本土で沖縄の人からそういう話を聞いた時には、そんな理不尽で酷いこと、基本的人権もないのかと憤り、「沖縄のことを何とかしなきゃ」とみんな思うのですが、何とかしたいと思いながら、身の回りの問題にかき消されて段々と忘れてしまうのです。それは、そういう現場の写真が(本土まで)伝わってこないからで、「絶対にそれを写真に収めたい」と私は思いました。でも、私の命に関わるからと行進団から止められましたが、「私の命と引き換えでも、この現場の写真を撮っておくべきです」と、私は行進団の方々に伝えました。行進団の責任者たちから「そのような写真を撮られたら、この行進団が弾圧を受けてしまう。行進が続けられなくなる」と言われました。行進団が続けられなくなるきっかけになるとしたら、私もまずいと思って少し引き下がりました。

 どう考えても目の前の状況を見ると、向こう(事件現場)に立っているのはトラックに乗っていた米兵だけで、「これは絶対に写真を撮るべきだ」と私は主張しました。その時、 (沖縄の)警察はまだ来ていませんでした。すると、行進団の責任者たちが集まって来て、私が写真を撮るための相談をしてくれました。撮影は許可されましたが、その条件として、絶対に動き回らないようにと言われました。通常、カメラマンは撮影の時に動き回るもので、ファインダーを覗いてポジションを探すのですが、それでも「絶対動き回らないでください」と私は言われました。私に撮影する条件を伝えた責任者が、「僕の後ろにぴたっと着いて(僕の)後ろから、少し前に移動するだとか、位置やどれくらいの歩数など、距離について後ろから僕に声をかけてください。そのとおりに動きます。カメラポジションが決まったら、僕の合図を待ってください」と言いました。そう言われ、最初は理解できませんでしたが、言われた通りにしないと写真が撮れないので、私は言われたとおりにしました。カメラポジションを決め「ここでお願いします」と言うと、「僕が合図するまでカメラを出さないでください」と言われて少し待っていると、「はい、今です」と言われたので、私はカメラを出し1枚撮りました。撮影する条件がもう1つあって、撮影したフィルムは祖国復帰協議会にすぐに預けるということでした。(撮影のあと)カメラのフィルムを巻き戻そうと思い、カメラのカウンターを見ると、あと2枚撮れたので、(轢かれた女の子の)お父さんが駆けつけた時と、それからお母さんが駆けつけた時に撮りました。お母さんが来た時には、遺体は救急車に乗せられて運ばれた後でしたが、私は合計3枚の写真を撮影してフィルムを巻き戻し、それを復帰協議会に預けました。そのフィルムが、その後どのルートを通ってどうなったのか、海上大会で本土側に渡されたのか、私は全然知りませんでした。(現場には)行進団も村の人たちもみんな来ていました。あの娘は村の子なので、(集まった人たちで)その道を塞いでいるような状況でした。沖縄の警察が来て、まずやったことは、「皆さん、両側に寄ってこの道路をあけてください。この道路は北部訓練場に繋がっている道路ですので、米軍車両を通すため、皆さん道路を空けてください」と言ったのです。あんな事件が起こった後なのに。でも、それは沖縄の警官が悪いのではなく、沖縄の警察がやれることはそれしかないのです。しばらくすると、米軍の救急車が来て、女の子の遺体を救急車に乗せて連れて行ってしまいました。私たちも、北緯27度線に向かって行進を続けなければならず、そこで小さな集会を開きました。犠牲になったあの子の気持ちも含めて、本土側に伝えることを確認して行進を再開しました。

 行進団が歩き始めると、「嬉野さん、遺体が基地の中に連れて行かれたら、後で引き取りに行くのが大変です」と(行進団の方が)教えてくれました。被害者側が引き取りに行かなければならない上に、「このような事由でご迷惑かけておりますが、基地の中に入れてください」という、そういった手続きが必要で簡単ではないということでした。(その場で)遺体を渡さないこともできたはずだと、私は思いましたが、「(日本から)分断されているというのは、こういうことか」と、そこで痛感しました。その時は、涙が流れてきました。

沖縄~本土間の海上大会に参加

 辺戸岬に向かっている時に、またサイレンの音が聞こえたので、何だろうと思って見てみると、戦車がばく進してきました。軍用道路1号線のときは、行進団にカメラを取り上げられていたけれど、(辺戸岬へ向かう)その時、私はカメラを持っていたので、行進団も含めてその戦車を撮ろうと思い、道を横切って写真を撮りました。それで、再び歩き始めて辺戸岬に着きました。

 かがり火大会で与論島側の火が見えると、みんなで喜び合いました。辺戸岬は、今は整備された公園ですが、当時は何にもないただの草っ原でした。前夜祭が終わった後の集会では、トラックを3台並べて舞台を作り、祖国復帰協議会の各参加団体の代表者たちが、その舞台で挨拶をしていました。「私にも挨拶させていただけますか」と尋ねると、「お願いします」と返事をもらい、特別に話をさせていただきました。摩文仁から行進団と一緒に歩いてきたこと、村々や各集落で歓待を受けて、お茶をいただいたり、公民館に泊めてもらったり食事もいただいて、皆さんと交流しながら沖縄の人たちの生活を見て、本当に大変だと思ったこと。そのような人権問題が許されるわけがなく、やはりこれは、沖縄県民一人一人が声を上げて大きなうねりになれば、絶対に祖国復帰を認めざるを得なくなる。その時まで「みんなで声を上げましょう」と、そういった話をしました。目の前で女の子が(米軍車両に)轢かれた現場でのことを話すと、観衆は静まりかえってしまいました。「こんな演説でいいのか」と思いながら、私は一生懸命に喋りました。

 4月28日の海上大会から那覇に戻り、休憩をして、5月1日 メーデーの日だったと思いますが、祖国復帰協議会による平和行進と海上大会の報告集会がありました。私がその会場へ行くと、ある男性が近づいてきて、新聞『赤旗』を持っていて(その男性がある記事を)私に見せてくれました。その新聞には、漢那小学校の前で轢き殺された女の子の事件の記事があり、現場の写真も出ていました。「あんたが撮った写真だろう」と言わんばかりに、(その男性は新聞記事を)私に見せてくれたのです。それからはもう、私はとても怖かったです。(東京に戻るまでの)残り1週間は、周りを見ながらも、いつ拘束されるかと怖い思いをしながら那覇市内で過ごしました。その後は、撮影にも出歩けず、挨拶回りだけ済ませて東京に帰ったと思います。それが1965年です。

伊江島の取材現場での出来事

伊江島の現状を取材

 1967年に、2度目の沖縄入りをしました。前回は行進に参加することが目的だったので、沖縄の実情をいろいろと知る事ができましたが、写真が思うように撮れてないということで、1967年に機会があればもう一度、沖縄へ行こうと思っていました。(当時)沖縄の祖国復帰運動が、沖縄と本土で盛り上がっていました。私が沖縄で行進に参加した時は、本土では、東京から出発して行進するコースと、それから、北海道を出発して行進するコース、全部で4つの行進コースで沖縄返還を訴える運動がありました。本土でも、沖縄に心を寄せる人たちが出てきて、運動としては広がりを見せたのですが、それをもっと広げていこうとしていた時期でした。もっともっと沖縄の実情を知らせる写真が必要であり、写真集を出して多くの写真を全国民に届けようということでした。それで、「絶対に伊江島へ行こう」と私は決めました。

 当時、伊江島は島の63%が基地になっていました。沖縄本島でもそうですが、戦後、住民が収容所から帰って来た時には、那覇も米軍基地だらけで、基地しかありませんでした。伊江島も、そのひとつでした。真謝と西崎、この2つの集落は、米軍基地の金網がなくても基地として使われていました。その中で生活をしている住民たちがいて、(その土地は)自分たちの土地だからと、畑作業をしている人たちの生活を知るためには、伊江島に行くべきだと思い、私は連絡をとりました。(12月6日の)団結道場の起工式に合わせて来るようにと言われたので、私は楽しみにして(伊江島に向かいました)。(伊江島に着くと)港から上がって右に入ったところに、阿波根しょうこうさんは小さなお店、マチヤグヮーを営んでいて、私はそこへご挨拶に行きました。お店の端っこに2眼レフのカメラがあって、私はそれを見て驚き、「これどうしたの」と尋ねると、「僕のカメラですよ」と阿波根さんは答えました。なぜ、そんな立派なカメラを持っているのか聞いてみると、「嬉野さん、こんな理不尽なことが許されるわけがないでしょう。勝手に米軍が基地を作って、治外法権的に勝手なことやって、世界がこれを許すわけがないから、絶対にいつかは裁判になるはずだ。その時に証拠として提出するために、僕は写真を撮っているのです」阿波根さんはそう答えました。本当に凄い人です。

団結道場起工式の現場で

 団結道場の起工式ということで、横断幕を張って準備が進められました。那覇から来た参加者は、団結道場を設計した1級建築士の水間たいらさん、それから、私とカメラマンの知念あきらさんでした。知念さんは、琉球政府が発行する腕章をしていたので、琉球政府が認めているカメラマンと一緒だから、米軍が来ても大丈夫だろうと、私はすごく安心していました。琉球政府に守られている気がしていたのです。起工式が始まると、記念写真を撮ったりしました。鍬入れの儀式が始まると、米軍もそこで何かあると気づいたようでした。米軍にとっては困ることで、(団結道場の建設場所は)そこは金網の外であっても、米軍としては恒久建築物の建設を禁止している場所でした。要するに、島の63%を占める基地の中に入っていました。島の63%を占める基地の中で、米軍が何をやっているかというと、上から爆弾を落として射爆演習するのです。そのため、射爆演習場がありました。起工式が終わり、鍬入れをしようとしているところに、嘉手納(基地)から12人の憲兵隊がやってきました。憲兵隊たちは、カービン銃を後ろにクルっと回して、4人1組で住民の手足をそれぞれが持って、荷物のように住民をトラックに放り込んでいました。伊江島の人たちは無駄な抵抗はしないので、だから暴れもしませんでした。「人間だぞ。荷物じゃないのだからやめろよ」と言いながら、私はシャッター切ってその様子を撮影していました。

 住民を乗せ終えたら(憲兵隊は)、今度は、琉球政府の腕章をはめている知念聰さんが取り囲まれました。まず、知念さんのカメラが取り上げられたので、これはまずいと思い、私はすぐに自分のカメラを草むらに隠しましたが、それは見つかってしまいました。憲兵隊が私のところに来て、(肩にかけていた)カメラは取り上げられて、私は兵隊からアッパーカットを食らいました。米軍はカメラを取り上げて、無理やりフィルムを感光させました。カメラを開けて、フィルムを使えなくしたあとに返すのですが、私は残りの無事なフィルムだけは助けたいと思ったので、抱え込んでしゃがみ込みましたが、どうしていいか分かりませんでした。

その日の出来事を伝えるために

 当時は、琉球新報も沖縄タイムスも夕刊がありました。それで、私は阿波根さんに「伊江島で、このような不当な出来事が起きていることを、2つの新聞社に電話してください」とお願いしました。「なぜ、そうする必要があるのか」と阿波根さんは仰ったので、(その出来事を)知らせるためだと、私は伝えました。「それを見てきたあなたが、電話しなさい」と言われたので、「本土から来た女が知らせても、どうにもならない。伊江島でずっと頑張っている、阿波根昌鴻さんが伝えることが重要です」そう言って私が説得すると、阿波根さんは電話をしてくれました。ラジオでも伝えてもらった方が良いと、ラジオ局にも連絡してもらいました。今までは、米軍が勝手なことやっても、翌日以降に報道されていたものが、その日のうちに沖縄全体へ米軍の不当な行為が伝わったのです。

沖縄から北緯27度線を越えて

米軍側の発表と沖縄の人々の協力

 (伊江島から那覇に戻り)ある夕刊を目にしました。米軍による新聞発表で、私は指名手配になっていました。「伊江島で、農民と米軍の間に些細な諍いがあったと報道されたが、そのようなことは何もなく、(先の報道は)間違いである」と、(沖縄の報道を)否定するものでした。それに加えて、「但し、その時に、農民が挙動不審な女を連れていた」と(米軍は)そのような内容で発表していました。それによって、私は(米軍から)指名手配されました。(その記事を見て)私は震えが止まりませんでした。どうにかして震えを止めたかったし、怖かったです。米軍側の一方的な発表だけれど、これはやばいことになったと私は思いました。沖縄に迷惑かけたくないので、何とか脱出しようとしました。沖縄の人たちの中でも、大ごとにならないように協力体制をとってくれました。

沖縄から本土へ北緯27度線を越えて

 (沖縄の関係者による)協力体制が整ったので、那覇空港に行って(出入国管理を)突破することになりました。入域許可書と航空チケットを係官に出したところ、渡航禁止者の資料が来ていましたが、(係官は)届いている資料と私のものを念入りに見比べていました。係官は、私を通すべきではないと理解し、顔をあげてみると、私の後ろには十数人もの人たちがいて、沖縄では誰もが知る有名な人たちが、私の後ろに横1列になってついて来てくれました。係官は、その人たちと目が合ってしまい、私を逃がそうとしていることを理解したようでした。私を見逃したら、チェックミスだとあとで咎められてしまうので、係官は書類を見比べてしばらく考えていました。そして、私の後方にいる一人ひとりの顔を見ながら係官は、自分があとで咎められることがあれば、その人たちが自分を守ってくれると理解したようでした。最終的に私を通してくれました。あの時は、本当に怖かったです。(伊江島脱出からずっと)追われていて、最後が特に怖かった。私は飛行機に乗って離陸した途端に、涙がとめどなく溢れてきました。北緯27度線を越えるまでは、米軍の要請で飛行機が戻される可能性もありました。そういうアナウンスがあるかもしれないと心配していたので、北緯27度線越えると同時に涙が出てきました。私はこうして逃げることができたけれど、沖縄の人たちには逃げる場所がないのだということを、自分がそのような目に遭って初めて気が付いたのです。

阿波根昌鴻さんの対話と非暴力の教え

阿波根昌鴻さんの対話と非暴力の教え

 (阿波根さんは)とても物静かで、静かな物の言い方をする人でした。米兵に対しても、人間として向き合っていました。私は、阿波根さんをすごい人だと思いました。一人の人間としてちゃんと向き合っているので、(例え不当な扱いでも)兵隊として命令を受けてやっていることだと、そのことをよく理解されていました。だから、行き交う兵隊たちにも声をかけて、「元気にやっているかい」と声をかけていました。そうやって親切に言われると、米兵も「OK」と返していました。「グランマ、グランパはどうしているかい」と、必ずそういうことを言っていました。そうすると、米兵は故郷の家族を思って、一人の人間に戻るのです。「こんな所で大変な思いするよりも、家族の所に帰った方がいいよ」とか、そのような話をしていました。(阿波根さんが)米兵に対しても、そんな接し方をしているとは、私には全然思いも寄らないことだったので、「すごい人だな」と思っていました。

 相手も人間なのだということを認めたうえで、伊江島の人々の闘いがみんなの共感を呼んだのは、非暴力ということでした。特に、沖縄では空手をやっている人もいるので、それは武器を持たずに戦える、或いは防御のための武術だけれど、米兵にしてみれば怖い場合もあります。だから阿波根さんは、絶対に腕を肩よりも上げてはいけないということを徹底していました。何か抗議に駆けつける時も、農作業中に住民に何かあったと連絡が入れば、みんな鍬や鎌を持ったりして駆けつけますが、「絶対にそれはダメだ。そこに置いていらっしゃい」と、それを阿波根さんは徹底していました。だから、(伊江島の闘いは)みんなの共感を得て、自分たちの農業を守るために頑張っているのだと、そういう考えを徹底させたすごい人でした。

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